誰でも日記過去ログ
038〜047


[47] 複雑な心境・・・・・ 投稿者:とらま 投稿日:2003/08/23(Sat) 18:18   <URL>

僕は、今年の3月に7年間付き合っていた彼女と、僕が起こした事件をきっかけに別れた。
もちろん僕は今でも彼女を好きだ!愛している!
しかし最近彼女に彼氏が出来た事を友人から聞いてしまった。
その彼氏は彼女と同じ職場らしい・・・
結婚するのかなぁ?
もうSEXしたのかなぁ?
オレの事はもうこれっぽちも 思っていないのだろうか?
 ・・・・・・
ちなみに僕が起こした事件とは、
犯罪を犯したからである。罪名はここでは 言えないが、
起訴になり、3年の執行猶予をもらって留置所から出てきました。
僕は彼女と同棲していたんだけど、
僕が留置されている2ヶ月間 「地獄だった・・・・・」。
と語っていた。
僕が留置所から出ると、僕と彼女を取り巻く周りの環境が大きく変わっていた。お互いまだ愛していた。
しかし、親の登場により、別れなければならなくなったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女よ幸せになってくれ!!
僕の事は忘れてくれ!!
君が死ぬ瞬間にだけ 走馬灯の中に一瞬僕が現れるだけでいいから。 
ここだから 話せる僕の暴露話でした。
★とらま



[46] ウィークエンド・ラブ 第73回−2 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/08/18(Mon) 01:43  

 見た映画。

 「ル・ブレ」(02年 仏)
 たわい無いドタバタコメディ風のアクション映画。

 「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(96年 シグロ)
 双子の絵本作家の自伝を映画化したもの。
 双子のことを目の仇のようにいじめる教師が登場したりもするが、まあ母親が進歩的な教師で無条件的に子供達のことを受け入れてくれているし、父親も厳格ながら立派な人だし随分恵まれていた子供時代じゃないかと思った。
 川遊びやらの確かにガキの頃の懐かしい光景だけは心地良かったのだがドラマについては好きなことを職業に出来たっていうのは例えば理解のある親とかに恵まれてたからだと思えるわけで、そのことが私には面白くない。

 「恋に唄えば♪」(02年 東映)
日本映画でミュージカルに挑むということは相当な冒険である。
 いきなりデビュー作でミュージカルを撮ろうなんて監督はまずいない。
 邦画ミュージカルと言われてパッと思いつく作品も…最近見たのでは「カタクリ家の人々」が三池崇史で「めぞん一刻」が澤井信一郎、ガキの時に「サインはV」の供映として見た「恋の大冒険」が羽仁進で後は「進め!ジャガーズ 敵前上陸」とかのGSとかあるいはその類のアイドル映画だ。
 アイドル映画は勿論のこと怪獣映画をSFとして認知させた金子修介はミュージカルに挑む充分な資質を持った監督だと思った。
 しかし、唄って踊れなければならないミュージカルで優香はいかがなものかと思ったがさすがに金子修介で器用に使いこなしているなあと感心した。
 取り立てて素晴らしい作品というほどでもないが結構楽しめた。
 特典映像で「岩井俊二や竹中直人という中山美穂を光らせた人というのはどうしても意識してしまう」というような発言をしていたので、今度は中山美穂を使ってしっかりしごいてもらってもっと本格的なミュージカルに挑んでもらいたいと思う。  

 「かあちゃん」(01年 東宝)
 貧しくってたいへんでも困っている人は助けましょうねという映画。
 市川崑ともあろう監督がこんなに教訓的でつまらない作品を作ってしまうとは思わなかった。

 「DRIVE ドライブ」(01年 日本ヘラルド映画)
 毎回一本調子に転がって行く映画ばかり撮るSABUの作品だがこれもまあそんな感じだ。
 風が吹けば桶屋がもうかる的な物語の展開で“縁”とか“仲間”といったテーマを捉えてほしいようなのだが、退屈だっただけだ。

 「大阪物語」(99年 東京テアトル=「大阪物語」製作委員会)
 「BU・SU」を見て以来、気持ちが弱っている時に市川準の映画が見たくなる。
 優しく柔らかい視線で捉えられた人々を見ているとホッとする。
 あまりこのスタイルでやりつづけると倉本聡作品のように臭くなってくるのじゃないだろうかと危惧するのだが、この大阪を舞台にした売れない漫才夫婦とその姉弟のドラマも何だか人間を肯定してやりたい愛が嫌味でなくこちらに伝わって来て成功していると思った。

 「サイン」(02年 米)
 M・ナイト・シャマランの作品は「シックス・センス」「アンブレイカブル」とだんだんつまらなくなる。
 とても真面目に作ったとは思えないほどひどい出来だ。
 
