ゴジの発言
≪おれたちの時代の戦争映画を≫
……映画『連合赤軍』のために

『文藝』2000年秋号
特集「赤軍」RED ARMY 
インタビュー/長谷川和彦(ききて・越川道夫)


長谷川和彦監督は、76年に『青春の殺人者』79年に『太陽を盗んだ男』を完成させた
後、沈黙する。その彼が、この20年以上もの間、暖め続けていた企画がある。それが、
「連合赤軍」事件の映画化である。これまでにも何度も 長谷川監督のこの企画は聞
いていた。ずっと脚本を書き続けているとも…。このインタビューに際し、読んだの
は“ストーリー案 第2稿”と書かれた映画化すれば16時間に及ぶとも思われる、ぶ
厚い原稿だった。しかも、浅間山荘事件の直前からは、ストーリーすらなく、事実と
覚え書きが並べられ、最後にはとりあえずのラストシーンが添付されていた。妙義山
中での森恒夫と永田ひろ子の逮捕に始まるこのシナリオは、炎上する榛名ベースをバッ
クに浮かび上がるメインタイトルの後、永田ひろ子の19歳へと戻っていく。そして、
20歳の森恒夫、19歳の坂口弘…。長谷川監督は、徹底して“個”の側から“連合赤軍”
を捉えようとしているように見えた。そして、この“個”と“連合赤軍”の間に、彼
は、「連合赤軍」に加わることになる健太郎と次郎という兄弟のドラマを挿入する。
柔道を学び、“落ちる”時に、一瞬行ったこともない場所の風景を見る次郎。仮の
“死”の中で見た風景。そして、覚醒した彼の掌には金粉が握りしめられている。兄
である健太郎は、次郎の見たものを、自らもまた見たいと思い、岸壁から飛ぶ。それ
は、死への願望なのだろうか? それは「連合赤軍」という事件を超越する“出口”
へと映画を接続のだろうか?


