ゴジの発言
『連合赤軍』から『企画X』へ

高橋伴明監督が『光の雨』(原作・立松和平)を映画化するというニュースは、私にはやはり凄く大きなショックだった。
「ああ、これでもう俺は『連合赤軍』を映画に出来ない……」と、正直、猛烈に落ち込んでしまった。
笑われるのを覚悟で言うと、永年こだわってきた夢が「ガラガラ音をたてて崩れ落ちる想い」と表現してもオーバーではないほどで、メシも食えない、モノも言わない「自閉状態」に嵌まり込んでいた。
やっと数日たってから、そうか……このひと月ほど、伴明から何回か留守電が入っていたのは、そのせいだったんだな、と思い当たった。
伴明は、ディレカン時代から「ゴジが『連合赤軍』を映画化するんなら、俺が助監督やって仕切ってやるよ」とか「ゴジがいつまでもグズグズしてたら、俺が撮っちゃうぞ」と、フットワークの悪い私を煽ってくれていた。
今回も、『光の雨』映画化が新聞記事になる前に、私に対して「監督どうしの仁義」を切ってくれようとしていたのだ。
伴明が送ってくれた映画『光の雨』の脚本を読み、彼と直接話した。
「まあ、俺の映画はゴジの『連合赤軍』の≪露払い≫みたいなもんだから……」と、伴明は落ち込んでいる私に気をつかって言ってくれたが……『光の雨』は、当然のようにズバリ「連合赤軍事件」の映画化作品だ。
もちろん、「劇中劇」のアイデアをふくめて、映画トータルにはかなりフィクション化された構造になっているが、肝心の「連赤」部分はデータ(当事者たちの手記/裁判資料etc.)どおりだ。
いや、むしろ「データのままであり過ぎる」と感じた。それは私が小説『光の雨』に感じたことと同じなのだが……。
小説『光の雨』は、2年ほど前、まだ「新潮」連載の校正刷りの頃に取寄せて読んだ。もちろん「立松和平が『連合赤軍』をどう描くのか?」を知りたかったからだが、「映画との連動があり得るか?映画製作のプラスに出来ないか?」という製作的な思惑もあった。
感想は「なんだか、手記のまんまだなあ」だった。特に坂口/永田の手記との類似は顕著で、結果そのことから「盗作/著作権問題」が発生し、自分の非を認めた立松が「根本的に書き改めて」世に問うたのが、現在出版されている『光の雨』なのだ。
「改稿」の最大のポイントは、主人公(坂口弘がモデル)の現在を80歳の老人にしたことだ。「現在」は30年後の未来なのである。「死刑制度」が廃止され、元死刑囚の主人公は釈放され一人安アパートに住んでいる。末期ガンで余命いくばくもないその老人が、アパートの隣室に住む若い男女に、自分の「革命闘士」の時代を語る……という構造になっている。
≪『連合赤軍』と「現在」を如何にリンクさせるか、させないか?≫で、今でも悩んでいる私は、「ほう、30年後の未来か。強引な手を思いついたもんだなあ」と、やや驚き期待もしたが、読み終えた率直な感想は「違う。俺の描きたい『連合赤軍』はこうじゃない」だった。
もともとリアリズム作家である立松和平の描く「30年後の未来」は、正直面白くなかった。このSF的な近未来設定は、残念ながら「盗作問題」を回避するための「窮余の一策」でしかないように思えたのだ。
もっと大きい、肝心の「革命闘士」時代の描写は、悔悟と苦悩に満ちて描かれてはいるが、そのトーンとディテールは坂口/永田の手記のそれと同じで、そのことが私には大いに不満だった。
≪誰も、反省/悔悟しながら人を殺す人間なんていない……『総括』にも『銃撃戦』にも極めて人間的な快楽原則/可笑しさと哀しさが存在したはずだ。≫と、考える私には、『16の墓標』も『あさま山荘72』も、「嘘ではないが真実でもない」のだ。
彼らが「当事者」だからこそ、その獄中記は正直な告白と苦渋に満ちているが、「当事者」だからこそ書けていないものが多過ぎる……と思う。
すなわち、「自分(たち)は過ちを犯した」という認識のもとに、すべてが「過去形/回想」で描かれてあることによる「誤述/あやまち」だ。
そこからは、生身の人間が≪現在形≫で持っている「欲望/快楽/可笑しさ/哀しさ」への視点がどうしようもなく欠落している。
もちろん、手記を書いた彼らを責めることは出来ない。誰が自分の≪過去≫を≪現在≫として描くことが出来ようか?
