誰でも日記過去ログ
068〜077
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ウィークエンド・ラブ 第85回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/05/05(Wed) 23:32
4月19日〜5月5日。
5月2日。
名古屋市公会堂、4Fホールでボクシングの試合。
第1試合、中日本新人王予選フライ級4回戦。
うちのジムの選手は大学生のTで3戦1勝(1KO)2敗。
対戦相手はこの興行の主催ジムのIで1戦1敗。
手数で圧倒して危なげのない判定勝ちだったが、本来なら2ラウンドでKOできるぐらいのレベル差はあったので、勝利してもTには厳しい言葉ばかりあびせられた。
フライ級はエントリーした選手数が少なかったので次はいきなり8月の中日本新人王の決勝戦となる。
決勝の対戦相手はもう決まっておりその選手がじっくりと観戦していて、所属するMジムの会長と何度も談笑していたという情報が伝えられる。
その様子を見ていたうちのジムのTの先輩選手が「おまえのボクシング完全になめられとるぞ。楽勝やと思われとるぞ。」と言う。
悔しさをバネにしてなんとか中日本の新人王を獲ってほしいものだ。
つづいて第6試合、スーパーライト級4回戦。
うちのジムの選手はデビュー戦のNで、対戦相手はTジムのSでこちらもデビュー戦だ。
1ラウンドは手数で向こうで、強打でこちらというイーブンの内容。
2ラウンドもつれたところにNの右がヒットし、Sがダウン。
4回戦なのでもう一度ダウンをとればKO勝ちとなるのでNはラッシュするが裁かれてしまい、大振りなパンチに対して逆にパンチを何度もヒットされてしまう。
3、4ラウンドと相手のSが手数でドンドンNを圧倒して行く。
結局3者3様の判定でドロー。
Nはスタミナにもいいものを持っていたのだが、あまりにバランスの悪い手打ちの強打に息が切れてしまい、最終ラウンドなどまったく手がでない始末だった。
パンチ力があるので何とかダウンを奪えドローになったが、内容的には完敗だった。
そしてメインである第10試合もうちの選手が勤めた。
スーパーバンタム級6回戦。
うちの選手はSで戦績は7戦4勝(3KO)3敗。
相手選手は主催ジムのAで9戦6勝(2KO)1敗2分。
Aは昨年の新人王の本命と目されていたが惜敗していた。
かつては元世界チャンピオン経営のジムの20年に1度と元チャンプが豪語していた選手を左ストレート1発で葬ってしまったこともあるサウスポーの実力者だ。
うちの沖縄から来ているアマチュア経験のKも左でダウンさせられ判定に屈していた。
Sも3年前の中日本の新人王の技能賞を獲ったキレるパンチを持った選手なのだが、あごが弱く接近戦のグチャグチャした展開も不得手でまた足を使ったアウトボクシングもうまくないのでこの試合は不利だろうと予想していた。
1ラウンドAは積極的に仕掛けてくる。
低く左ストレートを打ち右フックを引っ掛け、極端な右回りで背中にへばりついてくるというサウスポーの利点を最大限に活かしたボクシングだ。
しかしその後、ブレイクになりまた最初の向かい合った距離からの始まりにされるので、ブレイク後のファイトの直後はSにもチャンスは充分にあった。
Aのサウスポーの利点を活かした極端な右回りは左ストレートからキレを奪ってもいた。
何度か交差した両雄のパンチだが、キレならば完全にSが上回っていた。
試合巧者のAのボクシングが冴え始め調子に乗り出した頃、Sのキレる右ストレートがものの見事にヒットした。
Aは後頭部をマットに打ちつけるような強烈なダウン。
あっけなく試合は終わってしまったかと思ったが、Aはもの凄い根性で立ち上がってきた。
足にきているのは明らかだった。
Sはラッシュをかけて2回目のダウンを奪うがそれにもヨロヨロとAは立ち上がってきた。
もう一度ラッシュをかければ試合は終わると思ったのだが、Aは渾身の捨て身パンチを振り回して来る。
そのパンチに手を焼いて攻めきれずに1ラウンド終了。
Sには地元興行時に最初にダウンを奪い、その後不用意なラッシュをかけて逆転KO負けをしたという苦い経験がある。
その時の記憶が蘇ってきて強引なラッシュをかけられなかったのだということを後で聞いた。
2ラウンドになるとAは自分のボクシングを立て直してくる。
Sは、バッティングにより右目の上のまぶたが切れて出血する。
1ラウンドが千載一遇のチャンスだったのかもしれない―そう思えるような展開になりつつあった。
しかし3ラウンド早々に左に身体をねじり充分にタメを作った後のSのロングフックが見事にAのテンプルを打ち抜いた。
Aがダウンした瞬間、今度はレフリーは手をクロスして試合の終了を宣言した。
あんな大きなモーションの左フックがあたるということは、やはりAには1ラウンドのダウンのダメージが残っていたのだろう。
Sがレフリーに手を挙げられた後もAは起き上がってこれなかった。
会長はSに派手な勝利ポーズを控えることを指示する。
うちの陣営が引き上げても私は残り、Aが立ち上がり両肩をかつがれてリングを降りるのを待ってから控え室に引き上げた。
バンテージを切り終えSはドクターに目蓋を縫われた。
ここのところうちのジムはA級の選手が3人立て続けに敗れていたので久々の快勝に控え室は沸きかえった。
帰り支度をしていると主催のMジムの人が挨拶にやってきた。
Aの様子を尋ねると意識はしっかりしているが記憶が飛んでいる状態だという。
Aにとっては始めてのKO負けがこういう負けだったので、もしかしたらこれで引退も考えるかもしれないなと思った。
期待されているいい選手なので、Aにももう一度がんばってもらいたいと思うのだが……。
帰り支度を終え駐車場に向かうと、主催のMジムのトラックに貼られているポスターにかつて四日市オーストラリア館で刺青野郎に敗れ引退宣言をしていたTジムのSの復帰戦が告げられていた。
あのまま終わってしまわなかったことを感慨深く思う。
5月3日。
長男とポートメッセナゴヤでのマンモス・フリーマーケットに行く。
名港中央の高速の降り口手前から渋滞していて、10時前に到着する予定だったのが11時過ぎになってしまう。
帰りも4時前に会場を出発しようと立体駐車場の屋上から降りてきたのだが、2階まで降りてきたら全く動かなくなってしまった。
1時間たって1m進むという状態で、皆エンジンを止めて車を降りてトイレに行ったり体操したりしている。
長男は名古屋クラブクアトロで「ザゼンボーイズ」のライヴに行く予定になっていたので、名古屋駅への直行バスで行かすことにする。
渋滞の列の中で車に乗って待っているのもバカらしいので、もう一度駐車場に車をいれフリマの会場に戻る。
5時までなのだが、終了間際の安くなった焼きそばとかあぶり焼きチキンとかを食べながら、出店者たちの後片付けの様子を見ていた。
6時になって車に戻り、車中で文庫本を読む。
7時になり車が流れ出してから帰ってきた。
車の中では長男のCD「RAVEN/限り無く赤に近い黒」を聴いた。
『ブランキー・ジェット・シティ』のベーシスト照井利幸のコンセプト・ソロ・アルバムという肩書きのものだ。
それなのにタワレコではチバユウスケが『ミッシェル・ガン・エレファント』解散後の再活動1作目ということを大きく扱っていたことに長男は怒っていた。
ドラムもブランキーの中村達也だから、ある意味でヴォーカルをベンジーからチバユウスケにチェンジした『ブランキー・ジェット・シティ』でもある。
音にうねりを感じさせる実にかっこいいロックアルバムだった。
見た映画。
「マルホランド・ドライブ」(01年 米)
「ぼくんち」(02年 アスミック・エース=オメガ・ミコット)
子供を捨てる母親が3人登場する。
主役の観月ありさ演ずるかの子とその母で鳳蘭演ずる今日子、そして猫ばあだ。
それぞれ皆、強い印象を残すのだが、中でも猫のように子供をぽんぽん産んでは捨てて、今は野良猫に囲まれて暮らしている猫ばあの葬儀のシーンが忘れられない。
何十人もの子供たちが集まり楽器を演奏し、フォークダンスを踊って自分たちを産んでは捨てていった母親を弔うのだ。
このシーンはもうフェリーニか寺山かというくらい幻想的な“ハレ”の世界を作っている。
初めは祝祭的な弔いであったが徐々にフォークダンスを踊る猫ばあの子供たちの顔がゆがんでいく様にこちらの胸まで詰まってきた。
母親は育てなくても産んだだけで母親なんだ……胸を詰まらせながらそんなことを考えた。
坂本順治はまたしてもいい仕事をしたと思う。
「ホワイト・オランダー」(02年 米)
「テラーピーク」(03年 米/ニュージーランド TVM)
「キル・ビル Vol.2」(04年 米)
Vol.1を絶賛したてまえ何か感想を書かねばいけないのだろうけど……どうにも気がのらない。
概ね「何でも掲示板」にあった感想と同じだ。
また次回にでも書けたら書いてみよう。
「戦場のピアニスト」(02年 仏/独/ポーランド/英)
精神的に屈折しているポランスキーの作品群にあって、こんなに素直に反戦とかそういう“道徳的にまとも”な作品って珍しい。
パッと思いつくのでは、この作品以外では「テス」くらいじゃないだろうか?
しかし、自身がポーランド系ユダヤ人であり、母親は強制収容所で死亡し、少年であったが故に出所でき、生き延びることができたという体験を持つポランスキーにとっては、この戦火を生き延びるピアニストは最も自身を重ねあわせやすい人物像であったのかもしれない。
あっけなく簡単に多くのユダヤ人がドイツ軍の手によってパンパンパンと殺されてゆく様に驚いた。
力まずに盛り上げずに淡々と描いていることがよけい痛ましく厳粛な気持ちにさせられた。
顰蹙をかうことを承知で言えば良心的な反戦映画が嫌いな私がつけ入るすきもないくらいだ。
しかし…と考えてみる。
この後、逃げて隠れて生き延びてしまったことの意味をこのピアノ弾きは考えることはないだろうか?
簡単に殺されていった家族や仲間に対して、生き残ってしまったことを後ろめたく感じたりはしないだろうか?
死んでいった者たちのために自分もまた身を捨てる覚悟で何かをやらなければいけないと思いはしないだろうか?
死んでいった者たちは戦争という言わば国家の喧嘩の犠牲になった人間だと考え国家を否定したい気持ちはわいてこないだろうか?
そんな国家に対してたった一人で原爆作って挑戦状を叩き付けたいという気にはならないだろうか?
私の尊敬するある人が言った。
「『戦場のピアニスト』に足りないのは、アナーキズムだ。」
「えびボクサー」(02年 英)
「SUMMER NUDE サマーヌード」(02年 アルゴ・ピクチャーズ)
「スパイダー パニック!」(02年 米)
「クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王」(93年 東宝)
「クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝」(94年 東宝)
「あずみ」(03年 東宝=日本ヘラルド映画)
「クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望」(95年 東宝)
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ウィークエンド・ラブ 第84回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/04/18(Sun) 22:45
4月5日〜4月18日。
17日。行き着けの書店の映画の本のコーナーで一冊の新刊書が目にとまる。
「『砂の器』と『日本沈没』 70年代日本の超大作映画」 樋口尚文(筑摩書房)。
タイトルから考えてテレビドラマにもなって人気のあった「砂の器」の話題性に便乗した安直な映画の本に思えた。
しかし、「70年代の日本の超大作」という言葉がひっかかる。
もしかしたら入っているかもと思って手にとってみる。
手にとってパラパラとめくってみて<もしかしたら>どころかもうこの本は『太陽を盗んだ男』がいかに優れていたかを絶賛するための本でびっくりしてしまった。
即効で購入。
序文の<はじめに 1970年代日本の超大作映画とは>のまとめのひとつとして
<おそらく、これらの監督作品をはじめ本書で挙げた大作群のうち、手放しで賞賛できるのはわずかに長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』一本のみであって、この作品には商業的な見せ場とたぎるような作家性を同時に肯定する格別なヒントが詰まっている。そのほかの作品は、いずれも大作仕様に仕上げるという課題を優先させるために成功作にはほど遠くなってはいるのだが、ただしこれらを通して「大作映画はどこでどうつまらなくなっていくのか」を考えることは、決してつまらないことではなく、むしろアクチュアルな発見を伴う作業であった。>と書き本文に入る。
第一章 泣かせと旅情の文芸大作『砂の器』
第二章 社会派という名のメロドラマ大作『戦争と人間』『華麗なる一族』
第三章 「国民的」スケールで構えるパニック大作『日本沈没』『八甲田山』
第四章 語りで見せきる啓蒙大作『人間革命』『ノストラダムスの大予言』
第五章 アイディアで疾走するサスペンス大作『新幹線大爆破』
第六章 ビジュアルで主張するミステリー大作『犬神家の一族』
第七章 伝統と切り結ぶ時代劇大作『柳生一族の陰謀』
第八章 メディアミックスで装う角川大作『人間の証明』
ときて、最後に、 第九章 大胆で繊細な作家的大作『太陽を盗んだ男』 となるのだ。
序文でわかるようにもちろん誉めて誉めて誉めちぎられるのだが、驚いたのはその後のゴジの沈黙にも触れられ何と「未知なる異形の大作『連合赤軍』へ」と『太陽を盗んだ男』以降の動向にも触れられていることだ。
そして最後は『太陽を盗んだ男』は、過去の映画というより「現在的な映画」でありつづける、とし、
<そもそも、連合赤軍をめぐる映画を先に作られてしまったことで途方に暮れた長谷川和彦が、「次に何のテーマを撮ればいいのか」をインターネットのファンサイトで公募するという構図自体が、原爆を使って国家にいったい何を要求すればいいのかをラジオ番組のリスナーに公募してしまう城戸誠を地で行く感じではないか。そんな「原爆の兄ちゃん」よろしきゴジを、ラジオのリスナーの一人があやしく叫ぶように「ドカーンとやってくれよ、ドカーンと!」と焚きつけたいところであるが、テレンス・マリックも顔負けの「撮らない巨匠」である長谷川和彦を起爆させる信管は、はたして生きているのか死んだいるのか。>
とまとめられるのだ!