「闇の部分」があったからこそ

── まず、『連合赤軍』を企画するに至った経緯から伺えますか。
長谷川 いちばん最初に映画化を思ったのは「浅間山荘事件」の直後です。ぼくは学生
運動にはまったく無縁だったけれども、ああいう時代だから、ぼくのようなノンポリの
学生だって、野次馬として石を投げるぐらいのことはしていた。でも、赤軍派と京浜安
保共闘がどういう関係性にあるかなんてことは、殆ど知らなかったね。
それが連合赤軍という形であさま山荘に籠城して、十何日間ずっとテレビはそれだけみ
たいな大事件になった。そういうテレビを見ている人間なんて興味本位なもので、当時
ぼくは今村プロの助監督をしていたんだけど、スタッフどうしで「人質の牟田泰子さん
は生きているか生きていないか」賭けをするみたいなことをしていた。実際にお金を賭
けはしなかったけど……。ぼくは、「ぜったい彼女は生きている。人質を殺すようなや
つらじゃないんだ」というシンパ的な気分が強かった。実際に人質は生きていたわけで、
「ほら見ろ、あいつらは……」と、ある種の偶像視をしていたんだろうね。
その後、いわゆる「総括」「リンチ殺人」で死んだ人たちの報道が続々と出てきて、
非常に混乱しましたね。これは何なんだ、と。心情的には「ゲリラ頑張れ」という気分
で見ていたぼくみたいな人間には、彼らがそれ以前にそういう回収不能の殺人をしてい
たというのは、凄いショックで、「なぜそんなことをしたんだ?」という疑問ですよね。
映画化したいと思った原点には、まずこの疑問を解明したいという欲望があった。時間
がある程度たって……いちばん最初に出たのは永田洋子さんの手記だったと思うけど、
何人かの手記を読んでも、まだよくわからない。
もしもあれが「浅間山荘事件」だけだったら、おそらく、ぼくがやらなくても、もっ
と早く映画になっていたと思う。「連赤」を光の部分と闇の部分という言葉で言えば、
「浅間山荘事件」は光の部分でしょう。もちろん、そう思えない人も沢山いるだろうけ
れど、野次馬シンパの目からはヒロイックに見えた。当時は実録映画ばやりでもあった
し、実際に東映は笠原和夫さんの脚本で、サクさん(深作欣二監督)か誰かが監督で、
実録路線の中でやろうとしたという話は聞いたことがある。でも、マジメに考えれば
「総括」なしに連合赤軍はできない。それと、広い意味での「闘争」はまだまだ存在し
てた時代だから、さすがの東映もビビったのかな、やらなかった。東映というのは、良
く言えば大胆な、悪く言えば雑な倫理観の会社で、東宝では死んでもこういう差別語は
使わせないだろうという言葉を映画……大半はヤクザ映画だけれども、の中でも平気で
使わせる会社だったから、ひょっとしたらやるんじゃないかなと思っていたんだけど、
結局やらなかったですね。東映もやらないんじゃ、当分誰もやらないだろう、ヨシいつ
かおれが撮ってやる、と思った。……当時はまだ助監督でしたから。
 しかし、ぼくも「浅間山荘事件」しかなかったら、興味を持ちきれなかったと思う。
総括殺人、同志殺しという「闇の部分」があって、「浅間山荘事件」という「光の部分」
があるからこそ、非常に映画的な事件・素材だと、いまだに拘っているんでしょうね。
 ぼくは六四年が大学入学だから、六〇年安保には遅過ぎて七〇年安保には早過ぎた世
代なんです。もっとも、政治的なことには全く無関心だった。というか、「アカシアの
雨」を歌う六〇年安保世代の生き残りを、「いつまで泣き言いってるんだ」と吐き捨て
るような気分で見ていた。「政治が人間を救済するなんて信じるもんか、俺は映画をや
るんだい」とアメリカンフットボールと麻雀ばかりの馬鹿学生だった(笑)。結局、学
生のまま助監督試験を受けたから、今村プロに入っても学生の籍はあったんだけど、映
画に入れたからもう大学はどうでもいいやと思っていた。学生運動が盛り上がる一九六
八年には『神々の深き欲望』のロケで沖縄に半年以上行ってたんで、帰ったときにはま
