ゴジの発言

足立紳さんへ。『少年A/酒鬼薔薇』は映画になり得るか?
長谷川和彦

『一つだけの朝』シノプシス読みました。
頑張って「締め切り」を守ってくれてありがとう。オツカレサマ。

さて『一つだけの朝』は「その後の少年A」の物語だ。
主人公/山本真一は、あの『神戸小学生惨殺事件』の「少年A」をモデルにしているら
しいのだが、そう考えて良いんだよな?
このシノプシスでは、最後まで「主人公が犯した犯罪」の具体が描かれないのでそう想
像するしかないのだが・・・。
「いや、特に『神戸事件』でなくてもいいんです。『かつて少年期に社会を震撼させた
犯罪を犯した主人公』でさえあれば。テーマは『主人公は過去に何をしたのか?』では
なくて『その主人公は再生できるのか?』ですから」と貴方は考えているようだが、そ
のスタンスにこのシノプシス最大の問題点があるように思う。
作劇的に『主人公は過去に何をしたのか?』を伏せてドラマを進行させるのはアリだろ
う。ごく普通の作劇方法だ。しかし「最後まで伏せる」のなら、伏せるだけのテーマ的
な理由と意図が必要だと思うが、このシノプシスを読むかぎり、私にはそれが判らない。

主人公はある種の記憶障害を起こしていて、「事件」をしっかり自分がやった行為とし
て認識できずにいるのだ・・・と、書かれてあるようにも思える。しかし、それならこ
の物語は「自分探しの旅」であるわけで、その最後に見るものがノスタルジックな日常
の中の自分だけで良いわけはあるまい。ラスト、「40才代の男」が突然現れて主人公
を殴り殺すことでドラマは終るが、この強引な作劇も私には意味として伝わってこない。
葬式の祭壇に飾られた主人公の「最高の笑顔」くらいでは「静かな感動」は湧いてこな
いのだ。
ふと黒沢清の『ニンゲン合格』を思い出した。「10年間植物人間で寝ていた青年が社
会復帰する話」だったと思うが。あの映画の場合、記憶喪失の原点に在るのは「偶発的
な交通事故」だから、それが描かれなくても違和感は無かった。しかしこの物語の主人
公は自分の意志で犯罪を犯したのだろうから、必然的に映画の中で持つ意味が違う。
「過去の自分と対決する現在の自分」という構図を生かすためには、犯罪そのものをキッ
チリ描くことが不可欠だと思う。
「いやいや、今回はシノプシスだから書き込んでいないだけで、取りあえずは『神戸事
件』の「少年A」だと思って読んでもらえばいいんですよ」という事かも知れない。
では、「あの少年A」って一体どんなヤツなんだ?

実は、全くの偶然に驚いたのだが、私自身も「あの少年A」は映画の素材にならないか
と、この数ヶ月間ウロウロ勉強しているのだ。
もっとも、最初は「少年A」そのものではなかった。多発する少年犯罪に刺激されて
「普通の少年・犯人の内面から『今/現在』を描けないか?」と思ったのだ。『青春の
殺人者/普通の青年の両親殺し』でデビューした私にとっては、それは或る種の「本卦
還り」であり、昨今の「ホラー映画流行り」に対する抵抗でもあると思う。(私は「い
わゆるホラー映画」は苦手だ。大抵の場合、犯人は観客の恐怖心を煽る道具として使わ
れたままpsychopath=精神病質者として投げ出される。怖い思いをさせられたあげく、
人間不在のドラマを観たような索漠たる気分しか残らないのが堪らんのだ。)
で、いろいろ小説も読んでみたが、大半は薄っぺらなホラーあるいはミステリーで、興
味を持てるリアルな人間が見えない。『エイジ/作・重松清』という小説は、少年犯罪
を「地べたに生きる普通の人間のウロウロ」として描こうとしている作者の姿勢に好感
を持ったが、いかんせん『毒』が薄い。主人公・エイジが、所詮は「少年Aの友人」で
しかないのがカッタルイのだ。これならズバリ「あの少年A」をやるほうが良いぞ、と
思って『神戸小学生惨殺事件』を調べ始めた。
「社会を震撼させた事件」だけあって、かなりの数のノンフィクションが出版されてい
た。それぞれの著者はそれぞれに事件を考察して「少年A」の内面を探っているのだが、
どうも私にはいわゆる「文化人のコメント」的にしか感じられなかった。「女の子を殴
り殺し、知的障害の男の子の生首を校門に陳列した事件」の事実性が持つ「衝撃と謎」
に「文化人的考察」が負けているのだ。