 「完全犯罪クラブ」(02年 米)
 サンドラ・ブロックが捜査仲間の男性刑事を押し倒して抱かせてしまうのがキャラとして似合っていると思った。
 デミ・ムーアとサンドラ・ブロックが対立するドラマを作ったら結構いい勝負になりそうで面白いのに。
 完全犯罪を計画して殺人を犯した2人の高校生の方がブロックに比べたら線が細そうで弱っちそうで気の毒な感じだ。

 「スリ」(00年 アートポート)
 黒木和雄と原田芳雄コンビということで期待するなというのが無理というもの。
 期待が高すぎたのでちょっともの足りなくもあったが、いい雰囲気のドラマではある。
 原田芳雄と風吹ジュンがもっとからんで欲しかった。
 それぞれの内面の情念がちょっと描き足りていないと思った。

 「スズメバチ」(02年 仏)
 まあフランス映画でドンパチものということでは、がんばっているのかもしれない。

 「セレンディピティ」(01年 米)
クリスマス前のニューヨーク。
 一つしかない手袋を同時に手にした2人ジョン・キューザックとケイト・ベッキンセイルはそのことをきっかけに“セレンディビティ”(幸せな偶然)という名のカフェやらアイス・スケート場で楽しい時間を過ごす。
 しかしお互いに恋人を持つ身である為、節度を守り運があればまた会えるだろうと別れる。
 時が流れ、お互い恋人との結婚が近づいて来ても未だに“運命の人”が忘れられずにいる。
 後はもう予定通りの展開。
 つっこもうと思えば、いくらでも欠点のあるラブ・ストーリーだ。
 “運命の人”に賭けて結婚をドタキャンするなんて身勝手で回りには迷惑でしかないのだろうし、運命とする偶然なんて裏を返せば御都合主義の作劇である。
 しかし正直に告白すればこのロマンティック・ラブストーリーは結構楽しんで見てしまった。
 大体のシチュエーションが読めたところでまたニューヨークを舞台にしたラブストーリーかとあのくだらなかった「オータム・イン・ニューヨーク」やらを思い出してしまっていたのだが、こちらはロマコメに徹していて軽やかで洒落ていて、ついつい引き込まれてしまった。
 ケイト・ベッキンセイルの可愛さが光っていてこの手の映画では例えば「恋のゆくえ」でのミシェル・ファイファーを見た時以来のドキドキだった。
 しかしそれ以上に細かなディテールに柄にもなく乗せられてしまった。
 スケート場でケイト・ベッキンセイルがジョン・キューザックに聞く。
 「好きな映画は何?」
 「『暴力脱獄』さ。」
 やら職場の仲間に婚約者がいながら“運命の人”を求める行為について「『ゴッドファーザー』は1よりも2の方が傑作なんだ」という説明の仕方に思わずニヤリとしてしまった。
 またケイト・ベッキンセイルが「サイン入りの本を明日古本屋に売る。その本をあなたが見つけたら私達が運命である証明」という本がガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」だったりするセンスが嫌味じゃなく光っている。
 22か23の頃、電車通勤でいつも文庫本ばかり読んでいたのだけど、たまたま三島由紀夫の「沈める滝」(だったかな?)を読んでいて、私の乗る駅の次かその次で乗って来た多分私より一つ下くらいの大学生らしき女性が隣に座り文庫本を読み始めた。
 その女性の視線が私の読んでいる文庫本に行った後、首を振って私の顔を見るのが分かった。
 気付かないふりをして私もその女性の文庫本に目を走らせると彼女も三島由紀夫の確か「豊饒の海」を読んでいたのだ。
 その日はそのまま気付かないふりのままで、翌日また彼女は隣に座り、また私はまたソッと彼女の文庫本に目を走らせた。
 すると彼女は今度はラディゲの「肉体の悪魔」を持っていたのだ。
 三島の「沈める滝」はそのラディゲの「肉体の悪魔」を読んで衝撃を受けた三島が書いた作品で、私はもう本で会話しているような気分になりその女性がちょっと魅力的だったことも含めてドキドキしてしまった。
 頭の中では「彼女は話しかけられたがっているんだ。さあ声をかけるんだ。」という囁きが駆け回っていたのだが、腰抜けの私は妙に肩に力が入ったまま必死の思い出通勤電車を何もなくやり過ごした。
 そして多分翌々日だったと思ったがまた彼女が乗って来た。
 その日は友人と二人で座っている私の少し前に立っていて、私は本を読むふりをしながら耳は二人の会話に集中していた。
 彼女は小学校の時に国語の教科書に乗っている話で忘れられない話があると友人に話していた。
 それは(確か)「丘の家」という話でこんな話だ。
 決まった時間に光る家が丘の向こうという遠くにあり主人公は気になってしかたなく、ある時決心してその家を見に行くのだが、ガラスに陽が反射していただけだったという話なのだが、なんだかとても詩的に書かれていて孤独な主人公が求めていた希望にも似ていて私も大好きな忘れられない話だった。
 (国語の教科書にあったこの話知っている人いませんか?作者は誰だったのだろう?)
 「ああ、運命の出会いだ」と全身に電流が走るのを感じ友人と話しているにも関わらず「その話、俺も憶えていて大好きな話です」と言葉がのど元まで這い上がって来ていたのだが、今の愚妻と婚約中で誠実(?)で気弱な私はもうそれこそ身体が震えて来るような思いで飛び出そうとする思いを噛み殺したのだった。
 そして私は翌日から電車の車輌を変えた。
 バカだった当時はそうするしかないと思っていた。
 そして全く趣味のあわない今の愚妻と結婚した。
 この「セレンディビティ」を見て久々にその時の記憶が蘇ってきた。
 人には一つや二つこんな運命の赤い糸みたいな思い出があってもいいのだ。
 ああ、あの時、運命の赤い糸を信じて行動していれば、今みたいに愚妻にキャンキャンうるさく言われる毎日はなかったはず……いや、もしかして趣味がピッタリな彼女もゴジファンでゴジサイトを見ていて、ついでにこの日記も読んでくれていたなら運命の赤い糸は復活するかもしれない……しかし愚妻がこれをチェックしてまたキャンキャン言われる可能性の方が圧倒的に高いのだが……。  

