ゴジの発言

≪私にとって超能力とは何か?≫  長谷川和彦

≪監督にとって『サイキック(ストレンジ)パワー』とは何なのか?
それにいつから関心を持たれ、それをどのような形で映画にしようと試みられ、そして
そうした永年の関心が今回の『死神』にどういう形で流れ込んでいるか?という疑問
です。≫

この伊藤さんの疑問に丁寧に答えないと、セッションは前へ転がっていかない……結
果、
無駄な誤解を生むだけだと理解しました。
例によって少し長くなるかもしれないが、以下一生懸命やってみよう。我慢して読んで
ください。

1946/1/5生まれの私は、世代的には「戦後民主教育/科学教育」のごく平均的な申
し子です。「神国日本」も「八紘一宇」も後年の「知識」としてしか知りません。
その結果、「軍国少年として敗戦を迎えた」一世代上の人たちとは、もろもろの価値観
が、現在にいたるまで大きく違うようです。
彼らにとっては「青天の霹靂」「目から鱗が落ちる」ような体験であった「民主主義/
科学」も、私たちにはインパクトの無い「当たり前のルール/事実」でした。
教える側が「戦って獲得した価値観」ではなく「負けて受け入れた価値観」だっだのだ
から、当然なのでしょう。
一世代上の彼らが持つ価値観……そしてそれはこの国の現在の「常識」でもあるのだけ
ど……「民主主義」と「科学」(これがセットになっているのが歴史的現象として、な
かなか可笑しい)に対する「信仰」は、私にはいまだに感度の悪い「盲信」のようにし
か感じられません。

「人間て何なんだ?・・・生きるとは?・・・死とは?・・・」などと、御多分に漏れ
ず考え始めた10代の中半からは、いろんな小説を読みました。
ヘミングウェイ、カフカ、サルトル、カミュ、ニーチェ……日本では大江健三郎、安部
公房が圧倒的に面白かった。
1964年、大学一年の時に読んだコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』は、私の
乱読に一つの指針を与えてくれたと言う意味で≪バイブル≫でした。不良願望の強かっ
た私には『アウトサイダー』という言葉の響きが堪らなく甘美だったのでしょう。
「なあんだ、『実存主義』かよ。早くそう言えよな」みたいな(笑)。
ドフトエスキーやジョイスも、『アウトサイダー/実存主義』の文脈で読むと解ったよ
うな気がしました。
当時の私の認識は≪人間は所詮は死ねば「炭素」と「水素」に分解されるだけの物質的
な存在に過ぎない。そんな存在に「善」や「悪」などあろうはずもなく「快」と「不
快」
があるだけだ。「死」というどうせ圧倒的に襲ってくる「事実」を、怖れたり過大評価
することすら笑止千万だ。「個体」の「快楽原則」のままに生きて死ねば、『実存』す
ればいいのさ。……ニーチェくん、「神」なんかとっくの昔に死んでいるのだよ。≫
という恐ろしく稚拙かつ独りよがりなものでした。
前にも書いたように『恥ずかしくもナルシスティックな夭逝願望』の持ち主であり、人
一倍「死」に敏感だった私には、こう考えることはきっと「楽」だったのです。

その後、半ば偶然のように念願だった映画の世界に入ることが出来ました。
大島渚と今村昌平が競うように力作を連打している時代でしたが、私には大島渚の映画
は「観念過多」に感じられ、イマヘイ映画の「人間の可笑しさ」のほうが数等魅力的で
した。そのイマヘイさんの『神々の深き欲望』の現場に付くことが出来たのですから、
ラッキーな活動屋スタートだったと思います。
『神々〜』は「村落共同体」「土俗信仰」に人間存在の意味を探ってきた今村監督の集
大成というべき作品で、今思えば、このセッションの問題点でもあり私の積年の疑問で
もある≪人間と「生と死を超越したシュールな存在」の関係≫を問う作品でもあったの
ですが、『実存』に目覚めていた私には(笑)「神々」という言葉がすでにバツでし
た。
(ちなみに『神々の深き欲望』の最初のタイトルは『パラジ/神々と豚々』でした。
「パラジ」は「血縁共同体」の意味)
「いまさら柳田国男でもないだろうよ、オッサン」と、ろくに柳田国男を読んだことも
無いままに、生意気に鼻をふくらませていた自分を恥ずかしく思い出します。