このゴジサイトでの作品公募が始まったのは「光る雨」や「突入せよ!」よりはるかに前のことだし、ゴジは結局『連合赤軍』一本に絞ったのだから、この認識はちょっと違っているが、このサイトのことにまで触れられているということが凄いではないか!
ゴジの新作を待ち望んでいる人間がここにもいたのだ!
最後に著者の樋口尚文同様、私も「信管」になりたい人間の一人としてドカーンとまではいかないがちょっとばかり焚き付けておこう。
「撮らない巨匠」というのを名声としていてはダメなのだ。むしろ汚名と受け止めるべきなのだ。
見た映画。
「レザボア・ドックス」(92年 米)
「レジョネア 戦場の狼たち」(98年 米)
「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」(97年 松竹)
「ゴーストシップ」(02年 米)
「カクト」(02年 ザナドゥー)
「青の炎」(03年 東宝)
「六月の蛇」(02年 ゼアリズエンタープライズ)
「キル・ビル」(03年 米)
「秋日和」(60年 松竹)
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ウィークエンド・ラブ 第83回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/04/04(Sun) 23:33
2月16日〜4月4日。
2月19日(木)。
職場の友人の研修への壮行会で飲みすぎる。
20日(金)。
激しい二日酔いでフラフラで仕事をこなすが、ジムは休む。
21日(土)。
愚妻と共に病院へ行く。
昨年末に入院した病院から紹介された北の方の違う病院へだ。
年末年始の愚妻の入院は子宮筋腫による貧血がひどくてのことだったが、今度はその子宮筋腫の手術を前提としたものだった。
貧血による血液のヘモグロビン値と手術の時期の問題、ホルモン療法による副作用の問題等いろいろとやっかいなことがあったのだが、評判の高いその病院の医師は「いたちごっこを繰り返すだけやからもう手術やりましょう」と言った。
愚妻は、貧血への対処もあるので翌22日から入院することとなった。
21日の夜、残されることになる私と長男と次男の男3人で家事の分担を決めることにした。
食事の担当は私、ゴミの分別収集と搬出は長男、洗濯は次男ということに決めた。
前日、二日酔いで行けなかったのでジムに行く。
21時30分にジムを出て深夜までやっているスーパーに行く。
22時30分に帰宅し、22日から2週間分の家事役割分担表をエクセルで作成し印刷して子供たちに渡す。
25時30分に寝る。
22日(日)。
7時起床。
朝、子供2人分の昼食と自分の弁当を作り、入院する愚妻を病院に送って行く。
病院に送った後、渋滞の国道23号線で家路につきながら車の中で長男に借りて聴いているCDに衝撃を受ける。
このところ車中で、ずっとロック好きな長男の薦めてくれるCDを聞いていた。
それまでに聞いたバンド名は「スパルタ ローカルズ」「くるり」「ナンバーガール」「ブンブンサテライツ」「モーサム・トーンベンダー」「ゆらゆら帝国」「バッファロー・ドーター」だった。
そしてこの日、妻を入院させた渋滞の帰り道でそれを聴いてしまったのだった。
CDのタイトルもバンド名も「ザゼン・ボーイズ」。
特にラストに収録されている「自問自答」という曲。
一応ラップなんだが、もう“叫ぶ詩人”という感じだ。
聞いているうちにドンドン気持ちが昂ぶってきて曲が終わったときには感極まって車の中で「ウォーッ」と叫んでしまった。
陳腐な表現だがまさに“魂が震える”ってやつだった。
「ザゼン・ボーイズ」は塩田明彦の力作『害虫』で音楽を担当した「ナンバーガール」の向井秀徳が「ナンバーガール」を解散した後に作ったバンドだ。
♪なーんも知らずただガキが笑っていた
純粋な、 無垢な、 真っ白な、 その笑顔は
汚染された俺達が生み出したこの世の全てを何も知らずにただ笑っていた
新宿三丁目の平和武装や 片目がつぶれた野良猫が発する体臭や
堕胎手術や 30分間25000円の過ちや 影口叩いてるいんを下げとる奴らや
徒党を組んで安心しとる奴等や さりげなくおこなわれるURAGIRIや
孤独主義者のくだらんさや 自意識過剰と自尊心の拡大や 気休めの言葉や
一生の恥や なげやりや 虚無や くりかえされる諸行無常や♪
家に着くまでこの「自問自答」という曲を何十回も繰り返し聴いた。
愚妻が入院するのはこれで3度目だ。
1度目の入院の時は子供たちもまだ中学生と小学生で一人で全てをこなさねばならず、泣きたいような辛い日々だったが3度目ともなってくると忙しいながらも家事の“段取り”が分かってきている。
何とかうまくやって月水金のジムには行こうと決心する。
帰宅してすぐに豚のバラ肉でポークカレーを作った。
夕食用ではなく翌日のためのものだ。
夕食には21日の夜のスーパーで買っておいた半額になっていたハンバーグ等を焼いた。
料理を作ることは結構好きなようだ。
今度、生まれ変わることがあるのなら調理師になってみたい。
23日(月)。
5時半に起きて3人分の弁当作り。
弁当のおかずは、長男は肉中心、次男は魚中心、私は残り物を詰め込んで半分くらいの小さい弁当にしカップラーメンと食べるというパターンにした。
仕事を終え、17時に職場を飛び出て、18時に帰宅、すぐに前日に作っておいたカレーに火を入れる。
自分だけ立ちながらカレーを食って、着替え。
子供二人のカレーをつけて19時に家を出てジムに向かう。
21時30分にジムを終えスーパーにより22時に帰宅。
食洗器をかけて22時30分から入浴し、24時30分に就寝。
24日(火)。
5時30分起床、3人分の昼食やら弁当作り。
帰りレンタルビデオ店によりスーパーの弁当が半額になった頃にスーパーに寄り、夕食用の半額弁当を買う。
夕食後、食洗器をかけて、クリームシチューと豚汁を一気に作り、ブリを照り焼き用のタレにつける。
入浴してネットチェックして25時30分に寝る。
25日(水)。
仕事休んだので7時に起床して子供二人分の昼食弁当作り、長男には冷凍の高菜ピラフとスーパー半額のトンカツ、次男は魚弁当。
愚妻の手術の立会いのため病院に行く。
手術中、待っている時間に読む本を何にしようかと迷う。
「ボクシング・マガジン」も「キネマ旬報」も小説もマンガも愚妻の手術中に読むには、不謹慎かもしれないとためらわれたので、次男の参考書の駿台文庫「新・物理入門」を持っていった。
物理はバカながらも結構好きだったので……で、「なんじゃあ、この難しさは!」だった。
手術室に入ってから一時間が過ぎた頃、看護婦が来て「先生からお話があります」と言われ連れられて行く。
何かあったのかと心臓バクバク。
連れて行かれた台所のような狭い部屋には血のついた肉の塊らしきものが入ったビニール袋がおかれていた。
担当医がやってきて袋から肉を取り出して筋腫の具合がどうだったのか、手術でどうしたのかとか説明してくれる。
ビニール袋に入れられていた肉の塊は、愚妻の子宮と筋腫だった。
筋腫はテニスボールを少し小さくしたくらいの大きさだった。
何はともあれ手術が無事に済んだことにホッとする。
一瞬、「血のついた子宮やら筋腫は焼いたら食えるのだろうか?」という不埒な考えが頭をよぎった。
頭の中では「ザゼン・ボーイズ」の曲『自問自答』の歌詞がリフレインしている。
♪くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動♪
担当医はガムを噛みながら、ハサミで子宮をジョキリと切りながら説明してくれた。
ふてぶてしく自信に満ちたその態度には確かに名医と評判になるだけの人物と思わせるものがあった。
「やっかいな患者をちゃんと扱ってくれて本当にありがとうございました。」と深々と頭を下げた。
センセイと呼ばれる職業にはひねくれ者としてはどうにも胡散臭さを感じてしまうのだが、医者だけは別だ。
昨年から随分と病院やら医者のやっかいになる機会が多かったのだが、その都度、医師という職業には感心した。
「白い巨塔」で描かれるような名誉欲とか権力欲とかの世界も一部にはあるのかもしれないが、大半の医師は人命を救うために自己犠牲的に働く哲学を持った人だと感じた。
しかも、そういう医師という職業に就く為の医学部は大学で最も難度が高く法学部よりも難しい学部であるということも凄いことだと思うのだ。
今度生まれ変わることがあるのなら、死ぬ気で勉強して医者になってみたいと考える。
手術が終わり入院部屋に運ばれて来た愚妻はグッタリとはしていたが思ったよりも元気そうだった。
昼食をとらずにいた私は急に腹ペコなのに気づき愚妻の見舞いにおいてあったミスタードーナツを食べた。
愚妻が食べられないことを知らずに持ってきてあったものだ。
病院を出て、スーパーで買い物して、帰宅しブリの照り焼きを焼き、冷凍野菜を炒め、豚汁とで夕食にする。
19時から21時30分までジム、帰宅して食洗器、入浴、ネットで25時30分に寝る。
26日(木)。
弁当作り、病院に寄る、スーパー買い物、夕食はハンバーグと豚汁、次男は魚、食洗器、入浴、ネットチェック。
27日(金)。
弁当作り、夕食はギョーザ、クリームシチュー、次男は確かあじの干物、ジム、書店、入浴、ネット。
28日(土)。
子供の昼食作り、愚妻の見舞い、スーパー買い物、夕食は焼肉とレタスと発泡酒。
29日(日)。
長男の自動車学校送迎、次男の参考書の書店、昼食は長崎チャンポン、100円ショップで台所用品買う、またしても豚汁作り、重要メール着。
3月1日(月)。
弁当作り、夕食は冷凍しておいたポークカレーを電子レンジ、ジム。
2日(火)。
弁当作り、レンタルビデオ店、夕飯スーパー半額弁当。
3日(水)。
弁当作り、夕食私はカレー、子供は色々、ジム。
4日(木)。
弁当作り、またしても豚汁作り、夕食はその豚汁にからあげに発泡酒、次男には魚。
5日(金)。
弁当作り、夕食は豚肉と冷凍中華野菜やらの炒め物と豚汁、次男には魚、ジム。
6日(土)。
子供の昼食作りして愚妻の病院へ。