るで浦島太郎になったようなショックでしたね。「一〇・二一新宿騒乱」は、いてもた
ってもいられない気分で現場で野次馬をしていた記憶があるけど、「こんなスゴイことに
なっているのか。いちばん面白いことに乗りそこねた」と、置いてけぼりを喰らったよう
な、目茶苦茶焦るみたいな、奇妙な感じだった。でももう映画やってるんだから、いまさら
学生運動でもあるまいし、みたいな。
 すごく強引な言い方をすれば、「連合赤軍」にこだわるぼくの気分の根っこには、三
島由紀夫が「軍人」として死ぬことにこだわった気分と共通するものがあるのかも知れ
ない。ともにそれぞれの時代の「戦争」に参加しなかった、出来なかった、という意味
でね。三島由紀夫という個人の本音にどれだけ「徴兵忌避」の意識があったかわからな
いけど、結果、戦争に行かなかったという事実は、彼にとって殆どトラウマに近いもの
だったんじゃないかなあ。それは、自分は戦争に行かなかったけれど、戦争に行った同
世代はこんなに死んだ、彼らに申し訳ないということじゃなくて、もっと素直に言えば、
「究極の恍惚と恐怖体験」である「戦争」に参加出来なかったことに対する、根源的な
トラウマであろうというね。そういうふうに考えると、彼の作品群があって、結果ああ
いう自死があることが、何かわかる気がする。自分の軍隊までつくって死んだわけだか
ら。天皇制も彼にとっては「究極の様式美」であったわけで、「様式」の逆に「混沌」
こそ面白いと思ってるぼくなんかは、ただダラダラとだらしなく生きてるんだろうな。
でも、とても三島のようには出来ないけれど、映画という虚構をつくろうとして生きて
いる人間としては、自分が参加できなかった過激な時代を、追体験ではなくて映画をつ
くることで自分流に体験したいという想いが、いまだに強いんだと思う。今村プロに入っ
て映画をやらずに、あのまま大学でゴロゴロしていたら、きっといちばんアナーキーで
ヤバイところまで行っちゃってたと思う。連合赤軍に入ったかどうかは別にしてね。政
治志向はまったく無かったけど、性格的にはイケイケドンドンだったから。そういう意
味ではある種のパラレルワールドを見たいような気分なのかも知れない。
── 大学はどちらだったんですか?
長谷川 東大の文学部です。大学やセクトはどこであったにせよ、「元学生運動家」は
映画業界にもかなりいて、ぼくの助監督をやっていた相米慎二もそうだし、荒井晴彦も
そう。二〜三級下のいわゆる団塊真っ只中の連中には何らかの形でコミットしたやつが
多い。彼らは「ゴジはよくあんな時代を映画にしたいと言うな」と、あきれたように言
う。やつらは忘れたいと思っているんですね。言い方は正確じゃないかも知れないけど。
重過ぎるんだね、きっと。自分もその中に生きていたわけだから。ぼくは、傍観者でも
ないが無責任なところにいて、しかもいちばん面白そうなところを体感していない。全
共闘運動が盛り上がっていた時期というのは、いろいろ悲惨なことがあったにしても圧
倒的に面白かったに決まっているからね。よくやつらに絡んだことがある。「おまえら、
面白いとこだけ味わって、キツイところではフケて、そのキツサの極のように起こった
連合赤軍は忘れたいでは、何なんだよ?」って。でも、それはやはり浦島太郎の絡みで
あって、ヘビーさを現実のものとして体験した人間にはフィクション化するなんてこと
は苦しすぎるんだろうな。永山則夫のように小説は書けるかも知れないけど、映画はちょっ
と違う。より娯楽的というか、実在した人間を役者が演じるわけだから……その途端に
「表現」は「見世物」になるんだろうね。実際に体験した連中は、そんなキツイことは
とてもおれにはできない、と考えているんじゃないかと思う。
そういう意味では、ぼくが『連合赤軍』をいまだに自分自身の中で引っ張っているのは、
きっと自分が不在、不参加だったからでしょうね。