その後、ダイニチ映配末期の日活で臨時雇いの助監督をやり、ロマンポルノに移行して
からは「ゴジも字くらい書けるだろう?」と脚本を書かされたりするようになりまし
た。
神代辰巳監督『青春の蹉跌』の脚本執筆では、おおいに後悔することが二点ありまし
た。
一つは「いつか、自分が監督する映画で素材にしてやろう」と思っていたアメリカン
フッ
トボールを、苦し紛れに使ってしまったことです。アメフットだけでなく、自分の「家
庭教師体験」なんかも殆ど生のまま書いてしまいました。石川達三原作の主人公が、あ
まりに感情移入できない「他人」だったので、なんとか自分に引き寄せようとの苦し紛
れの行為だったのですが……。
神代監督は、プロではない若者に「体験的在庫」を吐き出させる名手だったようです。
後悔したもう一点は、ラストで主人公を殺してしまったことです。
どんなドラマも主人公を殺してしまえば「終われる」わけで、そんなイージーな方法論
は誰よりも軽蔑していたはずなのに、結果、自己投影が強くなりすぎた主人公を正視し
きれず「死んでしまえ、こんなヤc」と殺してしまいました。
「グシャと骨の折れる音……」のト書きを生かしてくれたクマさんには感謝しました
し、
井上堯之さんの音楽にも助けられて、映画は成立していましたが、「二度とこの手は使
うまい」とも思いました。
今にして思えば、「グシャと骨の折れる音……」という即物的なト書きにこだわった2
8歳の私は、「死」の向こうに「無」しか見ようとしない「唯物的死生観」の人間だっ
た……というより、そうあろうとしていた……ようです。

『青春の殺人者』は、田村孟さんの良くも悪くも「観念的な脚本」との格闘でした。
孟さん的リアリズムで書かれた冒頭の「母親殺し」は、「このまま撮れる、撮りたい」
と、悩める新人監督に思わせる『力』のあるシーンでした。
しかし第一稿の後半は、主人公が同級生たちと浜辺で「親殺し」の意味について議論す
るというディスカッション・ドラマで「孟さん、この映画、『創造社』じゃないんだか
らさあ……」と反対して喧嘩になり、結果、決定稿が無いままにクランクインしてしま
いました。
気を取り直したらしい孟さんから撮影現場に「水谷豊の胸に『不動明王のペンダント』
をぶら下げておいてくれ」という連絡が入り、意味不明なまま急造のペンダントを付け
させて撮影を進めました。クランクイン20日後に届いた台本には、「親殺しの主人公
が『不動明王』に自己昇華する」ための小道具としてペンダントが使われていました
が、
「そんな屁理屈、俺の映画には必要ない」と却下しました。
『殺人者』を丁寧に見れば、編集で落としきれなかった『不動明王のペンダント』が、
豊の胸に残っているはずです。
≪生と死を超越したシュールな存在≫の具象であったはずの『不動明王』を拒絶した私
が、では「唯物的死生観」に徹してあの映画を撮っていたかというと、そうでもなかっ
たようです。
『死人の見た目』と称して、風呂桶に入れた父親の死体の「見た目」をしつこく長廻し
した記憶があります。風呂の蓋を閉じてしまえば、ただの黒い画面なわけで、「オカシ
イよ、そんなに長い『黒み』は!」と反対するスタッフに「ウルサイ!これで良いん
だ、
俺の映画は!」と怒鳴り返したりしました。
あの映画の私は、『両親殺し』というキツイ題材と格闘しながら、「死」の向こうに
「何か」を見たく思っていたのでしょう。

『太陽を盗んだ男』での、このテーマに関するウロウロは掲示板に書きました。
(以下、再録)

〇『太陽を盗んだ男』の≪殺しても殺しても死なない≫ラストの山下警部を造型された
時、山下=サイキックパワーの持ち主、という意識はありましたか?