無事に愚妻退院する。
昼食に子供には焼きそばを食わせておいて、私は愚妻が寿司が食いたいと言うので退院の帰宅途中で回転すし店によっていく。
愚妻は退院してきたが、しばらく立ち仕事も車の運転もダメだということで、これまで通りの家事分担を続行することに決める。
帰宅してすぐに野菜カレーに始めて挑戦。
かぼちゃ、ナス、ししとう、オクラ、トマト、玉葱、マッシュルームで肉はなし。
肉なしでは辛いかと思ったが結構食べれた。
でもやっぱり肉があったほうがいい。
夕刻、ジムの別のトレーナーから携帯に連絡がある。
7日に試合を予定されていた選手が前日計量に行く途中に逃走してしまったというのだ。
選手は漁師町からボクシングがやりたくて出てきていたNだ。
5日の時点でリミットまで400グラムオーバーで悩んでいたらしい。
しかし前日計量に出発する前のジムでの計量で、800グラムオーバーになっていて、「会長に迷惑をかけるから計量に行きたくない」とごねたと言う。
会長はとにかく計量には出ろと言って連れていったそうだが、名古屋駅でトイレに行くと言って行ったきりで戻ってこなかったという。
大事な新人王予選の1回戦だったのだが……会長は正直に主催ジムやら関係者に事実を伝え違約金を支払ってきたそうだ。
選手の数も多く、興行も何度か行えるだけの力をつけてきているうちのジムはそれなりの評価をされてきているようで、今年から会長は中日本のボクシング協会の役職についていた。
そういう中での不祥事だった。
7日の試合には家がこんななので参加できないと申し入れしてあり残念に思っていたのだが、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
テレビで「ボクシング3大世界タイトルマッチ」観戦。
三つとも判定負けでガッカリ。
7日(日)。
車のオイル交換、スーパー買い物、昼食は長崎チャンポン。
夕方から長男の友達が遊びに来て、近くのショッピングセンター内にあるワーナーマイカルで「イノセンス」の最終回の上映を見に行くので、友達の分も夕食を作ってくれと頼まれる。
引き受けて「最近の押井守のは、難しくってわけわからんゾ」と忠告。
夕食は安い米をごまかす必要もあったので炒飯、豚汁、コロッケ。
愚妻が食洗器だけはしてくれることになった、それだけでも助かる。
映画から帰って来て長男と友達は缶チューハイを飲んだようだ。
8日(月)、弁当作り、夕食は豚のしょうが焼き、豚汁、次男だけ焼き魚。
9日(火)、弁当作り、スーパー買い物、レンタルビデオ店、夕食は鳥の照り焼き、なめこ汁、缶チューハイ、夕食後ビーフカレーを作る。
10日(水)、弁当作り、夕食はビーフカレー、ほうれん草炒め、ジム。
11日(木)、弁当作り、夕食はラーメン、炒飯、餃子、発泡酒、缶チューハイ。
12日(金)、弁当作り、夕食は焼肉、焼き野菜、豚汁、ジム、ジムの会長からでかいハマチをもらう。
13日(土)、子供の昼食作り、ハマチをスーパーの魚屋で切身にしてもらう。
妻を乗せて病院へ、順調な回復ということで少しずつ家事をやっても良いとのこと。
夕食はこの日も焼肉、冷凍野菜の炒め物、豚汁。
14日(日)、長男の自動車学校送迎、昼食はひき肉と玉葱の人参のみじん切りを炒めてのオムレツ、冷凍の小松菜炒め、豚汁、夕食は豚汁と肉野菜炒め、ネットの宿題かたづける。
この2月22日(日)から3月14日(日)までの3週間は、ここ数年ではもっとも忙しい日々だったと思う。
定職のコームインをやりながらプロボクシングジムのトレーナー業をこなした上に、愚妻の介護と家族の食事作りが加わった日々だったのだから。
しかし、それぞれ結構うまくやれたと思う。
月水金のジムにも休むことなく行けたし、食事も火曜日の夜を除いては手作りのものを子供たちに食わせてやれた。
なんだか豚汁とカレーばかり作っていた気もする。
特に豚汁は三日おきに作っていた。
豚汁とカレーは本当に偉大な食い物だと思う。
人に大事なのは頭脳とかハートとかよりもまずは胃袋だ。
まちがいない。
「連合赤軍」の連中は山岳アジトで何を食っていたのだろう。
15日(月)、職場で人事異動の内示を受ける。
4月からは2年前までいた県庁所在地にある所謂“本所”に戻ることになった。
人事異動の希望調書には北の方の街を書いていたので希望がかなわなくて落ち込む。
この2年間、遠距離の職場で働いていてたいていその後は希望通りの異動にしてくれるだろうと楽観していたので本当にガッカリだった。
項垂れて帰宅したが、ジムに行く日だったのであわてて夕食を食べてテレビを見ているとオリンピックの選考から外れた高橋尚子の記者会見が生中継でやっていた。
泣かないで笑顔で会見する高橋尚子を見て泣いてしまった。
こちらもふて腐れていないで、新規採用者にでもなった気持ちで、4月から仕事をこなしていかねばならないのかもしれないと考える。
この日から夕飯は愚妻が作ることになった。
ジムから帰り入浴した後、小便をこらえるのに苦労するような長電話を経験する。
電話の子機の修理が必要だ。
19日(金)、仕事休みをもらって、自分のかかりつけの病院と床屋に行く。
床屋もいつ行ってもプロの仕事だなあと感心してしまう。
そういえば今村昌平の作品「うなぎ」で浮気した妻を殺した役所広司が刑務所を出所した後、他者と心を開くことを避けるようにして選んだ仕事が理髪店だった。
きっちり技術だけを売る職業っていうのが素晴らしいと思う。
今度、生まれ変わることがあるのなら理髪師になりたいと思う。
20日(土)、工業高校を卒業して4月から就職が決まっている長男のスーツを買いに行く。
21日(日)、ナゴヤポートメッセでのフリーマーケット。
22日(月)からは、年度末の報告ものなど仕事の残務整理に追われる。
25日(木)、泊りがけの送別会で、ガンガン飲む。
27日(土)、愚妻を乗せて病院へ。順調な回復。
28日(日)、やっと運転免許をとることのできた長男に通勤道路の難しい場所での運転練習をさせる。
29日(月)、霞ヶ関の中央省庁に行っていた同期生が職場に来たので飲むことになった。
同期生はこの3月1日から隣の県へ課長として赴任してきており管理職となっていた。
私と同じ職場のもう一人の同期生も加わり3人で飲んだ。
私たちが採用された年は4人が新規採用され4人とも高卒者だったが、その後は大卒者の採用が増え続け、最近ではほとんど新規採用はなく何年ごとかに国立大学を卒業してくる者が新規採用される程度になっていた。
中央省庁での経験を積んだ同期生は(最近の中央官庁でのT種採用者は)「東大でも優秀な奴しか入ってこれないんだよ。普通の国立大学を出た奴はその辺小さくなってチョロチョロやっとるだけなんだよ。我々のいる組織というのはそういうところなんだよ。だから俺たちは業界関係者とも下っ端の連中と喋ってちゃあダメなんだよ。しかるべきポストにある者と話さなきゃダメなんだよ。」と私たちにとっては妙な東京弁で力説した。
昔からそういう役人としての特権意識を示すところがあり、よく年下の者から苦手にされていたが、実際にそのプライドどおりにきつい中央省庁を希望して苦労もしてきている同期生に、未だに末端の職場を希望しつづける私は反論することは出来なかった。
かつてその同期生に立派な名簿録を見せられたことがある。
同期生は、それが大卒者を前提に作られた親睦団体のものであることを私に説明し「おまえも入る資格があるから入らんか」と言われたことがある。
私と同期生は共に働きながら同じ公立短大の2部で学び卒業していた。
私はムッとして「あんな誰でも入れるような夜間の短大出て、そんな胡散臭い団体の会員になっておまえは嬉しいのか?俺はボクシングでプライド持ててもそんなもんでプライド持てる人間やないやろ!」ときつく言い返したことがある。
私は私が正しくて同期生が変だなどと言う気はない。
おそらく、その逆はあってもそれはないだろう。
私が私の資質と違うところに就職してしまったということなのだろう。
18のときに、労働組合の行事を批判して感想文に使い、組合幹部にこっぴどく叱られた「いきがったらあかん。ネチョネチョ生きとるこっちゃ。」という中島貞夫の「893愚連隊」のセリフを今は自分に向けて言うのみだ。
4月1日、辞令を受けるが、本所に辞令を受けた3人で示し合わせて当日着任はやめて、2日にすることにした。
当日着任することが心意気を示す上で重要なことなのだが……そういう心意気がないのだからしかたない。
自宅と旧勤務地と新勤務地の三角形の位置関係を考えても、通勤途中で交通事故死する者も出るような危険な峠道を越えて行かねばならないことも、「非人道的じゃねえか!」ってんで「やめや!やめや!」と言ってやめにした。
4月2日、結局2日に着任したのは私たち3人だけだったようだ。
前任者からまるでジェット・コースターに乗っているような引継ぎを受ける。
私の希望に反する結構重要と言われている役職なのでしかたないのだが、どうでもいいような役所仕事が大量にあって今後のことを考えると気が滅入ってきた。
4月3日、NHK朝の連ドラ「天花」のBSでのまとめたものを見る。
NHKの朝の連ドラなんて松嶋菜々子が弁護士になって行く話のを見て以来だ。
職場の人はたいてい皆で昼休みにこれを見ている。
私は、昼休みになると誰も使用していない和室にサッサと行ってDVDで映画見ながら弁当を食べることにしていた。
私のようなタイプの映画ファンはNHKの朝の連ドラなんて見ていると消化不良をおこしてしまうのだ。
それでも今回見たのは、職場の人がうちの職場が連ドラで取り上げられていると騒いでいたからだ。
成瀬巳喜男の大傑作「浮雲」での自堕落な男、森雅之の職業が私と同じ類の役人だったのだが、同じ職場そのものが出てくるのは初めてと思われ興味深かった。
もっとも、それは廃庁になってしまった以前の役所ということになるのだが。
主役の天花と言う少女の父親役の香川照之の職業がそうなのだ。
第1回目の放送では役所名まで入った庁舎が大写しになるので驚いた。
他県の庁舎ではあるのだが、これには本当にビックリした。
廃庁になった役所だからドラマでとりあげたのだろうか?