政治的夢から宗教的夢へ

── 監督として『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』を撮られていますけれども、そ
こには影響みたいなものはあるんでしょうか。
長谷川 「許されざること」であったり、「重大な犯罪」であると社会から忌避される
行為の中に、ロマンを感じたいほうなんだろうね、昔から。つくり手というよりは人間
のタイプとしてね。そういう意味では『青春の殺人者』の親殺しも、『太陽を盗んだ男』
の原爆作りもぼくにはロマンだったけれども、「連合赤軍という素材は、はたしてロマ
ンたり得るか?」というクエスチョンはずーっとあるんです。同志殺しがしたくて運動
に身を投じた人間はいないはずだけど、追い詰められ、ないしは自分たちを追い詰めた
挙げ句に同志殺しという、たまらんことをした。そのたまらんことをロマンとして描け
るのかというね。
 それと、「組織の中の個人」を描く難しさが大きい。『青春の殺人者』も、『太陽を
盗んだ男』も、より「個」なんです。主人公は一人の青年で、組織の中の人間ではない。
ぼく自身が組織というものが不得手で、自分にとっては組織の中で生きる個人という存
在は、ロマンの主人公としてボルテージがかなり落ちるわけです。『連合赤軍』も組織
を描きたいわけではなくて個人を描きたいんだけれども、その個人が組織の中にいるか
ら組織を描かざるを得ない。それがこの企画を脚本化するときの最大の難しさなんだと
思う。
 そういう意味では、映画にしたいと思ったこと自体は『連合赤軍』のほうが早いんだ
けど、もう少し自分が複数の人間を描く能力を身につけないと難し過ぎるなというのが、
正直あった。それと、あまりに事件が有名、かつ時代的な事件だったから、少し時間が
たたないと、ただのキワモノになりかねないという危惧もあったし。もちろん、膨大な
予算がかかる映画になるから、その製作費をどう工面するかという問題もある。『殺人
者』『太陽』が先行したというのは、その両面の理由があったんでしょうね。ただ、犯
罪であったり許されざる行為をロマンとして描き得るかという意味では、ぼくにとって
は同じ軸上の企画なんです。
── 企画自体が変化を遂げているということはあるんでしょうか。それから、ビクト
ル・エリセ監督の『エル・スール』みたいに撮るということを話されていたことがある
ということですが。
長谷川 もともといわゆる実録モノをやりたかったわけじゃない。しかし、では何が最
大のフィクション性なのかと考えた時、『太陽』の頃から、オーバーに言えば、人間と
いう存在を唯物的にだけ捉えるのか、もう少しわけのわからないものとして捉えるのか、
という模索がぼくの中にあったのかも知れない。
 『エル・スール』は、人間の不可知な能力であったり、存在の意味への疑問をドラマ
のいちばんコアになるテーマにした映画だから、それを譬えに言ったんだろうけど。
『エル・スール』と言って通じる人ならいいんだけど、ある時期「長谷川は超能力、オ
カルトに狂った」と、ずいぶん否定的に言われました。これ以前の脚本を一緒にやって
いた田村孟さんも「おまえ、連合赤軍をオカルト映画にするのか?」と怒るので、「い
や、いわゆるオカルト映画ではなくて、すばらしいオカルト映画にするんだ」と答える
しかなかった(笑)。いまだに「超能力」と言うと「スプーン曲げはインチキだ」と目
くじらを立てる頑迷な唯物論者は多いわけでね。そういう輩は「夢もロマンも想像力も
欠如した退屈なやつだなあ」と無視するしかない。要するに、唯物論共産主義革命を夢
見て挫折した人間たちが、もっと違う位相までぶち抜けてみる映画にしたいんだ、と。
それは乱暴な言い方をすれば「政治的夢から宗教的夢へ」という模索だったのかも知れ
ない。
 しかし現実というのはよくしたもので、この模索は、時代が「連合赤軍」から「オウ
ム」に移行していったことと、ある意味では完全に呼応してしまうわけでね。オウムが
騒がれたりするよりずいぶん前に、ぼくはそういう発想でやりたがっていたんだけれど
も。オウムをああいうふうに実在の事件として認知した時には、現実って、しっかり猛
スピードで走るものなんだなと、少し怖いように思ったね。
 「オカルト」と言われたり「超能力」と言われたりする方向の意味が、出口になれる
のか、と。「出口」としか言えないんですが、映画という表現の出口だけでなく……。
簡単に言えば「人間という存在も、まんざら捨てたもんでもないようだ」と、どこかで
人間の生と死を肯定したい気持ちが、ぼくのベースにある。そういう意味での「『エル・
スール』のように撮る」ということなんでしょう。
── オカルトというテーマがシナリオの中に入り込んでいくと言われるのは、健太
郎と美津子なり、健太郎と次郎という設定で言われていると思うんですが、健太郎と
次郎のモデルは加藤三兄弟ですか。
長谷川 それこそ事件の直後に、これを映画にするのなら誰が主人公だろうと考えたら、
一六歳の「少年A」がその中にいた。固有名詞でなくて「少年A」と書かれてる分、イ
メージがふくらむんだね、今も昔も。それと、彼はおそらくいちばんナイーブな目で皆
の行動を見ていたはずで、おそらく視点がいちばん観客に近い。一六歳の少年がすぐに
ゴリゴリの運動家になるはずがないから。その一六歳の少年を主人公にしたいというこ
とがまず頭にあって、「総括」で死んだ人たちの中に『エル・スール』の地平まで行っ
ちゃった人間をつくってみるか、と。組織の膨大な人間の個人史全部は描写不可能なの
で、芯になるストーリーを兄弟物語にしようということにした。とりあえずいちばんシ
ンプルな形の、別のセクトにいる兄弟がドッキングするという構造にして、兄貴を赤軍
派、弟を安保共闘に置けば、パラレルに連合赤軍前史のようなものが描ける。それはた
だ状況説明としてノンフィクション的事実を描くのではなくて、同時にフィクションと
しての兄弟ドラマを描くことになれるんじゃないかと思ったわけです。