●全くありませんでした。「幽鬼のような」「仁王のように」等のト書きを書いている
時は「阿修羅だ。死なない弁慶なのだ」と、思っていました。撮影現場でテストを繰り
返すうちに『さあ、死ぬぞ、9番』という山下警部の最後の台詞を、文太さんが『さ
あ、
行くぞ、9番』と言いたいと訴えたとき、『よし、文太さんは弁慶になった』と嬉し
かっ
た。≪牛若丸を抱きかかえて、「あの世」へ翔ぶ弁慶≫です。
『死ぬぞ』→『行くぞ』は、「道行き/情死」の意味を明快にしただけでなく、「死=
お終い」という価値観を超えてくれたと思ったのです。
編集/仕上げの作業中、大半のスタッフは≪殺しても殺しても死なない山下警部≫に
「客が笑っちゃうよ、これじゃ」と猛反対でした。
私は「笑わば笑え。これくらいやらんと、ワシの気分は伝わらんのじゃい」と完全に開
き直っていましたが、「でも、失笑だけだとツライなあ」と、内心不安でもありまし
た。
結果、劇場での反応は「失笑をしのぐ爆笑/哄笑」であったと自負しています。
私にとっては、それで「正解/OK」なのです。
≪サイキックパワー≫という言葉で考えなかっただけで、私の「この方向で人間/存在
を把握したいという欲望」は、すでに意識下に存在していたようです。

今、強引に整理して考えると、『太陽を盗んだ男』は「半端な唯物的死生観でウロウロ
している主人公城戸誠/ニヒリストにもなれない」に「仁王のように立ちはだかる不死
身の男・山下警部」をぶっつけて「さあ、どうなるんだ?勝手に感じてくれ」と投げ出
し、開き直った映画……なのでしょうか。

『太陽を盗んだ男』のあと、「さあ、次は何を撮るんだ?」と企画を考えるのですが、
なかなか絞り込めません。コケた映画を撮った監督には、いつも状況は厳しいもので、
『連合赤軍』が撮れそうな気配なんか皆無でした。そうした外部的状況とは別に、『太
陽〜』で投げ出したままになっている内面的問題……人間て何だ? いったい何処から
来て、何処へ行くんだ?……という疑問と、今度の映画ではきっちり勝負しなきゃイカ
ンぞ、というマジな思いも強まってきました。

映画製作の新しいシステム作りのつもりで始めたディレクターズカンパニーに、ある
「新興宗教」に真面目に帰依している監督がいました。彼と話してみても、なかなか疑
問は解けワせん。奈良出身の彼は、高校時代にはすでに仏門を叩いて思索を始めたよう
な宗教的人間であって、ごく平凡な「檀家宗教=無宗教」の家庭の子供であった私と
は、
拠って立つスタンダードが違いすぎるのです。
「引きこもり」のガキであった5歳のころ、意味もなく庭の立ち木の枝を折ったりして
祖母に怒られた記憶があります。「和彦、モノにはみな、木でも、石でも、『神さん』
が居ってんじゃけえ、むやみに折ったり壊したりしちゃあイケンのぞ」と、いつになく
厳しい口調で叱る祖母の言葉は妙に説得力があって、「『神さん』かあ、うんわかっ
た」
と素直に聞き入れたものですが、この程度が私の「全宗教的体験」なのだから話になり
ません。「新興宗教」に帰依する彼が、つい自宗派と教祖の優越性を説くのにも違和感
がありました。「これなら、お祖母ちゃんが言った『神さん』のほうが、俺にはわかる
なあ」みたいな……。

「神」を外在化させるからオカシクなるので、「人間」が「神」なんだと考えてみよ
う。
「石っころ」も「木」も「風」も、みーんな「神」なんだ……いわゆる宗教で権威化さ
れた「神さま・仏さま」じゃあなくて……じゃ「八百よろずの神」かよ?「神道」じゃ
ないか……などと愚にもつかない自問自答をしているころ、ある雑誌の編集者が「監
督、
そんなこと考えてるんなら、一度会っといたほうがイイですよ」と紹介してくれたのが
超能力少年(すでに22歳の青年だったが)清田益章クンでした。
「スプーン曲げかよ?」と、自意識は唯物論者の私は半ば馬鹿にしながらも会ってみる
ことにしました。
それ以前の私の「オカルト現象」に対する気分は「疎外感」でした。
「そりゃ、UFOも飛んでるんだろうし、スプーンなんかも曲がるのかもしれないが、俺
には関係ないもんね。だって見たことねえし……」
要するに、一部の人たちにだけオープンされた、自分とは無関係な特殊現象……という
認識だったのです。