 「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(01年 米)
 ジョン・アーヴィングの世界を思い出させるような世界で面白そうな作品だったのだが、ちょっとボーっと見てしまった。
 また機会があったら見直そう。

 「OUT」(02年 FOX)
 「テルマ&ルイーズ」真っ青の女性達の犯罪と逃亡劇。
 暴力を振るう男を殺し、遺体を切断し、生ごみと一緒に捨てるというドロドロの話なのだが、とぼけた味わいをうまく使って不思議に地べた這いつくばっても生きてやるぜという気分にさせてくれる。
 やるなあ、平山秀幸。
 これは見事な快作だ。

 「皆月(みなづき)」(99年 日活)
 同時期の同じ望月六郎作品である「鬼火」よりこの作品の方が好きだ。
 自分の中の闇の部分にめざめ、その闇を肯定して生きていこうとする男や女たちが切なくていい。
 時間があったらもっときっちり感想を書いておきたい作品なのに……。

 「至福のとき」(02年 中国)
 「初恋の来た道」の方がシンプルでよかった。
 ちょっとこのシチュエーションは作り過ぎているような印象を持った。

 「リーマン・ジョー!」(01年 米)
 駐車場で殴られ娘の前で恥をかかされた男が、復讐のリマッチを決意し自分を鍛える。
 そのことで成長し、リマッチよりも女の愛を選ぶという話。
 面白いけど教訓的だ。
 女の愛よりラストの決闘はやっぱり受けてたちブンブンとパンチや蹴りを放ってくるのを全て捌きって精魂尽き果てた相手にデコピンだけして「終わりにしよう」とか言って仲直りした方が面白かったと思うのだが……。



[45] ウィークエンド・ラブ 第73回-1 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/08/18(Mon) 01:41  