ところがその香川演じる天花の父親はその仕事を「○○(第一次産業に携わる人々)にこれ以上、国の政策を押し付けるのは嫌だ」と言って転職してしまうのだ。
そのことがNHK的なコモンセンスなんだろうなあと妙に感心してしまった。
同期生を初めほとんどのうちの職場の人はコモンセンスと受け止めないだろうなとも思った。
天花の父親はしっかりした転職先を持っていたからいいのだろうが、そういうのを持たないこちらとしてはこれも「いきがったらあかん。ネチョネチョ生きとるこっちゃ。」となるのだろう。
見た映画。
「フィッシャー・キング」(91年 米)
「悪魔の呼ぶ海へ」(00年 米 仏 加)
「竜馬の妻とその夫と愛人」(02年 東宝)
「小さな中国のお針子」(02年 仏)
「ライフ・イズ・ジャーニー」(03年 ポニーキャニオン=ツイン)
「the EYE 【アイ】」(02年 香港 タイ 英 シンガポール)
「プルート・ナッシュ」(02年 米)
「散歩する惑星」(00年 スウェーデン 仏)
「恋愛寫眞 Collage of Our Life」(03年 松竹)
「メラニーは行く!」(02年 米)
「熱帯楽園倶楽部」(94年 松竹=ポニーキャニオン)
「ズンドコズンドコ 全員集合!!」(70年 松竹)
「ニューヨーク 最後の日々」(02年 米)
「映画 犬夜叉 時代(とき)を越える想い」(01年 東宝)
「集団殺人クラブ Returns」(03年 ケイエスエス)
「チャンピオン」(02年 韓国)
「エゴイスト」(01年 米 未公開)
「リング0 バースデイ」(00年 東宝)
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード」(03年 東宝)
「天使の牙 B.T.A.」(03年 ワーナー)
「逃亡犯」(01年 英 仏 未公開)
「東京暮色」(57年 松竹)
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ウィークエンド・ラブ 第82回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/02/16(Mon) 00:32
2月9日〜2月15日。
何年かぶりで小説を読んだ。
話題の「蛇にピアス」。
10日、職場の友人が芥川賞決定発表の載った『文藝春秋』を持っていたので「読んだら読ませて」と頼んでみた。
11日の祭日をはさんで12日に「芥川賞のはもう読んだ」と言って『文藝春秋』を持って来てくれたので313頁以後をちぎってもらうことになった。
「転職することになったら次は“彫り師”になりたい」と公言している私に『文藝春秋』をくれた友人は「『蛇にピアス』の方は○○さん(私の名前)の世界やわ」と言った。
以前電車通勤だった頃は色々と読書できたのだが、車通勤になりボクシングジムに通うようになり本当に読書する時間がなくなってしまった。
それでも久々に大きな話題となっているこの作品には興味があったので何とか時間を捻出して読もうと思った。
14日の土曜と15日の日曜に、牛丼が売られていないことを確かめるようにしてはいった「松屋」で“豚めし豚汁セット並”を食べながらとか、スーパーのレジでの並んでいる時間とか、最近凝っているカレー作りの生姜とにんにくと玉葱を炒めながらの時間とかで読んだ。
主人公の「私」は家族連れが多い商店街の中で<こんな世界にいたくないと、強く思った。とことん、暗い世界で身を燃やしたい、とも思った>というルイという名の19歳の女性だ。
ルイは、クラブで知り合った二つに割れた蛇のような舌にひかれて、その舌を持つ男アマと暮らすようになる。
そういう舌はスプリットタンと呼ばれ舌ピアスの穴をどんどん拡張していって、最後に先端部を切り離すことで完成させるという。
ルイは自身もスプリットタンをやろうと考えアマとそういうピアスやら刺青を扱うパンクな店を訪ねる。
ルイはその店の経営者シバと刺青にも興味を持つ。
居酒屋を出た後の路上でルイをナンパしてきたチンピラをアマは殴り倒し、シルバーリングのはまった拳でマウントパンチでさらに殴る。
新聞に路上で暴力団員撲殺の記事が載り、ルイはアマが殴った男かもしれないと考え、アマの髪の色を変えたりする。
ルイはシバに刺青を彫ってもらいながら、アマには秘密で、シバとの肉体関係を持ち続けてゆく。
刺青が完成した後、シバはルイに結婚を申し出る。
そしてアマは家に帰ってこなくなる。
アマの惨殺死体が発見され傷心の中でルイは、シバの店で働くようになる。
暴力団員の報復でアマは殺されたと考えるのが妥当なところだ。
しかし、ある時、ルイはシバの店のデスクの引き出しから、惨殺されたアマの死体の陰部に挿入されていたアメリカからの輸入ものというお香を発見する。
ルイは、アマを殺したのはシバじゃないと自分に言い聞かせるところでこの小説は終わる。
選評で池澤夏樹は<痛そうな話なので、ちょっとひるんだ>、山田詠美は<良識あると自認する人々の眉をひそめさせるアイテムに満ち>、三浦哲郎は<終始目をまるくして読んだ>と書き、このダークな世界の小説に驚きを隠せない様子だ。
先にも書いたように、私は、「彫り師になりたい」発言から、私の世界の話だと先に読んだ人に言われた。
そのことも含め、仕事はテキトーでもっぱらプロボクシングやら映画やらの世界に夢中だという変わり者の人間でなければ、芥川賞をとるような優れて文学的価値を持つ世界観とつながれないのだ、君たち世の良識あると自認する人々の典型であるコッカコームインには分からんのだ、という特権意識を持ちながら読み始めた。
「犯罪者や娼婦が活躍する映画を愛し支持し続けてきた俺ならこの世界が理解できる」そう自負していた。
しかしいきなりの“スプリットタン”の説明で始まるこの小説はあきらかに読むものの度肝を抜いてやろうという計算があったように思う。
それは見事に成功している。
私は度肝を抜かれた。
読むに連れて、ひるんじゃいけない、目をまるくしてちゃあいけないと言い聞かせている自分がいた。
それはすでにひるんでいることであり、目をまるくしていることであった。
選評で高樹のぶ子が書いているように20歳の著者金原ひとみの<人生の元手がかかっているであろう特異な世界>は、想像以上に強烈だった。
しかしセンセーショナルなダークな世界も読み進むに連れて自分もそこの住人になりつつあると、その世界よりも展開へと興味が集中して行った。
そしてラスト――アマを殺したのはシバかもしれない、シバがルイと結婚したくてアマからルイを奪うために惨殺したのかもしれないとわかるラストだ――そのラストを選者河野多恵子は<結末も、見事なものだ>と書き山田詠美は<ラストが甘いようにも思うけど>と書いた――私は……落胆した。
「これは違うだろう!」と思った。
ある映画を思い出した。
「チョコレート」(01年 米)だ。
近年の恋愛映画の中では、私は最高作だと思っている。
あの映画の中で、夫も子供も失いボロボロのハル・ベリーが、お互いに傷口をいたわりあうように出逢い、共に生きていこうとする男が実は夫を処刑した男でもあったことをラストで知る。
しかし、そういうことも引き受けてこの男と共に生きていくしかないという断念と祈りとが交じり合ったハル・ベリーの心情が痛切なラストとして心に突き刺さった。
「蛇にピアス」はこれに似たラストであったが「チョコレート」ほどの深い感動はなかった。
ラストでこの小説は、犯罪サスペンスミステリー的な要素で結論付けられてしまうことになってしまったと思う。
そしてこの作者がものを書くための土壌となる世界を、唾棄すべきものとして片付けてしまったようにとられると思った。
結局、刺青やらピアスやらをしている人間はこんな犯罪を犯す人間なんじゃないかという世の良識ある人々の視線に迎合することにもなると思った。
それは著者金原ひとみが望んだものではないはずだ。
インタビューを読んでもこの特異な世界を描ける元手のかかった人生であることを金原ひとみは語っている。
ならばこのラストじゃない。
彼女が<暗い世界で身を燃やしたい>という主人公を描きたいと思ったのは何故だったのか?
そのことをもっともっと見つめていたなら違う方向にこの小説世界は向かっていたのではないだろうか?
そしてこの小説のもうひとつのテーマである“身体改造”については、スプリットタンやピアスについてはともかく、彫り師に憧れる者として刺青について書いておきたい。
確かにプロボクシングのトレーナーという立場から刺青をした若者と多く接する機会にめぐまれていることもあるのだが、どれだけファッションのようになってきていても、刺青の持つネガティヴなイメージは拭い去ることはできない。
「蛇にピアス」のルイも<暗い世界で身を燃やしたい>と思っている人間であったからこそ、刺青をいれようと考えたのだ。
安室奈美恵は、母親が再婚相手の兄弟に殺されその時に支えてくれたサムと離婚した後に両肩に刺青をいれた。
「突入せよ!」という警察権力のひとりを英雄として描いたクソ映画を絶賛した腐れ外道の石原慎太郎が選評でいうような<浅薄な表現衝動>と捉えられるほど安易な気持ちでいれられるものではない。
私は、刺青を入れようと人が決心することを“敗者復活戦を戦う為の決意表明”と受け止めたいのだ。
刺青をいれる人を敗者として扱うことを“蔑み”と指摘されるならば“新たな世界で再生を誓うための刻印”としてもいい。
私の中では“彫り師”は、“ボクシングのトレーナー”と同じ意味を持つ。
そして私は、ボクシングジムでボクシングを教えることも、ここでこんなことを書き続けていることも、私にとっては人生の敗者復活戦の戦いだと思っているからである。
金原ひとみの次作には、何故<暗い世界で身を燃やしたい>と思う人間を描きたいのかがわかるものが書かれていることを願う。
期待したい。
見た映画。
「tokyo.sora」(01年 日活=東京テアトル)
「スリーピング・ディクショナリー」(02年 米)
「ヴァンパイア/最期の聖戦」(98年 米)
「クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア」(02年 米)
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無責任ものぐさ日記(6)
投稿者:
Akira
投稿日:2004/02/13(Fri) 12:04
今朝、朝めしを食しつつ、読んだスポーツ新聞によると、
なんと!モハメド・アリとキンシャサで歴史に残る試合で負け
ズタボロになり酒と女に溺れ、飲酒不品行のあげく、ある日、
霊感にでも打たれるたように、「ハレルヤ!」と清々しい
叫び声を上げた、元ヘヴィュ−級チャンプの齢55のジョージ・フォアマンがリングに復帰するらしい。エッ!あの柔和な表情の牧師先生が・・・と愕然!しかし、40歳にしてプロボクシング
ヘヴィー級チャンピョンに返り咲いた実績もある人だ。
奇跡は二度起こるかも知れない。
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ウィークエンド・ラブ 第81回−2
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/02/09(Mon) 00:00
見た映画。
「ショウタイム」(02年 米)
ロバート・デ・ニーロとエディ・マーフィのアクション・コメディもの。
それにしても最近のデ・ニーロって刑事役が多い。
しかもこれはコメディだ。
かつて「ゴッドファーザーPARTU」で初めて見たときはとんでもなく凄い役者が出てきたものだとびっくりし、次に「タクシードライバー」で夢中にさせられ、「ディア・ハンター」にしびれまくり、「レイジング・ブル」で完全KOされてしまったような映画ファンにはこういうデ・ニーロは正直辛い。
ま、刑事コメディをやってしまえるほどデ・ニーロは自由なんだと考えることにしよう。
「ハードラックヒーロー」(03年 エイベックス)
アイドルグループV6のメンバーを使ったSABU監督の青春スポーツもの。
グループのメンバーのひとり岡田准一がにわかキックボクサーにしたてあげられ、八百長で負け役と決まっていた試合にラッキーパンチ一発で勝利してしまい、賭けをしくんでいたやくざから逃げるというエピソードを中心にそこにいた人々の様々な人生模様を描いている。
最後の方で実際にキックボクシングをやり始めた岡田が練習するシーンがある。
カメラは上体だけをとらえて下半身を映さないでいたのではっきりとは言えないのだがなかなかプロのトレーナーの目から見ても様になっている動きだった。
ミット打ち、サンドバッグ、ダブルエンドのパンチングボールをこなしている。
キックボクサーの動きではなくあきらかに国際式のボクシング関係者に教わったを思われるパンチだった。
日本映画で俳優がやるボクサーの動きの陳腐さは山ほど目にしてきたのだが、この「ハードラックヒーロー」の岡田のワンツーから左フックを返す打ち方などを見て邦画のボクシング映画ももっとやれそうな可能性を感じた。
かつて歌番組で宇多田ヒカルが好みの男性像としてこの岡田准一をあげていたが「なるほどなあ。」と思った。
元シブガキ隊の本木雅弘につづく可能性を持ったアイドルグループの中の一人なのかもしれない。
「わたしのグランパ」(03年 東映)
東陽一の「サード」を名古屋の映画館で見たときは、見た後しばらく動けずに映画館の天井を見つめていた思い出がある。
それくらい感動した好きな映画だった。
当然東陽一という監督には期待した。
しかしその後は女性映画か何やら品の良い作品ばかりになってしまってちっとも面白くない。
これは久々に文太も出ているので骨のある映画かと思ったけれど、やはり文太の孫役であるホリプロスカウトキャラバンから生まれた新人女優石原さとみにとっての素敵なグランパであるだけで「仁義なき戦い」や「太陽を盗んだ男」の文太とは比べるべくもない。
DVDの特典映像にはメイキングのように撮影風景の映像を見ながら新人で売り出していかねばならない石原さとみと東陽一が対話しながら解説しているのがあるのだけれど、まあこの小娘を適当におだてながらする会話の上手さに感心した。
それを見て東陽一も大っ嫌いな大林宣彦(作品というより監督のキャラが)に似ている奴だなあと思った。
こういう監督が女優を映画で裸にさせることがうまい人なのだろう。
大好きな「サード」はやっぱり東陽一というより脚本の寺山修司の力によるところが大きかったのだろうか?
「13階段」(03年 東宝)
反町隆史はディスコで喧嘩を売られる。
振りほどいた弾みで相手が頭を打ち死亡させてしまう。
刑務所から仮出所中に刑務官山崎努がやって来て、ある死刑囚の冤罪を晴らすための調査協力の手伝いをすることになる。
その死刑囚は犯行時の記憶を持っていないと主張し、その主張を否定せずに死刑が確定してしまっている。
記憶喪失と死刑ということから大島渚の代表作の1本である「絞死刑」(68年)を思い出した(脚本に田村孟も参加)。
あの作品では何故か死刑執行されても死なずに記憶をなくした死刑囚に対して刑を再執行させる為に記憶を取り戻させるようにドタバタする人々の愚かしさがブラックに描かれた。
その「絞死刑」を思い出したので記憶喪失時の犯行で死刑が確定していることがどうも腑に落ちなくひっかかった。
シチュエーションに強引なものを感じてしまったので展開されていくミステリーの謎解きより山崎努や反町の過去の痛みに重きをおいた陰陰滅滅な展開も趣味的な好みしか感じられずダメだった。
「ALIVE」(02年 クロックワークス)
DVDの特典映像に登場する監督北村龍平の饒舌ぶりに驚嘆した。
個人的趣味でよく美少女ゲームやらフィギュアが好きなオタク系のフリーマーケットに行くのだが、必ずたいして意味のないことを脳天から出すような高い声でニコニコと嬉しそうにしゃべりまくっている数人の出店者に出くわす。
そういう人々に出くわすと、なんとなく「こういうのの仲間に思われたくないな。これでもボクシングもやっている人間なんだけどな。」とかボソボソ呟きたい気分になる。
そういうイベントと分かって参加していて勝手なもんだが、中途半端なオタクの本音でもある。
北村龍平の喋りにもそれに近いような感じを受けた。
こちらには大してくそ面白くもないことを必要以上に熱くなって語っている様にひいてしまった。
この北村龍平やら「赤影」の中野裕之とかがオタクっぽい作品をどんどん受け持っていくことになるのだろうか?