超能力者/清田益章のパワーは聞きしに勝るものでした。
スプーンは、曲げるなんて生易しいもんではなく、そのクビを手も触れずにポンポン飛
ばすのです。50センチも離れない場所で一部始終を見ていた私には、それが「トリッ
ク」なんかであり得ないことは明白です。
一瞬、吐き気を催すようなカルチャーショックでした。私の中に「常識」として存在す
る「科学」が音を立てて崩れていく……オーバーではなく、それほどのインパクトがあ
りました。
でも一番大きかったのは清田クンの言動・態度でした。『歌えて踊れる超能力者をめざ
す』という、まるでミーハー/お調子者の彼の態度は、まったくカジュアルで、お説教
臭いことは一切言わないのです。
「こんな力、誰でも持ってるんですよ。ボクはちょっとそれが強いだけで……ほら、監
督だってね……」と、私の手の中でもスプーンを曲げて見せながらニンマリ笑う「北千
住の寿司屋のドラ息子」は、完全に私の固定概念を変えてくれたのです。
もし彼が、何らかの宗教的言辞を弄したり、生半可な科学的説明をしていたら、きっと
私は拒絶反応を示していたのでしょう。
「スプーンが曲がったからって、いったい何の役に立つのか?」というルーティンの愚
問にも「世界平和だ、ピース!」とおどける彼は、「皆のパワーを合わせて、世界中の
核兵器を無力にしよう!」と力むユリ・ゲラーよりも、私にはOKだったのです。

その後しばらくは『超能力入門/研究』と称して、清田クンと遊びました。
我が家(団地の一室)に、まだ小学生だった息子と娘の友達を10数人集めて「スプー
ン曲げごっこ」をすると、4分の3以上の子供が簡単に曲げてしまいました。目の前で
清田クンのパワーフルなスプーン曲げを見せられ「誰でも出来るんだよ、やってごら
ん」
と始めているので、「疑う」という馬鹿な邪心の無い子供たちは、きゃっきゃと笑いな
がら、ボロボロ曲げるのです。一緒にやった私も少し曲がったのですが、「やっぱりア
レは筋力かなあ」と、姑息に反省してしまう駄目な大人だったようです。
「テレパシーごっこ」も凄かった。向かい合ったペアが交互に「1から9,0」までの
10の数字のどれかを「念」で送って当て合うのですが、息子と娘が9回連続ヒットし
たときには、また吐き気がしました。「確率」という概念の無い子供たちは、「もし、
これが偶然だったら、どれだけ凄いことなのか」という思考回路がないので、平気で遊
んでいましたが……。

その後も、喧嘩でヒビの入った私の肋骨を清田クンが20分ほどの『手当て』で治して
くれたり、彼の守護宇宙人であるらしい『ゼネフさん』の話を聞いたり、彼との付き合
いは続きました。
興味のある人は彼のホームページを覗いてみてください。
つい最近結婚式を挙げたばかりの彼も、もう37歳のオッサンで、昔に比べれば『能書
き』も言うようになったのだろうけど、私にとっては今でも貴重な友人です。
(清田さんのホームページ)<http://sakura.tokyobbs.or.jp/kiyota/index.htm>

私が「清田体験」から得た実感は、「人間ってまんざら捨てた存在でもないじゃない
か。
ひょっとすると、死んで炭素と水素に分解されるだけの存在じゃないのかもしらんぞ」
という、ある種の『人間/存在肯定感』でした。
『死後の世界』とか『宇宙の果ての存在』のようなものを、それまでのように「無か
あ?」
とためらいがちに想うのではなく、「リアルな何か」として肯定的/意欲的にとらえて
みるか……という感じです。
満天の星空を見上げて、「自分が『永遠』の中の塵のような存在でもまったくOKだ。
だって『永遠』=『俺』だと感じれるじゃないか」と泣く、みたいな(笑)……多分に
センチメンタルな至福感だと思ってもらってもいい。
「スプーン曲げ」という最も「非宗教的な体験」から私が得た実感は、実は「宗教的な
至福感」に近いのかもしれない。
また、唯物史観に端を発するという意味では、私のウロウロはコリン・ウィルソンが
辿っ
た道「新実存主義→オカルトへの傾斜」とパラレルなものなのかも知れません。
ただ、私は「宗教家」でも「哲学者/小説家」でもなく「映画監督」でありたかったの
で、なんとかこの実感を自分の映画の中で、具体的に表現したかったのです。