 8月5日〜8月18日。

ボクシング。
 8月10日、愛知県武道館で中日本新人王準決勝を戦う。
 当初この興行は石井広三の世界戦とのダブル興行を予定されていた。
 新人王戦は通常、名古屋市公会堂が使用されるのだが、石井の世界戦が延期となっての単独興行になっても武道館使用は変わらなかった。
 うちのジムの選手はライトフライのIとフェザーのKが勝ち残っている。
 まず第2試合のフェザー級4回戦。
 対戦相手は中部日本の地区ではアマチュアボクシングが盛んなS県のSジムのMという選手だ。
 うちのジムのKは沖縄出身でアマチュアで活躍していたこともありジムに来た時点でボクシングがかなり完成されていた。
 アマチュア経験などないゼロからの選手を育てることにロマンを感じている私はそういう意味でこの選手が勝ち進んできてもジムの実績と思えないところがつらい。
 しかもパチンコ店で働くKは仕事が忙しくてジムに顔を出すことが極端に少ない。
 そんなこともありKは“練習をしなくても強い選手”という風に他の親しいジムの関係者からも冷やかされて呼ばれる選手になっていた。
 沖縄出身者らしくいつも陽気で緊張感がなくサバサバしているので、こちらがしかめっ面をして熱い助言をしてもニコニコとうなづいてくれるのだが、どこまで真剣に受け止めてもらっているのか心もたない気分になって来る。
 この日も会長に「おまえは、試合前に緊張することなんてあるのか?」と問われて「ありますよ〜う」と笑顔で返されてはぐらかされた。
 試合は圧勝だった。
 1ラウンドこそMのベルトラインよりも低いと思われるような頭に低さに苦労させられたがレフリーのチェックもあり頭を下げにくくなりつつあったMを2ラウンド終わり近くに捉え、2度倒してストップさせた。
 正直に言って準決勝にしては楽勝でもの足りない相手だった。
 私は、またもしかめっ面で「これでなめてしまったらあかんぞ。新人王の決勝に上がって来るような奴は、もの凄く走り込んでいて、スタミナ充分で6ラウンドぐらいフルに打ち合えるような猛者が出て来るんやぞ。」と言うとKはまたしてもニコニコしながら親指を立ててOKサインを送って来た。
 その決勝の相手が決まるもうひとつの枠のフェザー級の準決勝が7試合目に行われた。
 1ラウンドはHジムのKが軽やかなステップからリズムのあるパンチを出してセンスのあるところを見せたが、2ラウンドからは逆にTジムのIが基本のしっかりしたパンチをしつこく連打して一気に形成を逆転してしまった。
 最終4ラウンドには滅多打ち状態でダウンこそ奪えなかったがIが基本のしっかりした連打の凄さを見せ付けて判定勝利した。
 パンチや倒すタイミングではうちのKの方が上だが、これだけしっかりした基本のボクシングをして来る選手につけいるすきは少ないように思えた。
 逆に相手のペースで戦ってしまうと4ラウンドまでスタミナの切れないIに持っていかれそうだ。
 一発で倒されるというような怖さはないがやっかいな相手だ。
 心配性のトレーナーとしてはもっともっとKには練習量が必要に思われてしかたないのだが……。

 もう1人の準決勝進出者はライトフライ級の私の現在の勤務地の地方から来ているIだ。
 40人近くのプロボクサーを育てて来た経験から言ってIのボクシングセンスは抜群のものがあると思っている。
 スピード、反射神経、タイミング、距離感 そのどれもが屈指に優れている。
 しかし、私の勤務地に住む人々に多いタイプの“内弁慶”でいてしかも“井の中の蛙”という性格が最大の弱点だ。
 ビデオで見たというシュガー・レイ・レナードを真似てスピード主体のボクシングを組み立てている。
 見て覚えた我流のボクシングではあるが非凡な才能で結構器用にこなしてはいる。
その時点で満足してしまってちゃんと腰の入った強いパンチの打ち方を会得しない。
 はっきり言えば、パンチの基本ができていない。
 この試合にそういうボクシングの限界が出てしまった。
 相手の選手は基本のしっかりした真っ直ぐなワンツーを打って来る。
 それをかろうじてIは真っ直ぐに下がってかわす。
 横後ろに回ってかわすか、直後に打ち返せればいいのだが、相手は打ち終わってもバランスを崩していないしシャープなワンツーに対してかわすのが精一杯で余裕がまるでない。
 そのうち相手はワンツースリーフォーと前へ出て綺麗な連打を打ってきた。
 いくらスピードがあると言っても前へ来る速さを後ろへ下がる速さが上回るはずなどなく、何度となくヒットされる。
 かろうじてとどめになりそうなパンチだけはさばききったが結果ははっきりした0−3の判定負けだった。
 デビュー戦での壮絶なKO負けではなくこれは力と力、技と技を競い合った上での完敗だった。
 ある意味ではKO負け以上にきつい敗北だ。
 Iの性格から考えてこの屈辱をバネにしてもう一度ゼロからボクシングに取り組みなおすというような気持ちを持つことは望み薄かもしれないと思った。 
 また抜群のボクシングセンスを持った選手がひとり消えて行くのかもしれない。
 中部の新人王に同時に二人の選手をつかせることが今年の目標だったのだが、その可能性は準決勝の段階で崩れてしまった。
 しかし、気持ちを切り替えて残りの1人が確実に新人王をとれることを考えよう。
 中部の新人王の決勝は9月15日、名古屋市公会堂で行われる。

 前回書いたうちのジムの延期された興行の日程が決定した。
 10月12日で昨年と同じ会場、四日市市オーストラリア館になった。
 そして望んでいた対戦カードの変更もあった。
 何とメインの刺青野郎の相手が現在日本ランカーでかつて0−2の判定で惜敗したTジムのSと決まったのだ。
 勝てば日本ランカーだ。
 刺青野郎は俄然張り切り出し、一日15キロのロードワークをこなし始めた。
 ふがいない試合が2つつづいた後の願ってもないビッグチャンスだ。
 情けない試合を2試合したが故に受けてもらえたマッチメイクに違いない。
 是非このチャンスをものにしてもらいたいものだ。
 今年の興行は今ひとつのれなかったのだがこれで一気に面白くなって来た。
 楽しみだ。