死を超えた救済と奇跡を

── 健太郎と美津子が祭祀巫女のカリスマといふうになっている意図は、どういう
ことですか。
長谷川 連合赤軍という映画の素材──とあえて言えば──の面白さは、「戦場に女が
いる」ということなんだね。たいていの戦争映画には女の兵士はいない。ただ、ぼくに
は男の特性・本能である「闘う」という行為の中にいる女性の学生運動家というのが、
もともとよくわからないんです。もう少し正直に言うと、人間としての色気を感じづら
いんだね。難しいことを言っているインテリ女ということなのかな。ま、これは女性に
かぎったことではなくて、学生運動家全般にいえることなんだが。社会をより良くする
とか人間の幸せを追求するとか、それを小難しい左翼言語で言われると、どうも素直に
ついていけない。自分が幸せになりたいというのは誰でもわかるけれども、みんなを幸
せにするというのが、ぼくにはもともと実感がなくて、主人公として自分が選びたい人
間たちは、より「個」に近い連中だったんです。
 美津子という女性にはモデルがあるんですよ。「総括」で二番目に死んだ赤軍派の進
藤隆三郎の恋人だったY・Mさんという女性です。彼女は山へ入らなかったけれども、
山へ入る直前まで一緒に行動をともにしていた。美津子という登場人物は、彼女に刺激
されてつくった架空の人間です。このストーリーでは、いわゆる学生運動をやる大学の
女の子じゃなくて、横浜のバーに勤めているおねえちゃんということになっているけれ
ども。ヤクザのスケで、太股に牡丹の入れ墨なんかしてるような女性と、健太郎という
主人公をぶつけることで何か見えないかな、と思ったわけです。リーダーのカリスマと
いうものがあるとすると、政治闘争の中におけるリーダーのカリスマというものを、む
しろ地べたのおねえちゃんに超えて見せてほしいというか、組織の長たる者のカリスマ
性じゃなくて、映画の本質テーマ具現者としてのカリスマがぶつかることをやってみた
かった。形の上では総括されて殺される、ないしは死ぬということになっても、意味と
してはそれを超えてほしい。「出口」と言ったり「救済」と言ったり、ストーリーでは
かなり甘い言い方になってるけど、実際の事件そのものには存在しなかった夢を映画で
は見たいと思っているんです。
── それが、「死を超えた救済」ということですね。
長谷川 その具体が非常にむずかしいんだけど……基本的にそれはいまだに強いです。
── 「奇跡がいかに起こるか」ということも書かれていらっしゃるんですが、それ
もまさに同じことでしょうか。
長谷川 宗教映画的な「奇跡」の意味だと思ってもらっていいんです。キリストを一人
の青年として描いたパゾリーニの『奇跡の丘』というモノクロ映画を、学生の頃に圧倒
されて観た記憶があって、その要素を掛け算でやっちゃえということなんです。ただ、
映画の中でその「奇跡の具体」をどう表現するかは非常にむずかしい。あまりジャンプ
し過ぎて主人公を「聖者」にはしたくないし、リアリズムだけに拘泥すると「奇跡」な
んか、そうしょっちゅう起こるものではない。そこが、「この脚本で大丈夫だ。あとは
金だけの問題だ」とぼくが言えずにいる最大のポイントなんじゃないかな。
 実録的にだけやるのなら、いろいろな手記を含めて事実はほぼ公表されているわけで
す。でも、それだけじゃ絶対に満足できないんだね。本質的な奇跡に至ること、ないし
は奇跡そのものが人間にとって、どう有効で、どう無効なのかということを映画の中で
試してみたいんでしょうね。ただ、そのへんになると、「なぜそれが『連合赤軍』とい
う映画の中でなければいけないんだ?」という自己批判も出てくるんだけど。でも逆に
言えば「『連合赤軍』だからこそ、それをトライして良いんだ」と開き直ったりしてる。
ぼくにとってこの映画は、唯物論としての共産主義革命が夢である人間たちが、唯物を
超えた地平に辿り着けるかどうか、というドラマのつもりだから。
 いわゆる奇跡をあらわす映像は、映画では非常に簡単に作れる。こ黷ェ逆に困ったこ
となんです。現実に起これば「奇跡」でしかありえない現象も、映画の中ではトリック
による見世物に堕してしまう。その見世物性だけが娯楽である映画もゴマンとあるわけ
で……。少々の見世物をやっても本質的な「意味」にならないというか、見世物性の知
恵だけではだめなんです。ぼく自身のこの企画への心情とテーマ性は通底して久しいん
だけれども、その具体が本当に難しい。ストーリー案では、ラストに生き残りの次郎が
空を飛ぶようなことが書いてあるけど、あれも果たして自分が見たいものが見れたこと
になっているのかどうか、いまいち自分では掴みかねているんです。
 「総括」されて死んでいった人間たちの中に、「出口」が見えていた人間がいるんだ
ということを、フィクションとしてつくってみたいんです。報道されたように、みなが
総括されて死んでいったという事実が存在するだけでは……たまらんではないか、とい
う思いが強いからだろうけど。