私が一番興味を持ったのは『懲役13年』という本人が書いたとされる文章だった。
『いつの世も・・・、同じ事の繰り返しである。止めようのないものはとめられぬし、
殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・
「魔物」である。仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い防臭漂う
心の独房の中、死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、“何”
が見えているのであろうか。・・・』と始まる文章は、透徹したニヒリズムに満ちてい
て格調高く魅力的なのだ。
「この文章を書ける14歳の少年て・・・?」と、謎は深まるばかりだった。

その頃、ネット検索で『神戸事件の真相を究明する会』の存在を知った。そのホームペー
ジ(http://www2.odn.ne.jp/~cac05270/)を覗くと、『神戸事件は冤罪ではない
か?』と問いかけ訴えているのだ。警察発表/マスコミ報道と事実を克明に検証しなが
らの『冤罪』主張は、充分に説得力のあるものだった。
足立さん(そしてこの文章を読んでいる「貴方」)も、是非一度読んでみてもらいたい。
・・・同じ主張を本にまとめたものとして『真相・神戸市小学生惨殺事件』(早稲田出
版・小林紀興編)がある。

そして私は、「少年A」と「酒鬼薔薇」を別人としてドラマを作ることを選択した。こ
の2ヶ月強、その作業に専念しているのだが、なかなか上手く形に成らず苦しんでいる。
もちろん私はこの事件を映画の素材と考えているし、冤罪を糾弾するだけの映画を撮る
気は無い。あくまで「完全なるフィクション」を作るつもりなのだが、「酒鬼薔薇は一
体何者なのか?」と妄想を逞しくすることは、怠惰な私の創作意欲をじゅうぶんに刺激
することでもあった。
男なのか? 女なのか? 単数なのか? 複数なのか?
ガキなのか? 青年なのか? 中年なのか? 老人なのか?
何故、「少年A」は「自白」し、沈黙を守っているのか?
「少年A」と「酒鬼薔薇」の間には、どんな関係性があるのか? 無いのか? 
可能性は無限にあるけど、映画が選ぶ具体は一つしかない・・・いや、『羅生門/薮の
中』の手もあったか・・・などと試行錯誤しながら作劇しようとしてきたのだが、現状
はしっかり苦しい。

「主人公の感情と気分」を映画の原動力にしたいタイプの監督である私にとっては、こ
の企画もまた「誰のどういう感情でドラマを転がしていくのか?」がポイントなのだが、
「酒鬼薔薇」を自己同化して考えるのは、現時点の私には非常にムズカシイのだ。
「親殺し」や「原爆作り」という犯罪は、私にとって「ロマン」であり得たが「弱者/
小学生殺し」はどうしても「ロマン」にはならないのだ。しかし「酒鬼薔薇」をサイコ
パスとして描くことは絶対避けたい・・・では「酒鬼薔薇」は一体誰だ?・・・出口の
見えない堂々めぐりに嵌まり込んでいる。

世紀末の巷に蔓延する「悪意/殺意」をキッチリ描くことは、じゅうぶん意味があるし、
面白い映画にもなると思ってウロウロしてきたのだが、「こんな暗くて重いネタを、本
当にオマエは映画にしたいのか?」「もっと痛快で気分の良い企画は無いのか?」と泣
きが入っているのが、正直な現状だ。
足立さんに「犯罪そのものをキッチリ描くことが不可欠だ」と言いながら、だらしなく
腰がフラついている自分を恥ずかしく思います。

以上が貴方のシノプシスを読んだ私の、取りあえずのリアクションです。
『神戸事件の真相を究明する会』のHPなどを読んだ上で、フィクションとしての「少
年A」を貴方がどう捉えようとするのか?・・・まずは率直な実感を投げ返してくださ
い。具体的な方法論はその上で相談しましょう。(2000/05/20)