 マイク・タイソンが破産宣告をうけた。
 離婚や多くの訴訟で高額の金を取られている話は有名だったが、1試合で数十億の高額なファイトマネーを受け取っていた選手なのでまさかこんなことになってるとは想像もしなかった。
 ところがそのタイソンを何とK1のリングで見てしまった。 
 8月15日のK1のラスベガス大会でのボブ・サップの復帰戦だ。
 リングサイドで観戦していたタイソンが試合後、勝利したサップの挑発にのってリングに上がってきたのだ。
 これは明らかに仕組まれたものとまでは言わないが、そうなることが期待されていたシチュエーションにのっただけなのに違いないのだ。
 「未必の故意」なのだ。
 大きな金が動いていることが想像された。 
 石井館長が税金ごまかしに使っていたタイソン担ぎ出しがいよいよ現実になってきたということなのだ。
 リング上でマイクで激しく挑発しあうボブ・サップとマイク・タイソンを見ていてとても悲しい気持ちになった。
 はっきりいってしまえばプロボクシング世界ヘビー級のチャンピオンにまでなった男がここまで落ちたかということだ。
 「落ちた」という表現はK1側には失礼な表現なのかもしれない。
 しかし、この日リングで繰り広げられたボブ・サップ対キモという馬力だけは凄いが素人に毛が生えた程度のなぐりっこ、けりっこの試合をラスベガスなんてボクシングの本場の会場でやってしまうK1は格闘技と呼ぶにはあまりにも“技”がひどかった。
 サップとキモが悪いのではない。
 元々サップはフットボーラー、キモはバーリトゥーダーでキックボクサーではないのだ。
 その二人をK1のルールで戦わせるという素人の喧嘩を金とって見せているのに等しいことをやらせてしまうプロデューサーが悪いのだと思う。
 サップはモーリス・スミスやら正道会館道場でそうとう打撃の練習を積んだようだが、パンチもキックも失笑するしかしょうがないというレベルでしかなかった。
 否、サップはそういう打撃をきちんと習ったことによりかえって小さくなってしまい何をしでかすか解からないという素人の怖さがなくなってしまったいた。
 左右の腕をラリアットのようにブンブン振り回すという暴走ファイトだからホーストを倒せたのであり今のように距離を意識してワンツーを打ってくるような選手になってしまえばホーストなら簡単に倒してしまうのではないかと思えた。
 結果、こちらも失笑打撃のキモの上体事押し込むような下手糞な左ジャブを顔面に受けて軽い脳震盪でフラフラになりダウンまでしてしまったのだ。
 勝つには何とか勝ったがこの人に以前のような驚異的な身体能力だけで本物の格闘技の選手たちをなぎ倒してきたような活躍はもうできないように思えた。
 ましてやタイソンと戦うなんてことは想像すら出来ない。
 ただ、はっきり言えるのはタイソンはボクシングの世界でもう一度、激しいトレーニングを積んで鍛え上げてレノックス・ルイスに再挑戦するという厳しく険しい道は避けて安易に名前だけでもチヤホヤされる世界を選んでしまったということなのだ。
 ボクシングの元世界チャンピオンという名声だけを利用されてプロレスのリングに上がった選手たちもろくに練習せずに金だけを目当てにしたものだった。
 猪木と戦いインディーズプロレス団体員にもなったレオン・スピンクス、高田と戦ったトレバー・バービック、船木と戦ったロベルト・デュラン……。
 最も名声を持つロベルト・デュランが船木との異種格闘技戦のリングに上がったときは下っ腹はでっぷりと肥えていて、トランクスもはかないでタイツ姿で上がり失笑をかったものだった。
 プロレス側からは“世紀の異種格闘技戦”だがボクサー側からは“引退した選手のちょっとした小遣い稼ぎのエキシビジョン”なのだ。
 K1で戦いそうなタイソンを見て、これで本当にタイソンはダメになったと思った。 