「人間って一体何なんだろう?」という≪現在形≫の追及は、われわれ「フィクション・メーカー」の仕事なのだ。
しかし、いやだからこそ、われわれは彼らの手記を、あくまで「データ」として考えるべきだ、と思う。
彼らの苦悩と悔悟を共有しようとする立松の作家姿勢を、私は決して否定する気持はない。私のような野次馬/傍観者ではなく、「あの時代」の闘士の一人でもあった立松(そして伴明)が、つい彼らと≪過去≫を共有しようとするのも、じゅうぶん理解は出来る。
しかし、私は小説『光の雨』を原作とし、連動して映画を作る気持には全くなれなかった。
「自分が勝手に否定した小説を、他人が映画化するからといって、何を大騒ぎしてるんだ、長谷川?」と、自分でも思うのだが……。
≪伴明の「連合赤軍」も楽しみだよ。
 ……うん、伴明は伴明の「連合赤軍」を撮ればいい。
 ゴジはゴジの「連合赤軍」を撮るだけだ。
 他に何の意味もない。≫
「ラスタマン」のこの言葉は、まったく正論だと思う。
私も、これで『連合赤軍』映画化を断念する気持は毛頭無い。
しかし、現実的/製作的には「長谷川が『連合赤軍』を映画化できる状況」は更に厳しくなったと判断せざるを得ない。
ともかく「まだ、誰も映画化していない事件」という「商品価値」は消えたのだ。
まず、映画『光の雨』が完成し、その興業評価/作品評価が出ないと、製作会社も配給会社もリアルな動きは出来ない/しないと考えるのが妥当だ。
「ベトナム戦争映画」は何本でも同時進行もあり得るが、「ソンミ村事件」は一本あれば十分だ……という判断もまた、製作的には正論だろう。
『光の雨』については、私のほうからの「仁義」でもあるから、その脚本の中味/製作の具体をこれ以上語るのは控えるが、新聞に発表されたように、2月クランクイン/4月完成/秋に公開……というスケジュール通り進行している。
伴明との会話は「頑張れよな、完成したら見せてくれ」「もちろん、もちろん」で終った。ショックは大きかったが、伴明がこれからも私の「良いダチ」であることに変わりはない。



GOJI SITEで「企画/脚本公募」を始めてから現在まで、私は自己企画のトップに『連合赤軍』を置いてきた。
「どうせ『連合赤軍』でしか復帰作を撮る気がないんなら、≪企画/脚本公募≫なんてやめろよ」という批判もあったように思うが、それは違う。
あくまで≪未知との遭遇≫……それは「企画/脚本そのもの」だけでなく「新しい作家」との遭遇でもある……にかける私の夢は大きいし、本気だ。
しかし、その夢だけを寝て待つほど、私には「余裕」も「残された時間」も無い。
いつも「自己企画のトップ」と≪未知との遭遇≫を、自分の中で競り合わせるつもりで走ってきた。
結果、どちらが先になろうとも、その企画が「自分が本気で撮りたいと思えるもの」「現実的に製作可能なもの」であるかぎり、その作品でカムバックするのだという覚悟に偽りはないし、≪企画/脚本セッション≫も≪『連合赤軍』についての皆とのキャッチボール≫も、その覚悟の具体としてやってきたつもりだ。
長々と泣き言のような文章を書いてきたのは、そんな私と本気で≪セッション/キャッチボール≫をやってくれた沢山の皆さんには、私の現在の心境/覚悟を正直に「報告」することが礼儀であり義務でもあると思ったからです。
●『連合赤軍』を、自己企画のトップからセカンドに下げます。
期間は、おそらく一年強……映画『光の雨』の結果/反応が出るまで。
すなわち「復帰作候補企画」から、『連合赤軍』は外れるということです。
もちろん、脚本完成への努力は続けますし、皆さんとのキャッチボールも大切にしたいと思いますが、第一義は「トップ候補企画への集中」です。
(「企画/脚本応募作」との≪遭遇≫が、同じように重要であることは、言うまでもありません。)
●問題の「新たなる自己企画トップ候補」……やっと、少しだけ見えてきました。
まだ、タイトルや中味を語れるほど煮詰まってはいないので、とりあえず『企画X』と呼ばせてください。
『連合赤軍』が「事実がベース。とても重い」という意味で『青春の殺人者』系だとすれば、『企画X』は「荒唐無稽な発想がベース。でもやっぱり重い」という意味で『太陽を盗んだ男』系だと言えるでしょう。
●『企画X』のためのお願い。
映画の中で「日本に住む外国人」が、重要なファクター/登場人物になりそうです。
皆さんが「面白い」と思う情報を、無責任に長谷川に投げてやって下さい。
「外国人」は、とりあえず「老若男女/貧富/国籍」を問いません。
「うちの近所のアパートに、こんな××人が住んでいて……」という程度の話でも十分役に立つのです。
(例えば、TBSに『ここがヘンだよ日本人』という番組がある。偶然のように数回しか見ていないが、そこに登場する外国人達は、色んな意味でかなり面白い。リサーチのつもりで来年早々、担当のプロデューサーに会うのだが、その前に出来るだけ今までの番組を見ておきたい。もしビデオに録画なんかしている人がいたら、ぜひ貸して下さい。)
それ以外の番組でも、ネットのホームページでも、本でも、ささやかな体験談でも……とりあえずはどんな情報でもOKです。
掲示板への書き込みでは不便な場合は、「べあ管理人」経由で連絡ください。
私本人が迅速に連絡をとります。(べあさん、ヨロシク!)
私も「災いを転じて福と成す」くらいの気分にはなってきました。
皆さんの気楽な「情報提供ボール」、ヨロシクお願いします。