『PSI』に始まるその後の試行錯誤は、完成した映画が無いので語るのがとても苦しい。
でも台本になっているものは、近々に読んでもらえるようにしよう。(『PSI』『禁煙
法時代』『吉里吉里人』『ループ』は台本になっている。でもこれをネット上で読める
ようにするのが大変なんだよな。でも努力します。)
『連合赤軍』に関しては、今発売している雑誌『文芸』秋号(河出書房新社)でインタ
ビューに答えているので、そっちを読んで欲しい。

で、ついに、やっと、≪死神≫だが……。
≪しかし、監督が出された『死神』のカードはこのセッションにおいての正しくJOR
KER。私(とこのサイトの論客諸氏)はいま『死神』という限定されたイメージに自
縄自縛になっている気がします。『死神』を『サイキックパワーを持ってる奴』と拡げ
たら、「キーヨ」の具体が浮びはしまいか?と藁をも掴む思いで、監督にこのことをお
伺いしたいのです。≫

≪死神≫という呼称に問題があるのかな……とは思う。
でもそれは「悪魔」でも「天使」でも「幽霊」でも「亡霊」でも「精霊」でも「怨霊」
でも「お化け」でもなく……「死神」だったんだ。
この「口から出まかせ」の自分の直感を、私は信じたいように思う。
お互いの「学習」のために、以下に「日本大百科全書/小学館」から「死神」の項をコ
ピーします。

■死神
人を死に誘う神、または人に死ぬ気をおこさせる神をいう。死神ということは近世に
なっ
て歌舞伎(かぶき)芝居や花街の巷(ちまた)などで多く口にされるようになった。近松
門左衛門の浄瑠璃(じようるり)『心中天網島(てんのあみじま)』に「死神憑(つ)いた
耳へは、意見も道理も入るまじ」とあり、同じく『心中刃(やいば)は氷の朔日(ついた
ち)』に「同じくは今こゝでちっとも早うと、死神の誘ふ命のはかなさよ」とある。ま
た三好想山(みよししようざん)の『想山著聞奇集』に「死に神の付たると云(い)ふは
嘘(うそ)とも云難き事」という一節があり、ある女郎に死神が取り憑き客の男と心中
を遂げたことが記してある。
 現代においても死神ということは各地でいわれている。彼岸の墓参りは普通、入りの
日か中日にするが、岡山県下ではアケの日をサメともいって、この日に参ると死神に取
り憑かれるという。また入りの日に参ればアケの日にも参らねばいけない、片参(かた
まい)りをすると死神が取り憑くという。静岡県浜松地方では、山や海、または鉄道で
人が死んだあとへ行くと死神が取り憑くという。そういう所で死んだ人には死番(しに
ばん)というものがあり、次の死者が出ない限り、いくら供養されても浮かばれないの
で、あとからくる人を招くのだという。死神の背景には、祀(まつ)り手のない死者の
亡霊が仲間を求めて人を誘うという考え方があったと思われる。
〈大藤時彦〉(C)小学館

■死神
落語。明治20年代に三遊亭円朝(えんちよう)が、イタリアのオペラ『靴直しクリピス
ノ』から翻案したといわれるが、明治30年代に三遊亭円左が口演してからよく知られ
るようになった。「ステテコの円遊」はこれを改作して『誉(ほまれ)の幇間(たいこ)』
と題した。借金に苦しむ男が自殺しようとしているところへ死神がきて、死神が枕元
(まくらもと)にいれば病気は治らないが、足元にいると治るといって死神退散の呪文
(じゆもん)を教える。男はそれを知って医者になって大もうけをするが、遊びすぎて金
がなくなる。その後、金持ちの病人によばれ、枕元に死神がいるので寝床を1回転させ
て病人を全快させるが、だまされた死神が怒り、男は生命のろうそくの所へ連行され
る。
いまにも消えそうなろうそくが自分の生命だといわれた男は、ふるえながらろうそくを
継ぎ足そうとするが、ろうそくは継げず、「あ 消える」といってばったりと倒れる。
十分にくふうを凝らした六代目三遊亭円生(えんしよう)の「しぐさ落ち」が好評であっ
た。〈関山和夫〉(C)小学館

なあるほど……勉強になった。「死神」って、ずいぶん日本的な存在なんだな。それ
と、
なんだか「人間くさい」のがイイじゃないか?