「PRIDEミドル級GP」(さいたまスーパーアリーナ)をテレビ放送で熱くなって見た。
 まだ、2003年も4ヶ月以上残っているが、恐らくこの興行が今年最も面白かった格闘技のイベントとして記憶されることになるだろうと断言したい。
 1993年、第一回のUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)がアメリカで行われてからバーリ・トゥード(何でも有り)での戦いで最も進化された形だと思う。
 当初はグレーシー柔術に代表されるように寝技、マウントパンチ、チョークスリーパーという決まり手が多かったのだが、次第にストライカー(打撃を得意とする選手)も寝技に持ち込まれるタックルを切る技術をマスターし始め、スタンドのまま打撃で有利に立つことが多くなってきた。
 そういう流れを代表する選手がミルコ・クロコップやヴァンダレイ・シウバということになるのだろう。
 特にミルコは打撃オンリーのK1の世界から総合に対応できるようになって来た選手だ。
 この日、対するイゴール・ボブチャンチンもキックボクサー出身でありながらキックボクシングの世界ではミルコほどの実績のある選手ではないが総合で通用する為のロシアン・フックという腰を入れずに手の甲の方を使った振り回しのパンチで多くのKOをして来た選手だ。
 そんな二人が戦うということは打撃戦になることは必至でそうなると総合用の打撃と本格的な打撃のエキスパートとの戦いということで、どちらが勝つのかはもう戦う前から明らかだと思っていた。
 そしてその予想通りミルコの衝撃的なKO勝ちでお客さんを喜ばせるにはよかっただろうが、私にはミスマッチにしか思えなかった。
 ボブチャンチンが対戦相手との相性で実力以下に弱く見せられてしまった可哀想な試合だったと思う。
 柔道の吉田も総合で戦うということで随分と打撃の練習を積んで来たようだが、打撃はそんな簡単に身に付くものではない。
 打撃のうまい田村に放ったパンチなどはアゴが上がってしまっていて田村以上に打撃のうまいシウバのパンチでも受けたものならもうそれで試合は終わってしまうように思えた。
 田村は、足を捕まれる可能性の高いミドルキックも多く使っていて冷や冷やして見ていたがもっと地をすべるぐらい低いローで吉田の足をコツコツと蹴っていっていたなら金星もあったように思えた。
 しかし、打撃では田村に圧倒されたが寝かせてからの袖車は見事というしかない。
 田村は寝技に持ち込まれた瞬間、エビの動きとかして簡単に技をかけられないようにもがく必要があったと思う。
 吉田は打撃でつき合うことなど考えずに、打撃はディフェンスとフェイントだけを憶えて組み技に持ち込む方法を追求した方がよいと思う。
 この試合を猪木やPRIDE関係者が公言していた「プロとして見せる試合内容が出来ていない」という指摘に対する答えと考えてやったものだとしたらそれはとんでもないことだと思う。
 寝技、関節技、絞め技をしのいで打撃で勝ちつづけるミルコと真逆に、パンチ、キックをしのいで関節、絞め技で勝利することに吉田は徹した方が良いと思う。
 PRIDEはプロレスではないし、吉田もプロレスラーではないのだ。
 高山のように負けても試合内容が良かったのでとプロレスに戻ってから大活躍できるという身分ではない。
 ただ勝つことのみに徹した無愛想な“アマチュアの最強”を見せつけることが吉田の役割だと考える。
 プロレスラーを多く起用するPRIDEは、例えば高田がマーク・コールマンに勝った試合など八百長だと決めている人間もいるが故にPRIDEに「プロとして見せる要素を求める声」に私は危惧を感じるのだ。
 桜庭は戦前からシウバに関節技か絞め技で「ギブアップ」と言わせたいと言っていた。
 しかし試合は打撃オンリーの展開になった。
 桜庭もかなり打撃の練習をしてきたようでテレビ中継のアナウンサーも「シウバと打撃で互角に渡り合っている」とそのことを強調していたが、私にはこの打撃はグレーシー一族のようなタックルを仕掛けて来るような相手には有効な総合用の打撃に思えて、キックボクサーの本格的な打撃のできるシウバに対しては危なっかしいものとしてしか見えなかった。
 苦し紛れに桜庭が組みつこうとするとシウバの危険な膝が飛んでくるので打撃戦が安全策にさせられた。
 ミルコに対するボブチャンチンのようなパターンと同じに見えた。
 ボブチャンチンや桜庭の打撃のどこが違うかと言えば、何より「顎を引いたままパンチが打てていない」ということにつきると思う。
 ボブチャンチンや桜庭の打撃は打つ時に肩を引いて胸が前へ出る為に顎が上がってしまっている。
 ミルコやシウバは肩を前に胸をすぼめるようにして顎をひいたまま腰の回転とステップインとウエイトシフトでパンチを打っている。
 結果、桜庭はボブチャンチンと同じようにエキスパートのストライカー選手の打撃一撃で沈むことになってしまったのだ。
 かってな想像になってしまうが頭のいい桜庭のことだから戦前は関節技といいつつ試合前半は打撃に徹して タックルへの警戒が甘くなったきた時のシウバを捉えて戦前の発言通り関節を仕掛けることを考えていたのではないだろうか。
 そのチャンスが来る前に打撃で捉えられてしまったのじゃないだろうか。
 ただそれにしては距離があまりにも近かったように思えた。
 もっともっと距離をとって深く早いステップインからの打撃を憶える必要があったのじゃないだろうか。
 もしかしたら本気で桜庭はシウバと打撃でやりあおうなんて無謀なことを考えていたのだろうか。
 桜庭の本音の作戦はどうであったのかを聞いてみたいと思った。
 ともあれ桜庭が何の言い訳も出来ない完敗で3敗目を喫して桜庭とシウバの戦いはピリオドを打った。
 シウバは試合の後 桜庭に「この敗戦を乗り越えて復帰してもらいたい」みたいな気遣いにあふれたコメントをした。
 命がけで戦った相手にだからこそ言えるセリフだと思った。
 これで格闘技ファンの期待は桜庭から吉田へと変わっていくのだろう。
 多くの夢を見せてもらった一ファンとして桜庭には「本当にお疲れ様でした」と言ってあげたい。
 これからは重い期待を肩から下ろしてもっと自由な一ファイターとして戦って行けばいいのではないだろうか。 
 