自分たちの世界を自分たちの仲間だけで見て喜んでいることしかできなく、興味のない人間をも引きずりこむような力も欲求もないカス野郎だと思える。
言葉で批判してもその100倍もの量の言葉で言い返されそうなのでこういう輩には「おまえの作る映画はつまらないぞ」と言って顔面パンチしてやるのが一番だと思う。
昔のゴジだったらやったかもしれない。
「ドアをノックするのは誰?」(68年 米 未公開)
マーティン・スコセッシの処女作だから「明日に処刑を…」(72年)、「ウッドストック」(70年)の前に撮った作品ということになる。
主演のハーヴェイ・カイテルはニューヨーク大学でスコセッシと共に学んだ親友同士だそうだ。
まあ感想書くのが難しい実験的な作品ではあるのだが、マイク・ニコルズの「愛の狩人」に感じたような焦燥感と虚脱感のある作品だった。
「大災難」(90年 オリジナルビデオ)
周防正行が「ファンシイダンス」(89年)と「シコふんじゃった」(91年)の間に撮ったオリジナルビデオ映画。
山崎努が娘の結婚式に向かう途中のドタバタしたアクシデントのドラマ。
後の「Shall we ダンス?」(96年)につながっていくような、なんだかすっとぼけたような感動的な感じが早くも見え隠れしている。
トラブルつづきの果てにやっと娘の結婚式場についた時には感動とまでは行かないまでも見ているこちらも「よかったね」という気持ちにはなった。
見損なっている「変態家族 兄貴の嫁さん」(84年)をぜひ見てみたいものだ。
「ウェディング・プランナー」(01年 米)
結婚式の演出の手伝いをしているジェニファー・ロペスがお客である花婿に恋をして略奪愛してしまうラブコメ。
集英社文庫コバルトシリーズの方がまだしも共感の持てるドラマ作りをやっていそうだ。
「スパイ・ゾルゲ」(03年 東宝)
共産主義思想に身を投じた男を描いて「連合赤軍」につながるものが見れればと思ったのだが、全くダメだった。
昭和史の史実なぞ無視してゾルゲや尾崎にとって何故共産主義だったのかをもっと強く描いた方が面白くなったように思える。
「クリスティーナの好きなコト」(02年 米)
遊び好きな独身女性3人組の奔放さをドタバタコメディにしたもの。
3人組のうちの一人が人気者のキャメロン・ディアスで下品を通りこしてお下劣なまでに脳みそもお尻も軽そうな独身女性を明るく喜々として演じている。
あまりの下ネタのオンパレードに製作年度を知らずに見ていたこちらはきっと無名時代に出てしまった知られたくない作品なのに違いないと確信していた。
ところがどっこい「ギャング・オブ・ニューヨーク」(01年)と「チャーリーズ・エンジェル/フルスロットル」(03年)の間に撮られた作品であることにぶったまげた。
気取ったところがなく親しみやすい雰囲気がキャメロン・ディアスの魅力だと思うのだが、ここまでぶっ飛んだ役をやってしまえるとは思わなかった。
下ネタギャグを楽しむよりキャメロン・ディアスにはこの映画の出演を引き受ける前に何かあったのではないだろうかと心配になってしまった。
彼女のファンの人はこういうのOKなんだろうか?
管理人のべあさんはファンだったと思うのだけどこの作品見たのかなあ?
「ある意味ではアッパレだなあ」とまあ書いておこう……。
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ウィークエンド・ラブ 第81回−1
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/02/08(Sun) 23:59
1月27日〜2月8日。
日本ウェルター級のB級のランカーに入っているうちのジムのMaがA級ボクサー4回戦賞金トーナメントに出場することになった。
これは今年から始まった新しい試みで8回戦、10回戦を戦うことのできるA級ライセンス保持者を対象にしたトーナメントでフェザー級、ライト級、ウェルター級の3階級で、各8選手をエントリーするものだ。
試合報酬は勝者が30万円、敗者が10万円、引き分けは20万円、さらに優勝200万円、準優勝50万円の賞金に加え、初回KOには20万円、2回KOには15万円、3回KOには10万円、4回KOには5万円のKO賞も用意され、大会を通じての最優秀選手には200万円相当の自動車も贈呈されるという豪華な賞金トーナメントで、その多額な賞金をモチベーションに戦うということだ。
見る側にとっては、A級選手による凝縮した4ラウンドが楽しめるという内容になっている。
人気のある格闘技K−1等のラウンド数を少なくして激しい試合内容にするというある意味では安直な盛り上げ方をボクシング界が真似たものだと言えなくはないのだが、まあなんにせよそれで選手がやる気を起こすことになるのならそれでもいい。
パンチ力よりもうまさで勝負するタイプのMaにとってはある意味で不利なトーナメントと思えるかもしれないが、KO狙いで大振りしてくる相手をさばくうまさを生かしてカウンター狙いか、いっそKO狙いではなく判定勝利狙いで行けば面白いことになるかもしれない。
このトーナメントに出場することを決意して久々にジムに顔を出したMaは「今年はやりますよ!」と大口を叩いていたので「口よりもまず練習態度で示せ!」と厳しく言う。
30日にネットで出場選手の発表があった。
その中にはMaがかつて対戦した選手が2名あった。
一人には勝ち、もう一人には負けていた。
2月1日の試合会場でプリントアウトしたそのメンバーをMaに見せる。
かつて負けている強豪のT.Mの出場に少しビビッていた。
1日の夜には組み合わせがネットで発表されていて、Maの対戦相手はY.Kという選手だった。
試合は4月14日、6月23日、8月13日に東京・後楽園ホールで行われる。
2月1日、ススヒデ金山ホールで日本フェザー級9位の刺青野郎がこの興行の主催ジム所属のS.I選手と10回戦を戦った。
前回や前々回の日記に書いたようにこの試合に刺青野郎はなかなかモチベーションを上げられずにいるうちに、風邪を引いて練習を休んでいた。
練習を再開して10ラウンドと11ラウンドのスパーをこなし、もう一日スパーをやるという時に腰を痛め早い目のクールダウンに入っていた。
調整不足はあきらかであったが、前回ランカー入りすることになった身を削るような10ラウンドの経験や日本ランカーとしてのプライドがこいつの喧嘩根性に結びつけば手堅く勝利するのではないかと思っていた。
1日の朝、ジムに顔を出した刺青野郎の表情が冴えない。
「身体が重いっすわ。」と言う。
11時前にジムを出発して初めの会場だったので途中道に迷いながら1時前に会場入りをする。
かつてはボーリング場だったその会場は天井が低く圧迫感のあるところだった。
また、観客のヤ○ザ屋さんの数も他の会場より多かった。
当日のプログラムを見たら何と試合が5試合しかなくしかも雑誌やら協会から送られてくる試合日程を見ていても明らかにメイン扱いとなるだろう刺青野郎の試合がセミの第4試合になっていた。
メインは某有力ジムの85キロという重量級の不動産屋である選手の引退試合になっていた。
会長に聞くと不動産屋がチケットを大量に売りさばくことの出来る選手なのでしかたがないということだった。
会長によりバンテージが巻かれ、私たちは氷等の準備やら準備運動をさせたりしながら試合時間を待つ。
その間に多くの人々が刺青野郎を激励しに控え室にやって来た。
前回四日市で激しい10ラウンドを戦った前日本ランカーのSaがやって来た。
Saが「調子はどう?」と聞くと刺青野郎は「あの試合で燃え尽きましたわ。全然ダメですわ。」と答えた。
Saは「引退を考えている」と言った。
今は、自分の練習をせずにジムのトレーナーのような手伝いのようなことをやっていると言う。
シャープなジャブやワンツーを持つ前日本ランカーが前回の刺青野郎との接戦を最後に引退してしまうにはあまりにも惜しいと思った。
ことボクシングのうまさというレベルでは遥かに刺青野郎の上にある選手なのだが……やはり戦うモチベーションを維持し続けるということは本当に厳しいことなのだろう。
一昨年やはり四日市で刺青野郎をボディブローで苦しめてドローになったYa選手も子供を連れてやって来た。
「あの試合、アバラ2本折れとったっすわ。3ラウンドにもろたパンチですわ。」と刺青野郎。
Yaは左目の左側が見えないようになってしまい引退したという。
そうやってかつては激闘をくりひろげた対戦相手達が次々とやって来て談笑している姿を見ていると改めて刺青野郎という男は魅力のある男なのだと思った。
チケットを贈らせていただいた伊藤彰彦さんもお酒を持って来てくれた。
伊藤さんにも調子を聞かれたので私は「調整不足だが、打ち合いになれば何とかいけるでしょう」と楽観的に答えた。
対戦相手のS・Iが会場の隅でミット打ちを始めた。
チャンスとばかりに気づかれないように遠巻きに観察する。
小気味良い音がミットを響かせる。
相当のレベルで仕上がって来ている様に見えた。
まあ、A級ボクサーのレベルでは刺青野郎より下手な選手を探す方が難しいのだけれど、こいつの強さはそういうところではないのだからと自分を納得させる。
1つの4回戦と2つの6回戦を終え15分間の休憩をはさみいよいよ第4試合となった。
きっちりと仕上げてきたらしきS・Tは、最初からガンガン前に出て手を出してきた。
こういう展開は望むところだ。
乱打戦ならばテクニックの差よりもパンチ力である。
パンチ力ならば9勝のうち2つのKOしかないS・Tに比べ5つのKO勝利をして来ている刺青野郎が負けるわけがない。
手数だけは多いS・Iのパンチであったが、クリーンヒット時の効果の違いは2ラウンドになって明確になっていった。
3ラウンドもガンガン出てくる相手に応戦しての激しい打撃戦の応酬となったが、その中の刺青野郎のひとつのパンチ(右のショートだったと思った)がカウンターでクリーンヒットし、S・Tの膝がガクッと落ちレフリーはダウンを宣告した。
S・Tもどちらかと言えば刺青野郎よりはましだが、ボクシングのうまい選手じゃない。
足とかの使える選手ではない。
A級ボクサーにまで上がってこれたのはとにかく前へ出てしつこく手を出す根性とそれに打たれ強さが凄かったからだ。
確かOPBFのチャンピオンとの試合で1度ダウンの経験をしているだけだったと思う。
その打たれ強い選手が膝を落としたのだ。
試合再開の後、刺青野郎はラッシュをかけたが力んで大振りになり応戦してコンパクトな連打を打ってくるS・Tのパンチを逆にもらってしまったりで詰めきることは出来なかった。
これまでの過去の嫌な試合の記憶が蘇って来た。
刺青野郎はよく早いラウンドでダウンをとったり、ぐらつかせるようなパンチを当ててしまうことが多い。
それだけ見た目以上にパンチ力がある。
しかしその後が雑になり逆転された試合がいくつかあるのだ。
「雑になるな!」と叫ぶがこの打撃戦はテクニックよりもハートの勝負になっていった。
どれほど刺青野郎の強いパンチをもらおうがけっしてひるまずガンガン前へ出て刺青野郎の2倍や3倍の数のパンチをS・Iは打ち続けた。
こういう前へ出て打ち続ける選手には我慢してでも強打を打って相手を下がらせてしまうことが一番効果がある。
刺青野郎にはそれが出来るパンチ力があるのでそう判断した応援席のうちのジムの選手達は「下がらせろ!」と叫ぶ。
正しい指示だと思った。
しかしS・Iの前に出ようとする根性はハンパじゃなかった。
どんなに強いパンチにも恐れず屈せずS・Tは前に出て手を出し続けた。
しかたなく下がりながら打ち終わりを狙ってカウンターをとるボクシングを刺青野郎はとっていった。
否、とらされていった。
壮絶な打撃戦は双方顔面を晴らしながらの消耗戦となっていった。
刺青野郎の強いパンチもS・Tの連打もやや衰えが見えてきたが、その衰えはやや刺青野郎の方がひどいように見えた。
しかし刺青野郎の根性もハンパじゃないので四日市でのランカー入りを決めた時の試合のようにもうダメかというところからきっと嵐のようなラッシュが出るはずだと信じ続けた。
もうこの辺からそういうラッシュを出さないとまずいぞと思っていると、8ラウンドになり不意に試合が止められ刺青野郎がドクターチェックを受けた。
私はその真下に飛んで見に行った。
左目上のまぶたが切れていてドクターがタオルで皮膚の表面をぬぐうとすぐにその後からピューっと血が吹き出た。
私が「ヤバイ」と思った瞬間、ドクターの指示にレフリーがうなづいた。
アナウンサーがリングに上がり「ただいまの負傷は偶然のバッティングにより……」といいかけると青コーナーから猛烈な抗議が起こった。
「バッティングじゃないだろ。どこ見てるんだレフリー。」という怒号。
驚いたことにその時、何と刺青野郎は「バッティングじゃないです。パンチです。」リング上から発言して認めてしまったのだ。
世界チャンピオンをかかえる青コーナーの名門ジムの会長は興奮してリングインしてコミッション席の前まで行き抗議をする。
しかし一度発表したことは覆らず、偶然のバッティングによるデシジョンとなった。
8ラウンドを含む判定で勝敗は2−1でS・Tの勝利となった。
3者とも1ポイント差による微妙な判定であった。
結局最終ラウンドとなった8ラウンドは相手ジムの会長の猛烈な抗議と刺青野郎の発言とで明らかに10−9で相手に1ポイント持っていかれたと思われた。
本来ならばまだはっきりした差のないラウンドだったので10−10でも良かったラウンドだったと思った。
もしそうであったならば2−0で刺青野郎の勝利だったということになる。
この裁定に私自身は納得できず腹が立ってしょうがなかったのだが、会長は裁定に対しては意外なほど納得していた。
私は、怒りの向けるべき矛先がジャッジやレフリーストップ後のゴタゴタに対してではなく、刺青野郎でしかないという現実が整理できるまでに時間を要した。