映画だからつくれる「出口」を

── これが完成した時、連合赤軍は、どのように現在を照らし出すでしょうか。
長谷川 これだけの事件は、いつか必ず誰かがドラマにするとは思っているんです。そ
れこそ『忠臣蔵』のように当たり狂言になるやもしれない。ただ、いま『忠臣蔵』を見
てもぼくたちがそれほどインパクトを感じないのは、あれが大過去だからです。ぼくは
『連合赤軍』を、あの事件が半過去であるうちにやりたい、時代劇になる前にやりたい
とずっと言ってきたし、今でもそう思っている。ただ、ぼくらにとっては半過去でも、
山岳アジトでゼロ歳児の赤ん坊だったRちゃんがもう二八なわけで、あの時代を知らな
いままに大人になった人たちにとっては、『連合赤軍』も『忠臣蔵』と同じようにもう
時代劇なのかもしれない。そういう意味では、自分がやりたかったタイミングから言う
と、だいぶ遅れたとは思うけれども。
 特に最近、少年たちが起こしている犯罪が話題になるというレベルで言えば、いまの
一四歳も一七歳も非常に孤独な闘いを、ロマンと感じられない形でやってるんだと思う。
「酒鬼薔薇」事件も、常識的には許されざる行為だけど、許されざる行為の中には人間
の究極的な叫びがあるはずです。異常者が異常な殺人を犯したんだと、ゴミのように
「区別・分別」してしまえば、社会は楽になる。自分は健全でキレイなほうの一員なん
だと考えることは大切な「生活の知恵」なのかも知れないけど、どんな人も「異常者」
であったり、殺人を含めた許されざる行為をする人間の本質は兼ね備えているはずだ。
 いまキレた少年たちが暴走しているということも、本人にとっては別に暴走ではない、
ぎりぎりの目いっぱいの「戦闘行為」なんだろうと思う。そういう意味では、『連合赤
軍』は今のわりと若い世代に感情移入可能な映画になるんじゃないかという気がする。
もしかすると、「昔の若者には革命なんて『共同幻想』があってうらやましい」と思う
かも知れない。いまは個人的な夢すら持ちづらいから。革命がロマンなんていう時代は
日本ではとっくに終わっているけど、ナイフや包丁をもって突っ走っている少年たちは
「個人革命」をしているんだよ。誰も「個人革命」という言葉で呼んであげる人がいな
いだけで、本質的な意味としてはそうだと思う。しかもそれは、他人のために頑張って
いるのではなくて、自分自身のぎりぎりの行為なわけだから、そういう意味では、より
正直に、より追い詰められているんじゃないのかな。
 連合赤軍の連中は、自分たちで自分たちのことを「軍」というふうに規定したし、銃
による武装蜂起は「戦争」だったわけだ。古来「戦争」で行われる「殺人」は正義だし、
その行為者は「英雄」だったわけで、そのぶん「総括/殺人」にも「軍という集団の正
義」は存在したんだと思う。ただ、あまりにも小規模な、幼い軍隊だったから、まだま
だ個人が共存する余地があった。そして、そのことこそが「総括」という悲劇を生んだ
理由なんだと思う。
 連合赤軍が実際に革命を起こすかもしれない規模の、大きな政治集団、革命集団だっ
たら、ぼくは興味をもち切れたかどうかわからない。実際に歴史的に起こった状況とし
て一つあるのはカンボジアのポル・ポト政権だ。『キリング・フィールド』という映画
がポル・ポト/クメール・ルージュやその思想・実態を必ずしも正確に伝えてはいると
は思わないけど、「あそこまでいっちゃうんだな」とは思いますね。要するに、「個人
を粛清しきる国家/国家意識の凄さ」という意味でね。
 その問題はオウムにもしっかり存在している。彼らも、尊師/法皇を頂点とする「疑
似国家体制」をしいていたわけで、その国家意識がいくつもの粛清殺人を生んでいる。
サリン事件があまりにもでかいから、「不特定の他者を殺す/ポアする」というほうが
目立って見えるけれども。ぼくが、なぜオウムにはそれほど興味がもてないのかという
と、麻原という人間にあまり魅力を感じないからだろうね。あくまでも個人としての人
間を見たいほうだから。どうも「甘えと恫喝が得意な、図々しい生臭坊主」としか感じ
ない……マスコミ報道に毒されているのかも知れないけどね。
 森や永田は、もちろん大いなる過ちを犯したと思うけれども、個人として考える限り、
森はわかる気がする。実は弱虫なのに強がって頑張っちゃうと、ああいうところへいく
のかもしれない。彼が逮捕一年後に自殺をしたのは敗北と言えば敗北だけど、死んで自
分に片をつけるしかなくなることまで含めて、その弱さがぼくにはわかる気がする。い
ちばん難しいのは永田さんだね。所詮ぼくが男で、女のことがよくわからないというこ
ともあるけど……強い人だなと思う。強すぎるくらい強い人で、この人を描くのがとも
かく難しいんです。