 


[44] ウィークエンド・ラブ 第72回 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/08/05(Tue) 00:30  

 前回書けなかった映画等の感想のつづき。

 「PAIN ペイン」(00年 アルゴ・ピクチャーズ)
 家出をして来たばかりの若いカップルは金もなく泊まるところもない。
 池袋の街を職をさがしてウロウロしている二人が、男の子はAV女優に、女の子はパー兼売りの女の子に声をかけられたことから男の子はAVや風俗のスカウトマン、女の子は風俗嬢になって行くまでをリアルに描いている。
 あまりの面白さに仰天した。
 何が面白いかといってディテールの説得性が凄いのだ。
 監督の石岡正人はAV監督として活躍していた人で、その世界で得た経験や知識を生かして確かに起こりうるであろうエピソードと、それによる展開を鮮やかな手際で見せてくれる。
 どこにでもいるような高校出たてで親、家、町が嫌で都会に飛び出して来たという程度の若者がちょっとした出来事からドンドン深みへと行き、やがてはAVのスカウトマンや風俗嬢へと変貌していく様が見事に活写されている。
 男の子は元々ナンパ師の才能を持っていたからその変貌はさほどの意外性はないのだが、女の子の方の変貌ぶりには圧倒された。
 その女の子“真里”は幼い時の事故が原因で少し足を引きずって歩く。
 仕事を求めて街を歩き回る様もなんだか痛痛しげだ。
 しかし気丈な性格で、始めは男の子に「ちゃんと仕事さがしなよ」とか発破かけていて、自身も懸命に職探しをしている。
 職探しに疲れた真里が休んでいるところに「パー券買わない」と声をかけてくる化粧の濃い少女。
 「お金がない」と断って座りこんでいると、そのパー券売りの子“可奈”が「ガム食べる」と言ってガムを差し出して来る。
 受け取ってガムを食べて、食べカスを出す為に紙をだそうとするとまたパー券売りの可奈が近づいてきて「ここに出して」といって両手を差し出す。
 ためらうが、急かされて従うとその吐き出したガムを電話ボックスに潜んでいた男に食わして金を受け取るのだ。
 可奈はその金を真里に「あなたの稼ぎ」と言って渡す。
 すると電話ボックスの男が飛び出して来て“さらなるもの”を期待して真里にしがみついて来る。
 その男を可奈が撃退する。
 始めは自分をそんな風に売った可奈をなじるが同時にこんなにも簡単にお金が稼げることを真里は知る。
 そのことをきっかけにして真里もパー券売りやら親父とのカラオケボックス行きとかを可奈の相棒としてやり始める。
 そうやって稼いだ金は何とホストクラブで豪快に使ってしまう。
 刹那に生きることの楽しさを覚えてしまった少女を見て説教したり嘆いたりできるほど私は清く正しく生きてきたわけじゃない。
 人には富と名声を求めてがんばる自由もあれば転落して汚れてみる自由もある。
 ただあまりにも容易に風俗嬢へと繋がる道が開けて行くことに驚いた。
 つくり手の視点がこれを少女たちの転落というように描かずにこの物語をリアルに語ることだけに徹しているといった態度にも感心した。
 しかしこの映画でもっとも驚いたのは真里にではなく可奈にであった。
 可奈はパー券を仲介にして客に援交をする女子高生を紹介してたりしたが、そのことで警察が動き出し、街にいられなくなりだんだん追い詰められて行く。
 そんな中であるスカウトから依頼された「裏ビデオに出演できる未成年者の紹介」を引き受ける。
 何とその未成年者は可奈自身だったのだ。
 可奈は中学生の年齢だったのだ。
 ビデオは可奈のインタビューから始まるのだが、「嘘でいいから」と言われたことを無視してまるで「これが自分への清算だ」といわんばかり真実を語り始める可奈の姿に驚きと悲しみとがグチャグチャになって何だか変に感動的な気持ちにさせられた。
 風俗に行く真里、未成年裏ビデオに出る可奈……見終わった直後は衝撃を受けて言葉も出てこないくらいだったのだが、時間がたった今ならこう言おうと思う。
 学校や家が嫌で家出してパー券売ったり時には援交の仲介人をしたりしてても、稼いだ金をホストクラブでパーっと使ってしているとしても、ついには未成年裏ビデオ女優になっちまおうが自立して生きている以上可奈を応援したいと意志したいのだ。
 娼婦が金持ち男に見初められて結婚へと至ることをシンデレラストーリーとして捉え一躍ジュリア・ロバーツをスターにした「プリティウーマン」なんて映画こそが実は奴隷根性の映画なのであり、「ペイン」はある意味で“少女の自立”を描いているとも受け止めたいのだ。
 ここでは触れていないが少年のスカウトマンの世界の方の話も抜群に面白い。
 恐るべき傑作だと思う。