しかしそれが出来てくるとよけいに苦い思いにとらわれた。
会長は「あのままつづけとっても勝てやんだ。」と言った。
そして何より練習不測で試合に臨んだことを刺青野郎に対して厳しく叱った。
“出血がバッティングでなくパンチによるもの”と自ら認めてしまった刺青野郎の発言は事実上のギブアップだったのだろう。
1980年11月25日のシュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランの世紀の再戦でのやはり8ラウンドにデュランの吐いた「ノ・マス!(もうたくさんだ)」と同じ意味を持った発言だったのだ。
そうである以上、試合内容やら判定やらをクヨクヨ考えてもしかたのないことだ。
四日市でランカー入りを決めた試合の時には、最後の最後まで勝利にしがみつこうとする執念が刺青野郎にはあったのだが、今回はそれがなかった。
負け惜しみになるのかもしれないが、S・Tはいい選手だが、前ランカーであったSaほどの怖さはない。
刺青野郎が充分の練習量を積んで臨んでいたのなら勝つ可能性はかなり高かったと思う。
しかし、今回こういう結果になったことの決め手になったことは“自分がやってきた練習を信じきる力の差”だったと思う。
ダウンをとられパンチ力の差は歴然だったのにそれでも前へ前へと出て手を出し続けたS・Tはやってきたであろうキツイ練習量を心から信じていたのだと思う。
赤コーナー控え室で刺青野郎のバンテージを切り、氷や水を捨てたりして試合のことをワアワア言っているところへ突然、担架に乗せられて運び込まれて来た選手がいた。
第3試合に出場した青コーナー側の選手だ。
目の奥が骨折しているらしいのだが、急に気分が悪くなって倒れたという。
頭が痛く吐き気がするという。
救急車が呼ばれ、それを待つ間に寝たままバケツに嘔吐した。
うちの会長は横に行き「寝たらあかんぞ!寝たらあかんぞ!」と何度か言った。
救急車が到着してその選手は運ばれて行った。
救急車を見送るようにして私たちは荷物をまとめ会場を出た。
関係者用の駐車場に行くと他の車で蓋をされており私たちの車は出られない状態だった。
メインの試合がまだ終了していない為だから仕方ないことでもあった。
興味をひかないメインの試合の為に会場に戻る気はしないので車に乗って出られるようになるのを待った。
帰り道に中華料理店により食事をしながら会長と私と運転手をしている若いトレーナーの奥さんとの3人でビールを10数本飲んだ。
翌日から今日まで新聞に試合後のボクサーの訃報記事が載らないかと心配しながら気にかけているのだが今のところそういう記事は掲載されていないようだ。
死と隣り合わせの中での戦いであることはわかってやっているつもりなのだが、できれば本当の“死”には出会いたくないものだ。
刺青野郎は試合後一度もジムには顔を出していない。
進退についてはあせって明らかにする必要もないし、またそんなことが求められるほどの地位にあるわけでもない。
しばらく休んでまたやりたくなったらやって来るだろう。
個人的に思い入れの強い選手なので私は何とかもう一度きつい練習に取り組んでS・Tとの再戦に臨んでもらいたいと思っているのだが……。
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ウィークエンド・ラブ 第80回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/01/27(Tue) 00:18
1月12日〜1月26日。
風邪で休んでいた刺青野郎がジムに顔を出すようになった。
「どんな具合なんや」と聞くと「(風邪は)腹にきましたわ」と言う。
「何も食べずに寝ていた」と言うので「やらせてくれる女はおっても、おかゆ作ってくれる女はおらんってことか!?」と毒づいた。
すると刺青野郎は「俺、結構料理できるんですわ。」と言った。
「バカ野郎、そういう問題と違うやろ!」と私。
しかし試合も2月1日と迫って来ているので21日から激しいスパーリングが始まった。
今度、高砂市での試合が決まっている去年の新人王の本命だったKiら3人を相手にいきなり10ラウンドのスパーをこなした。
刺青野郎のボクシングは相変わらず膝の硬いぎこちないもので、ショートの連打のうまいKiに打ち込まれるシーンもあったが、発達した後背筋を使った振り回しのパンチと何よりその気迫は見てとることができた。
足をひねって引きずりながら、鼻血を出しながらも10ラウンドを戦いきった姿勢は、このバカなりのランカーのプライドってやつだろう。
23日には11ラウンドのスパーもやった。
日本ランカーになっての初の試合……なんとか勝ってほしいものだ。
勿論一部にではあるのだろうが、梶芽衣子ブームがつづいている。
雑誌『映画秘宝』の表紙にまで使われてファンとしては嬉しくてしかたないのだけれど、今度は『ミュージック・マガジン』2月号の巻頭カラーページにまで登場していた。
それで梶芽衣子が昨年秋に20年ぶりに歌番組に出演して『怨み節』を激唱していたことを知り驚いた。
これはぜひ見たかった。
『野良猫ロック』『修羅雪姫』どれもアウトロー・ヒロインとしてかっこいいのだが、私にとっては何といっても『女囚さそり』だ。
“反体制”なんてことは作り手の東大出の伊藤俊也が意図したりとか評論家の解釈としてあったのかも知れないが、中学生で封切り(!)で「女囚さそり けもの部屋」に出会い衝撃を受けた者としては、何より裏切られたてめえの怨みを晴らすというのが良かったのだ。
落ちこぼれの中学生は、そこに胸を打たれたのだ。
世の為、人の為に生きるなんてことは余裕があってできることで偽善にしか見えず、自分のことしか考えられないくらい家庭も学校も辛い状況で、鬱々として日々をやり過ごして生きていた頃の私にとっては、復讐の為に生きるということをみせつけられ、なんだかとても救われたのだ。
そうだ、復讐の為に生きるということは“清潔”だったのだ。
『キネマ旬報』のベストテンでは10位で『映画秘宝』ではベストワンに評価された「キル・ビル」は極端に賛否の分かれる映画だったけれど梶芽衣子の再評価のきっかけになってくれたという功績だけでもチンピラ映画ファンとしては、「ありがとう」と言っておきたいのだ。
いつかきっとDVDソフトが購入してある『女囚さそり けもの部屋』の感想を書こう。
きっちり書こう。
見た映画。
「クローサー」(02年 香港 米)
美女3人が暴れまくるアクション映画。
ハリウッドの「チャーリーズ・エンジェル」よりも日本の「プレイガール」よりも肉体の駆使のしかたが凄くて好感が持てた。
「レスリー・ニールセンの2001年宇宙への旅」(00年 米 加)
主にSF映画のパロディーなのだが、もともとSFそのものが何でもありの中でセンスを競うみたいなところがあるのでパロディーそのものが成立しにくく感じた。
もっとしかめっ面した世界をおちょくる方がパロディーとしてはやりやすいだろうと思った。
「襲られた女」(81年 ミリオンフィルム)
長いことお借りしている伊藤さんのDVDソフトで見た。
高橋伴明のピンク時代の最高傑作で、当時あった『ズームアップ』とか言ったピンク映画雑誌で年間のピンク映画の大賞にもなっている作品だ。
確か翌年が水谷俊之の「視姦白日夢」だった。
私はこの「襲られた女」を『キネマ旬報』での寺脇研の熱い映画批評を読んで、県内の映画館にかかるのを待って見に行った作品だ。
日活ロマンポルノならまだいいのだが、ピンク映画となるといつ上映されるのかも予測できなく、劇場でこの傑作を見られたことは幸運としかいいようがない。
二人の男と一人の女というアンリコの傑作「冒険者たち」のパターンのドラマだ。
「もっと、まともにやらなきゃ」と考えながらも“何でも屋”として危(やば)い仕事ばかりをやっている男二人のウロウロぶりとその男たちの仲間に入りたくてなかなか入って行けない女(忍海よしこの可愛いこと!)の3人の世界がとにかく切なくて胸に来る。
伴明には、この作品を撮った81年にもう1本「歓びの喘ぎ・処女を襲う!」という傑作がある。
これも劇場で見ているのだが、この作品をもう一度見たくなった。
今回「襲られた女」を再見して3人の仲間意識のセンチメンタルな部分が既知認識していたこともあって多少鼻についた。
「歓びの喘ぎ・処女を襲う!」は元学生運動の活動家が、実家の漁村に帰って来てのドラマだがもっともっと孤独な寂寞としたものだったと覚えていたから見たくなったのだ。
それにどこかで主人公の部屋に吉本隆明や埴谷雄高の本があったと書いてあった記憶があるのでそれも確かめてみたくなった。
『キネマ旬報』で熱い「襲られた女」評を書いた寺脇研のその他の青春映画の批評文を当時3流の落ちこぼれ高校にいて年中バイトばかりしていた私はとても共感しながら読んでいたのだが、その寺脇研があの文部省のエリート官僚の寺脇研と同一人物であることを知った時は、本当にぶったまげた。
また話は脱線するのだが、昨年末12月26日に「学習指導要領の一部改訂告示 ゆとりから学力重視に」という新聞記事があった。
その記事を受けたような格好で今年1月3日には「05年度算数教科書 台形面積公式など復活へ」という記事もでた。
それを読んで、寺脇研のことを考えた。
なぜならその新聞記事で反省材料とされている“ゆとり教育”を推し進めていた人こそが寺脇研だったからだ。
私は寺脇研の著書新潮OH!文庫「21世紀の学校はこうなる」を読んでいたからなおさらだった。
その文庫本のサブタイトルにはこうあった。
「“ゆとり教育”の本質はこれだ 闘う文部官僚 寺脇研」
書店で立ち読みでパラパラとめくっていたら自分のことも書いていたので興味深くて購入した。
小学校の時に福岡から鹿児島へ移り馴染めず内向的になったこと。
親の薦めるままに中・高一貫の私立の男子校に進学したこと。
芥川龍之介、菊池寛、太宰治、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、大江健三郎など、中学3年や高校1年の頃は年間300冊の本を読んでいたこと。
親に読書を禁じられ勉強部屋に監禁状態にされそれが嫌で中学2年生の冬に部屋のガス管の栓をひねって自殺未遂を起こしたこと。
高校入学前の春休みに監督森川時久の「若者たち」、その後、監督恩地日出夫の「めぐりあい」に出会い映画にのめり込んでいったこと。
高校2年から『キネマ旬報』へ投稿し常連となっていったこと。
親の傘から逃れてなおかつ親が許してくれる東大文Tに進学を決め勉強したこと。
高校の答辞で“ドロップアウトした友人のことを考えるとなつかしい母校とは言えない”と造反したこと。
文部省と決めて公務員試験を受けて内定をもらったこと。
“権力”になって行く自分自身に二律背反的な矛盾を感じて自律神経失調症になったこと。
そういう自分自身のことを語った部分はすこぶる興味深かった。
そうして寺脇研は“ゆとり教育”を推し進める“闘う文部官僚”になって行ったのだ。
しかし肝心な、“ゆとり教育”の展望になってくるとちっとも面白くないのだ。
まあ世の中で言うタイプの教育熱心な親ではない私なので読む方にも問題あるのかもしれないが。
(私なりには子供の教育には熱心であるつもりだ。)
寺脇研の著書はとにかく東大文Tから文部官僚という絵に書いたようなエリートが本人も書いているように二律背反的意識の中で「優越感を持たない」ことに敏感になりすぎて美辞麗句だらけのうそ臭い政治家の言葉のような文章になってしまっているのだ。
先に書いた寺脇研自身のことは著書の終わりの方に出てくるのでそこに行くまでにずっとその美辞麗句につきあわされることになった。
「学校の実態を知る」ために「子どもたちに合わせて床に座ったり」とか、「どんなに忙しくても、課の職員との会話は欠かさないことにしています。」とか「私が教師になったとすれば、きっと、クラスの子どもたちに楽しく勉強してもらうのが何より大事だと思うでしょう。」とか「尊敬されなくたっていいから、信頼される教師になってもらいたい。」とかよく「臆面もなく書くよなあ」と思わされる文章で“ゆとり教育”が語られる。
そのヒューマニストぶりが、気恥ずかしくてしかたなかった。
こちとら親に見捨てられたようなクソガキ共をこの10年間の間に40人ばかりプロボクサーに育てて来た“教育者”の端くれだ。
それなりにここまでやってこれたのはやっぱり私も親に見捨てられたようなクソガキだったからだ。
寺脇研の書く綺麗な言葉は、上から降りてきての目線の高さにズレがあるとしか思えなかった。
だから年末年始の新聞記事が載る前から私の中には“ゆとり教育”とかいうものは現実の伴っていない綺麗事だという気持ちがあった。
そして“ゆとり教育”が一部では学力低下の要因として厳しい批判の的になっていることも知ってきていた。
『週刊朝日』で時々、映画評を書いていて受験勉強法の書物を多数出している東大理V出の精神科医である和田秀樹も厳しく批判していた中の一人だ。
そういう中での新聞記事だったので、寺脇研のことが気になったのだ。
「“ゆとり教育”は一敗地に塗れたのかもしれない。寺脇研は失脚するのかもしれない。」
そんなことを考えた。
しかしそのことで寺脇研の書く文章はまた魅力をとり戻すのかもしれないとも思った。
かつて川本三郎が『マイ・バック・ページ』を書いて自分の心の傷であった事件を清算してしまった後、人に好かれる文章しか書かなくなったことを残念に思う者としては、寺脇研にそんな屈折した期待を抱いてしまう。
文部省エリート官僚の今の地位から転げ落ちた寺脇研であるならば、親から見捨てられたかつてのクソガキだった私にも少しは共感できる教育論が書けるのではないだろうか?