『連合赤軍』には逃げ場がない

── キャストはどういう感じですか?
長谷川 なにしろ企画構想ウン十年だからね。いちばん最初は悠木千帆でどうだなんて
言っていたし、大竹しのぶだった時期もある。田中裕子と思ったこともあるし、やっぱ
り室井滋かと考えたりもする……ともかく固有のカリスマを持った女優さんという意味
でね。イメージキャステイングが苦しいぐらい時間がたっちゃったなあ。事件の直後に
は少年役を水谷豊でいこうと思っていた、その豊がもう四八だからね。笑えないよ(笑)。
 二四〜二五才が中心年齢の事件だけど、困ったことに今の二四〜二五才はおれには子
供にしか見えないんだ。自分が歳とったせいもあるんだろうけど。ある時期、髪が長い
時代を撮るのは無理だ、エスキトラも集められないぞ、という短髪時代があったけど、
今まためぐりめぐって長い髪が普通になってきている。何かサイクルがあるんだろうね。
── これを全部やると一六時間かかるということですけれども。
長谷川 本来はNHKの大河ドラマでやるしかないような話なんだね。じっさい大河ド
ラマでも、いつかきっとやると思う。ぼくらが生きている時代かどうかわからないけれ
ども。昭和なんていう時代が時代劇になってしまう時期が必ずくるわけだから。
 さっき「死者に対する畏敬の念」と言ったけれども、これは書いていてつらいよ。
イージーな劇映画なら、ドラマっぽくしたければ悪者をつくればいいんだけど、もともと悪
者を書いてドラマをつくるのは苦手なほうだし、特にこの映画は「悪者を書いちゃいけ
ない」とすら思っている。「国家/体制」を悪だと描くことすら、安易すぎて「死者」
に対する冒涜だと思うんだ。