≪死神の背景には、祀(まつ)り手のない死者の亡霊が仲間を求めて人を誘うという考
え方があったと思われる。≫

これって、そのまま≪「死神キーヨ」は皆でこの野球がやりたくて、下界に「ヤンチ
ャ」
しに降りたのだろう。≫にならないか?
……と、あくまで自分の発想にこだわることしか出来ないヤツだなあ、と自己批判し
た。
でも、「学習」をしたおかげで(馬鹿!百科事典を読んだだけじゃないか)ますます
「死神」で良いんじゃないか?という気がしてきた。

≪『死神』を『サイキックパワーを持ってる奴』と拡げたら、「キーヨ」の具体が浮び
はしまいか?≫

この伊藤さんの思考方法には、やや危惧を感じた。
それは連想イメージを「拡げる」のではなく、逆に「狭める」ことになりはしないか?
もちろん『死神』なのだから、『サイキックパワー』だって何だってアリなわけだが、
『サイキックパワー』という言葉を使った途端に、逆にイメージが限定される(『超能
力』→『スプーン曲げ』的な)ように思うのだ。(これは『PSI』〜『連合赤軍』にい
たる私自身の試行錯誤で痛感したことです。)
ここはひとつドーンとデカク、そして気楽かつ真摯に楽しんで「現代日本の説話、民
話、
おとぎ話をでっちあげるんだ」くらいの気分でどうだ?
もちろん、歌舞伎、浄瑠璃、落語などの「古典」に学ぶのは大切だろう。なあに、「古
典」と思うからカッタルイんで、もともと「庶民の娯楽」なんだから、面白く勉強にな
るはずだ。
(しかし、と言いながら自分が「古典」に全く無知なことに気付いて愕然とする。誰か
くわしい人、こっそり俺に教えてくれ。……ふと、川島雄三『幕末太陽伝』を思い出し
た。あの映画、この妄想・連想の役に立つか?……立たないな。)

外国映画のファンタジーのベースに『聖書』が存在するのは間違いない。
作り手と観客に「共通のテキスト」として『聖書』があるから、やつらは楽なんだ。
「悪魔」も「天使」も「ドラキュラ」だって、その共有・公認のグラウンドで好きに動
き回れるんだろう。

では、我々の「共通のテキスト」は何か?
「仏教」?……おそらく江戸時代or明治時代前半まではそうだったんだろう。だから
歌舞伎も浄瑠璃も落語も「娯楽」として存在できたんだ。・・・今は何だ???

そうか・・・「ゲーム」か?
「バット少年」だって「ポケモン」キャラクターを山ほど持ってたじゃないか。
・・・うーん、この連想・妄想は無駄にはならない気がするぞ。
「古典」は駄目でも、「ゲーム」なら一家言もった人が沢山いるだろう。だからこそ
「現代の共通のテキスト」になれるんだ。
(ちなみに私は「ドラゴンクエスト」しか知らない。大至急、いろいろ教えてくださ
い。
「プレステ2」だって何だって買って勉強するからさあ。)

伊藤さんも前に書いてたじゃないか。
≪そうした少年犯罪を「想像力において生き直した」リアリズム映画より、『エヴァン
ゲリオン』や『少女革命ウテナ』や数多あるゲームの方がむしろ、彼らを救い癒す言葉
の正しい意味での≪ファンタジー≫なのだろうな・・とぼんやり思うに留まりました≫

そうだよ。その現実認識はきっと正しいんだ。
だからそれを「マッド・ボンバーズ!」の中で「共通のテキスト」として使ってみよう
じゃないか。
もちろん『聖書』ほどスーパーな「共通のテキスト」は存在しないだろう。
でも「我々の意識下にある仏教的死生観」や「檀家宗教=無宗教的ルーティン」や「そ
こにルーツを持つ古典」を、「ゲーム」に掛け合わせる……という荒技は、意外な新発
見を生むかもしれない。
『死神』もまた、違うフェイスで現れてきたって良いんだから……。

ここまで書いて息が切れた。
あなたの「具体案」に満ちた「好返球」を待っております。
でも、「暴投」を怖れずに投げてね。

(2000/07/14 ・・・「マッドボンバーズ!」セッション より )