その時には彼はきっと口うるさそうなPTAでもその他の教育関係者でもましてや文部省の部下や上司にでもなくただ自分の為だけに信じた教育論を書いていると思うのだ。
「運転手の恋」(00年 台湾)
主人公ジンウェンが、一目ぼれした宮沢りえ婦人警官の気を引くために交通違反を繰り返す様が、結構せつなくていい。
「X−MEN2」(03年 米)
1作目につづき魅力的な作品になっている。
ミュータントと人類が共存することの困難さを抱えた近未来の社会。
ミュータントは、人類よりも優れた特殊能力を持っているにもかかわらず、いまだに世を支配しているのは人類であり、その人類の目から見れば、ミュータントは脅威であると同時に恐怖の対象として存在している。
ミュータントの側もそのことを充分に認識して慎ましく生存しようとしているのがまず悲しい。
それでも人類のミュータントへの偏見は強く意識の底辺にあり、そういう意識に呼びかけてミュータント抹殺計画を企てる元陸軍司令官。
やむを得ず戦いの渦にひきこまれるX−MENたちも皆悲しい闇を背負っている。
何でも凍らせることのできる超能力を持った青年は彼女とのキスも抱き寄せることにも支障をきたしている。
青年は超能力を持つミュータントであることを普通の人類である両親に打ち明け目の前で誇らしげに飲み物を凍らせてみせるが親からは恐怖と嘆きの視線しか返ってこない。
誰にでも変身できる女ミュータントもまた「誰の姿にもなれるのなら元の姿に戻る必要はあるのか?」と問われて無言のままやり過ごす。
その態度に本当の自分というものを失いたくないという願いを見た。
SFXを駆使した派手な映像がふんだんにちりばめられていてそこだけ目を奪われてしまいがちだが、その世界観の構築のされ方といい個々の人物の描き方のうまさといいこの手のアメコミもののなかでも傑出した出来だと思う。
「トランスポーター」(02年 米 仏)
カーチェイス、格闘シーン、銃撃戦、ストレートでスタイリッシュと言えばかっこよすぎるのだが、この単純なアクション映画は楽しめた。
最近のリュック・ベッソンが製作とかを手がけた作品としては一番面白く見れた。
ルールさえちゃんと守るのであればどんな仕事でも引き受けるという“運び屋”が事件に巻き込まれていくという典型的なベッソンアクションもののパターンなのだが、この主人公が木枯し紋次郎のように“情”的なものに巻き込まれたくないとニヒルにクールに生きているのだが、結果としてそういう世界になってしまうという設定も心地よく、立派な正義のヒーローは苦手なこちらとしても嫌味なく乗れたのだ。
「テロリスト・ゲーム」(93年 英 米)
ジェームズ・ボンドになる前のピアース・ブロスナンが敏腕のコマンドとしてテロリスト集団と戦うミリタリーアクション。
原作にはアリステア・マクリーンが関わっているようだが、「ナバロンの要塞」のような世界観で現代を描かれてもあまりにも単純すぎてあほらしくしか見えなかった。
「ミスティック・リバー」(03年 米)
大好きなイーストウッド作品でもあり、あまりにも評判がいいので24日(土)の最終回にワーナーマイカルシネマズ鈴鹿に見に行った。
この映画に関してはサスペンスミステリー仕立てなので【ネタバレ注意】は必要だろう。
しかしイーストウッド作品らしく謎解きとかよりも何よりも人間ドラマだった。
これまでのイーストウッド作品からは考えられないような重苦しい内容だった。
正直見終わった後、映画を客観的に評価する言葉なんて出てこなかった。
パンフに書かれている“アカデミー賞確実”“最高の演技”“驚くべき脚本”などとの誉め言葉を発するにはあまりの重さにひきずられていた。
夜12時前に映画は終わったのだが、一緒に見ていたアベックや男女混じった複数のグループには不評だった。
「途中で寝ちゃったよ」とか「途中ぜんぜん盛り上がらんじゃん」とかの声が聞こえて来た。
そいつらに対しては「おまえらのような幸福な連中には無縁の映画だ。見なくていい!」と乱暴な気分になった。
何よりもまず「11歳というのは小学何年生だろう?」ということを考えた。
計算して小学5年か6年生だとわかりまた考え込んだ。
ティム・ロビンスは11歳の時近所の友人のショーン・ペンとケビン・ベーコンと悪戯という程度の悪さをする。
その様子を見ていた警察のように振舞う男に咎められ男の言うとおり男の車に乗る。
ロビンス一人が乗ったところで男は車のドアを閉め走り去る。
助手席に乗っていた別の男が振り向きロビンスの顔を舐めるように見る。
児童性愛者だった。
誘拐され監禁されロビンスは4日間その児童性愛者達によってなぶられ続けた。
やっと命からがらに逃げ出してきたロビンスはもう少年ではなかった。
ペンやベーコンにとってロビンスは可愛そうな友人でありながらもはや一緒に屈託なく遊ぶことはできない“別の人間”になっていた。
そうやって3人の少年時代は終わった。
それから25年後ペンの娘が殺されその容疑者にロビンスになりその事件をベーコンが捜査することになる。
結局ロビンスは妻にも疑われペンに密告されペンの手で殺されてしまう。
映画は途中まで犯人は本当にロビンスなのかもしれないと観客に思わせるような展開をして行く。
私も途中までロビンスが犯人だと思っていた。
掲示板の方で今は農協を知ろうさんが<「青春の殺人者」に通じる>と書いていてなるほどと思ったのだが、私がまず思い浮かべたのは、青山真治の「EUREKA ユリイカ」だった。
「EUREKA ユリイカ」には、バスジャックの被害者で乗客が次々と射殺され自らも射殺されそうになるという凄惨な体験をしそのことの心の傷により次々と通り魔殺人を犯してしまう少年が登場する。
ティム・ロビンスは「ユリイカ」のあの少年だと思ったのだ。
私自身犯罪者になることが許される境遇の痛みをわかる思いを持っていることはこの日記を読みつづけてくれてきている人には察しがつくだろう。
確かに犯罪者になってもしかたない境遇というのはあるのだ。
11歳で、小学5年生で児童性愛者という変質者に4日間監禁されていたぶられつづけたという経験がそれでなくて何なのだ。
しかし「ミスティック・リバー」でのロビンスは真犯人ではなかった。
「ユリイカ」の少年が犯罪者になるのだったならこの映画のティム・ロビンスは何故犯罪者にならなかったのだ。
私にはロビンスが真犯人じゃなかったことがよけいに辛かった。
25年前には、3人の中でたまたま最初に車に乗り込んだことで変質者に4日間いたぶられるという恐怖の体験をし、最後は同じ夜に児童を虐待している変質者を暴行したために浴びた返り血や怪我で妻に誤解され、かつて車に乗らなかった幼馴染の一人に刺殺されてしまう男の人生って何なのだ。
現実ってこんなものだというならあまりにもやりきれない。
「青春の殺人者」には私は主演の水谷豊に自己投影させて見ることが出来た。
しかしこの「ミスティック・リバー」は誰にも自己投影させることが出来ない。
この作品が人の運命の痛みを描いた秀作であることを認めることにやぶさかではないが、秀作であるとしても“私の映画”とすることはできないでいる。
イーストウッド監督の他の傑作「アウトロー」も「ガントレット」も「許されざる者」もみな暗い気持ちになった時に思い出せば少し元気にしてくれる“私の映画”群なのだが、この「ミスティック・リバー」にはそういう元気の素となる要素は皆無だ。
好きとか嫌いとか評価が別れるとかはどうでもいいことだ。
監督の演出が良かったとか俳優の演技が素晴らしかったとかもどうでもいい。
展開がロビンスが悲劇に陥るように陥るようにと強引すぎることさえもどうでもいい。
この作品を賞賛する人のこの作品の世界観に対することのみの感想が知りたい。
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ウィークエンド・ラブ 第79回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2004/01/18(Sun) 23:29
11月10日〜1月11日。
久々の日記になってしまった。
あわただしい年末と年始だった。
11月25日。
朝の通勤時に“無料の高速道路”と言われている通勤道路で車がエンストしてしまった。
インターの乗り口の近くだったのでそこまで行って左に寄せて車を止め、携帯電話で職場に電話する。
自動車道でみじめに職場の仲間が来るのを待った。
ラジエターの故障だった。
しばらく冷却した後、ラジエターに水を補給すると車は再び動くようになった。
しかしエンジンの警告ランプが点灯しているのを何とか職場まで持たないかと無理して走ったのでエンジンにもかなりのダメージを与えていてその車を使いつづけるのは危ないようだ。
しかたなく12月24日に新車を購入した。
12月3日。
職場の先輩がやはり朝の通勤の途中で交通事故で死亡する。
山々に囲まれた盆地に位置する私の勤務地は、山を越えてやってくる者にとってはその通勤だけでストレスを感じる人々が多い。
死んだ職場の先輩も細く曲がりくねった峠道での通勤道での事故だった。
事故の形跡からして対向してきた大学生の運転する車が車線オーバーして来て、峠道で逃げ場所のない先輩の車と正面衝突したようだ。
エアバッグは開いていたのだそうだが、シートベルトによって内臓破裂したという話もあった。
その先輩は酒席でも騒いだりはしゃいだりすることのない静かな人だった。
誰かに説教とか言葉を荒げたりとか見えを切ったりとかの姿は一度もみせたことのない人だった。
しかしそれゆえに私の職場では冷遇されているようにも見えた。
先に死んでゆくのはそんな人ばかりに思える。
4日、仕事を終えて御通夜に列席する為に峠道を走って故人の家に向かったが、夜の峠道の怖さは私の通勤道の比ではなかった。
7日の日曜日、生前故人が信仰していた神式の教会での葬儀に参列する。
同じ職場の者は皆、葬儀のなんらかの手伝いをするのが私の職場の習慣で、私は駐車場の道案内を受け持った。
とても寒い日で足踏みしてふるえながら道案内の役割を果たした。
13日の土曜、体調が悪かったのだが、週末の習慣である書店やら電気店やら玩具屋やらへとフラフラと出かけると本格的におかしくなってきて14日の日曜は家でおとなしく過ごした。
15日は、出勤したのだがどうにも身体が言うことを利いてくれず、たぶん風邪の引き始めの症状だろうと考えて職場にあった食後30分以内に2錠服用という風邪薬を食後1時間後に3錠飲んだ。
月曜日だったのでジムへ行く日だったのだが、あまりの体調の悪さなので休んで速く眠ることにした。
午後8時に入浴していると胃のあたりに鉛が入っているような痛みに襲われた。
痛みで冷や汗が出て貧血を起こしそうになってきたので、パンツだけをはいて転げるようにして浴室から出る。
愚妻に身体を拭いてもらい何とかパジャマを着て2階の寝室で横になった。
衰弱して眠りについたのだが、すぐに胃部の痛みで目が覚めてそれから痛みで眠れず苦悶しながら朝を迎えた。
愚妻と共に愚妻のかかりつけの病院に行く。
いろいろ検査され、血液に炎症の反応はあるそうなのだが、ただの胃炎にしては症状が重過ぎるので他にも原因があるかもしれないということで入院ということになった。
17日に胃カメラを飲んだのだが、それでも原因がはっきりせず、症状が重かったこと、睡眠時無呼吸症候群の治療を受けていること、父親が肝硬変と狭心症により病死していること等から胃ではなく心臓も疑われるということで心臓カテーテルというかなり危(やば)い検査を勧められた。