 連合赤軍を含めたあの時代の闘争というのは、おれらの世代にとってはやはり戦争
だったから、男には面白いに決まっている。男はもともと戦争するように機能も本能もつ
くってあるわけだから。『連合赤軍』は「おれたちの時代の戦争映画」なんだという視点は
大切だと思う。
 ベトナム戦争は、しょせんは召集令状で連れていかれた戦争です。連合赤軍は、赤紙
なんか来ないのに自分で参加しちゃった戦争だから、こっちのほうが描く価値があるは
ずなんだ。「個人の主体」がまず優先して存在したんだから。もっと平たく言えば「機
動隊に石ころぶっつけるのは気持ちが良い」という快楽的実感がスタートだったに違い
ない。「お祭り」だったんだよ、あれは。左翼的革命理論みたいなものは「祭りの場」
の御題目みたいなものでね。

 ベトナム戦争の映画はたくさんできた。特にオリバー・ストーンの『プラトーン』や
『7月4日に生まれて』なんか、「ごく普通の若者たちが強引に戦場に連れて行かれる
と、みんなこんな気違いみたいな行為をしました。彼らもまた被害者です」といった、
いかにも良心的ジャーナリストみたいな視点があるでしょう。「悪かったのは国家です。
この国のいちばん保守的で好戦的な部分がこの戦争をやったんです」みたいな。その理
屈が違うとは言わないが、安全な場所でイージーに開き直り過ぎていると思う。同じベ
トナム戦争映画でも、コッポラの『地獄の黙示録』は戦争の快楽的側面をきちんと描い
ているぶん、数等優れていると思う。ワーグナーが大音響で流れて、ヘリコプター軍団
の掃討作戦が始まると、おれたち観客も思わず「戦争を楽しんでる」もんね。虫けらの
ように殺されていく「ベトナム人民」なんか、モノとしてしか観ていない。
 
「南京大虐殺」で中国人の首をはねた日本軍兵士たちにも、同種の快楽が存在したはず
なんだ。彼らは決して特殊な人間じゃない。おれたちと同じ「普通の人間」だったに違
いないわけでね。ただ、戦争に負けて「聖戦」が「侵略戦争」だったという認識が社会
常識になると、「あれは赤紙でひどい状況に持っていかれたから自分はそうなったんだ」
という理屈になる。「悪かったのは大日本帝国という国家です」みたいな。でも「国家」
という最悪のシステムを存在させているのも人間個人々々の「共同幻想」だからね。
「国家さん」なんてモノは何処も歩いていない、実在しないんだから。これじゃ、オリ
バー・ストーンを笑えないよ。コッポラにしても『地獄の黙示録』を「レッツ・ゴー・
ホーム」で終らせてしまう。それじゃゴマンとあるアメリカ映画のパターンじゃないか。
「そんなにホームがファミリーが良いかよ?」と怒りたくもなる。
『連合赤軍』にはそういう逃げ場が無いんだ。「NO」と言って石を投げた。気持ちが
良かった。でも石ではボコボコにされてたまらないから火炎瓶を投げた。最終的には銃
を持って蜂起しようとしたが、外へ撃つ力も無くて……自分たちを殺した。最低の阿呆
ですわ。こいつらには「悪いのは国家なんだ」という言い訳も、「レッツ・ゴー・ホー
ム」と泣いて帰る家も無い。逃げ場も出口も無い話に、映画だからこそつくれる「出口」
を見つけたいんだな、おれは。ま、それは「人間て、いったい何なんだ?」という疑問
と興味に尽きるんだけど……。
 
 おれももう年だから、体が元気なうちにやることはやってしまおうと思っているんだけど、
『連合赤軍』……撮る価値あるかな。
── ぜひやっていただきたいです。
長谷川 見るかな、今の観客?
── 見ると思います。
                                 (2000.6.8.)