正式には「冠動脈造影検査」というものでインフォームド・コンセント時にもらったペーパーによると、
<右の手首の動脈から、局所麻酔下に針をさして、カテーテルという柔らかい細い管を心臓まで進めます。そこから造影剤という検査液を冠動脈に入れて検査します。>
というもので、
<まれに手術を必要としたり、生命に危険が生じることもあります。>
とも書かれてあり、家族の同意書も必要だったりで「こりゃあ、リストカットじゃないか」と検査の前夜はさすがに鬱々と気の滅入る時間を過ごした。
しかし18日にやったその検査の結果は「どんなスポーツをやってもよい心臓と血管です」ということで一気に病気まで治ってしまった。
そうなるともう原因などどうでもよくなって一刻も早く退院したくなった。
しかし19日の金曜に主治医は「まだ血液に炎症反応が残っているので月曜の検査で決めよう」と言われた。
結局、22日の月曜に退院した。
1週間の入院だった。
刑務所と入院は「思いっきり本が読める」ということで少しばかり憧れていたけれど、ジムもなければ映画も見れないし、インターネットもない生活がいかに退屈なものか思い知らされる結果となった。
最後の2日くらいはもうウンザリしてしまい、トイレで何度かシャドーボクシングをしていた。
入院中は長男の薦める古谷実のマンガ本『行け!稲中卓球部』『グリーンヒル』『僕といっしょ』『ヒミズ』等を読んだ。
『ヒミズ』はなかなか読み応えのある“親殺し”のマンガだった。
退院した日の夜にひさびさにジムに顔を出した。
本格的に動いたりとか、ミットを持ったりとかはしなかったが、少し動いただけでも疲れてしまった。
たった1週間の入院だけでも体力って簡単に落ちてしまうものだと痛感した。
日本ランカーになっての刺青野郎の初の試合のポスターが事務室に届いていた。
その試合は、2月1日、スズヒデ金山ホールで、現世界チャンピオン戸高を抱えるMIジムの興行のメインイベントだ。
対戦相手は勿論MIジムのSという選手だ。
中部地区ではMAジムと並んで2人の世界チャンピオンを生んだジムなので興行のポスターもカラーで、その中央に刺青野郎のカラー写真が使われているとなんとも誇らしい気分になった。
しかしそういう扱いなのに刺青野郎のモチベーションが四日市での自主興行前に比べて落ちていることを皆が心配していた。
直接本人に「どうなんや」と問うと、「はあ、やっぱ、もっと強い奴とやりたかったっすわ。こんなん絶対まける気しませんわ。」との答えが帰って来た。
相手選手は勝てば日本ランカーなので猛烈に練習しているであろうにこんな考え方では苦戦が予想されると思い、少し厳しいことを言った。
私自身打ち合いになったなら負ける気はしていないのだが、まだまだ左と足を中心にボクシングを組み立てられたらポイントアウトされてしまう可能性は大いにあると考えられる程度のボクシングなのだ。
格下を相手にする意識を捨てて挑戦者の気持ちにさせることが必要だ。
そう心配していると最近は練習に姿が見えなくなった。
どうやら風邪を引いたということだ。
嫌な不安材料がひとつ増えてしまった。
さて、日本ランカーになっての初試合を乗り切ることは出来るのだろうか。
やっと退院できたと思ったらなんと今度は愚妻が30日の夜に具合が悪くなり入院してしまう。
こちらは病名ははっきりしたもので病気そのものにはさほどの心配はしなかったのだが、くだらないことが色々とあり、そのことで心労を患わされた。
勿論、家事とかは、なれないことしなければならないのだが、ちょうど仕事が正月休みなので専業主夫くらいは普段末端コームインとプロボクシングのトレーナー業との二足の草鞋を穿いて忙しい日々をこなしている身には大した問題ではない。
料理とかは楽しんでやった。
正月のおせち料理は恒例になっている豚の角煮にだけ挑戦した。
まあまあの出来だった。
他のおせち料理はあきらめて、もっぱらスーパーで半額になった刺身や寿司やステーキとかをだいたい閉店1時間くらい前に買い物に行って購入し、翌日に食べた。
だから普段の正月よりご馳走を食べていたくらいだ。
ま、貧乏人の贅沢だったのだろう。
二人つづけて入院したこともあり、無病息災なんてことを考えて、今までろくにやってこなかった初詣も七草粥も鏡開きも遅れたりはしたがちゃんとやった。
神仏を尊ぶ気持ちは本当に希薄なのだが、気休めでも何でもいいから面白がってやってやろうという感じだった。
4日までの正月休みの期間は、愚妻がいなくても専業主夫でいれてさほど不自由に感じなかったのだが、5日から仕事が始まるととたんに忙しくなった。
ゴミ出しとかは長男がやり洗濯は次男が手伝ってくれていたのだが、5日のジムの練習初めにも行けず家事に追われた。
8日から子供の学校が始まると子供にも弁当が必要になり朝5時半に起きて、3人分の弁当作りもやってでさらに忙しくなった。
しかし仕事と家事だけではなんだかもう全てが嫌になってしまいそうなので、どんなに無理してでもジムには行きたいと考えて、夕食はスーパーの弁当なんかで子供にも我慢してもらい7日と9日にはジムに行った。
愚妻は12日に退院してきた。
17日に正月に行けなかった愚妻の実家に家族4人で行った。
見た映画。
「Jam Films (ジャム フィルムズ)」(02年)
北村龍平、篠原哲雄、飯田譲治、望月六郎、堤幸彦、行定勲、岩井俊二というなかなかに興味深い監督たちによる7編のオムニバスドラマ。
統一したテーマがなくどれも低予算で仕上げたという哀れさばかり目だってドラマに入れこめなかった。
強いて共通のものを見つけるとすれば堤幸彦の「HIJIKI」以外はみな女優が色っぽく撮られているところがよかったということだ。
特に飯田譲治の「Cold Sleep」と望月六郎の「Pandora -Hong Kong Leg-」が良かった。
望月作品の吉本多香美がいいのは当然だが、飯田作品の角田ともみという女優さんは初めて見たのだが、黄色地に黒のラインというなんともトレンドな衣装も手伝って素敵だったのだ。
「座頭市関所破り」(64年 大映)
シリーズ第9作の安田公義作品。
幼い時にはぐれた市の父親かもしれないと思わせる老人が登場する。
その老人に父親を重ねた市は酒を飲む金の為に裏切られたのにもかかわらず老人を斬ることができない。
「つかの間だったけど、親父を思い出させてくれたあんただ。俺には斬れない。とっつあん達者でな。」と老人を許してしまう市の姿が切ない。
関所に殴り込みをかけるというストーリーも反体制派好みで見応えのある作品だった。
「座頭市鉄火旅」(67年 大映)
「座頭市血煙街道」(67年 大映)
「座頭市果し状」(68年 大映)
「座頭市喧嘩太鼓」(68年 大映)
「コップランド」(97年 米)
「レッド・ドラゴン」(02年 米)
「デイライト」(96年 米)
「猟奇的な彼女」(01年 韓国)
「座頭市海を渡る」(66年 大映)
「座頭市の歌が聞こえる」(66年 大映)
「棒たおし!」(03年 東京テアトル=パル企画)
「東京画」(85年 西独 米)
「晩春」(49年 松竹)
「呪怨」(02年 東京テアトル)
「プレイガール」(03年 東映ビデオ)
「東京の女」(33年 松竹キネマ)
「卒業」(02年 東宝)
「大人の見る絵本 生まれてはみたけれど」(32年 松竹キネマ)
いつも子供たちに勉強をせよと説教をし威厳を持って振舞う父親がいる。
子供たちは父親と一緒に父親の会社の重役であり子供たちがいつも手下のようにしている友人の父親でもある家で映画鑑賞会に参加する。
しかしその映画に移っていたのは会社重役にコミカルな三枚目をやりへりくだっている父親の姿だった。
家では威張っている父親が会社では情けないことをやっていることに衝撃を受け家で父親に反抗的な態度をとる。
父親は体罰を与えるが、子供にとってはつらい気持ちに変わりはない。
父親が子供に対してどう生きる手本をしめせばいいのかということを考えさせられる。
そして家族というのも何よりもまずひとつの社会なのだということを認識させられた。
他のどの社会よりも濃密な人間関係が要求される社会なのだ。
小津が生涯家族というものを築かなかったのは、もしかすると誰よりもその濃密な人間関係に敏感でありすぎたからなのではないかと思えてきた。
「学生ロマンス 若き日」(29年 松竹キネマ)
「シャレード」(63年 米)
「アレックス」(02年 仏)
「DEAD OR ALIVE FINAL」(01年 大映)
「ボウリング・フォー・コロンバイン」(02年 米 加)
ウィリアム・フォークナーを持ち出すまでもなくアメリカ文化が例えばヨーロッパ文化に比べて際立って持っている特長は何より“暴力”なのだと思う。
もしも銃社会や暴力がなかったならアメリカ映画は今ほど面白くはならなかっただろうし、この「ボウリング・フォー・コロンバイン」という傑作ドキュメントも誕生しなかったということにもなる。
“民主主義”と“テロリスト”という対立概念もわからないではないが、ゴジファンとしては“テロリスト”の対立する概念は“国家”だと考えたいのだ。
「ロジャー&ミー」(89年 米)
「黄泉がえり」(02年 東宝)
「ブラッド・ワーク」(02年 米)
「すてごろ 梶原三兄弟激動昭和史」(03年 ジーピー・ミュージアム=リベロ)
「新仁義なき戦い/謀殺」(02年 東映ビデオ)
「模倣犯」(02年 東宝)
「戸田家の兄妹」(41年 松竹)
「抱擁」(02年 米)
「ウエスタン」(68年 伊 米)
「伝説のやくざ 最後の博徒 修羅の章」(03年 東映ビデオ)
「007/ダイ・アナザー・デイ」(02年 米 英)
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投稿者:
Akira
投稿日:2003/12/22(Mon) 06:56
無責任ものぐさ日記(5)
「キル・ビル」についての拙いフラグメント。
映画は荒唐無稽でちょうどいいように思う。
ラスタマンさんの言うように、映画を観て「ちょっと元気を貰えれば」との心持ちに
全く同感です。
ガキの頃から、TVの洋画劇場や二番館などで出会った洗練され秀逸な作品にも感動もしたが、
低俗映画とやらにも心酔した。
とにかく、現実への耐性が欠けている私にとっては、非日常性こそが生きる糧だった。
例えば、マカロニウェスタン。主に洋画劇場で楽しませてもらった。
元が黒澤映画だから、日本人の私との相性も良かったんだろう。血しぶき、残酷描写、
大いに結構。
脱線すると、後のクリント・イーストウッドの「ペイル・ライダー」は大好きだ。
クンフー映画。小学生の時分「燃えよドラゴン」に出会い、凄まじいカルチャーショック
を受け、観れる限りクンフー映画を追い求めた。当時の香港映画は垢抜けなかったが、
それはそれで、何とも言い難い力が感じられた。
チヤンバラ映画も然り。特に東映ものはキマス。
「キル・ビル」、以上の要素を潔くパクッテるんで非常に面白い! VOL.2が、今から
楽しみだ。
ローレンス・カスダンの「白いドレスの女」を某評論家が、映画的記憶に彩られている。
と言ったが、まさに「キル・ビル」もそうだと思う。
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