「容疑者」(02年 米)
 「ゴッドファーザーPARTU」(74年)、「タクシードライバー」(76年)、「ディア・ハンター」(78年)、「レイジング・ブル」(80年)といった傑作群とリアルタイムに封切り劇場で接してきたものにとって、また“ふて腐れ”を確たる自己の心情として犯罪者や娼婦に肩入れして映画を見つづけて来た者にとってロバート・デ・ニーロという男は特別な思い入れを持つ役者だ。
 しかし最近の作品のデ・ニーロの役には妙な“落着き”やら“余裕”やらが見えてきてしまい苦々しい思いをしていた。
 先日見た「15ミニッツ」も面白い作品だったのだが、デ・ニーロも刑事側をやるようになっちまったか」という思いも持った。
 この「容疑者」はある恩義のある人に薦められていたのだが、また刑事役ということでそれほど乗り気にはなれなかった。
 しかしのっけから言ってしまうとこれは良かった!
 「犯罪者だ!娼婦だ!」と力んでいる自分とは別のサラリーマンであること、プロボクシングのトレーナーであること、妻も子もある家庭人であること、ゴジ組応援団員であること、そのどれをもそつなくこなしていかねばならないという中での苛立ちみたいな気分にシンクロした。
 ニューヨーク市警のデ・ニーロは故郷ロング・ビーチでの殺人事件を捜査中に容疑者が自分の息子であることを知る。
 ロング・ビーチ――かつては海水浴客で栄えた海辺の街が今はもうさびれきってしまっている。
 この街にデ・ニーロは苦い思い出を持っていた。
 8歳の時に父親は誘拐事件をおこした。
 乳児を車の中に毛布に包んでおいていたのだが、過失から窒息死させてしまい、死刑になっていた。
 父を逮捕した刑事に引き取られ育てられたデ・ニーロは父が犯した罪を贖うためにもと自身が刑事になり社会を守って生きている。
 しかし妻の浮気をなじり手をあげたことから離婚となり子供を手放すことになる。
 息子の仲間はさっさと自首をして息子を悪者にしている。
 離婚した妻に話しを持ちかけると「息子を捨てたことをなじられ、妻を殴った男は信用しない。」と追い返される。
 捜査中の別の刑事が射殺されその容疑までデ・ニーロの息子はきせられてしまう。
 息子をこんな風にさせてしまったことは自分なのではないか、子供の為にそれでも別れるべきではなかったのではないか、まずはちゃんと息子を逮捕することだ、そんなデ・ニーロの苦悩が見る者にも痛い。
 おそらくここまで悲劇的な展開だと息子はデ・ニーロの前でいきり立つ刑事らによって射殺されてしまうのではないか、そう危惧した。
 実際にそういうカタストロフィになりそうなシチュエーションになって行く。
 父と子が向かいあうクライマックスで「俺はガキの頃、刑事になりたかった。あんたみたいなな。」とやっと心を開いた子に「音楽や映画や勇気のことを教えたかった。」というデ・ニーロのセリフに涙がドッと来た。
 デ・ニーロの必死の行動の中で息子は無事に射殺されずに逮捕される。
 ラストシーンでは逃げた母親に代って孫と一緒に暮らしながら刑期を終える息子を待つデ・ニーロと孫の姿で終わる。
 これから先もそれほど輝ける未来なんて想像できないだろう。
 それでも何度でも繰り返しやりなおして行かなければしょうがないのだ。
 父と子を描いて世評が高かった「ロード・トゥ・パーディション」に比べてこの作品は地味に消えて行くものなのだろう。
 しかしあまりにも劇画チックな設定の「ロード・トゥ・パーディション」に比べこの「容疑者」は等身大の私達のドラマに思えて胸に来たのだった。 
 
 「NEON GENESIS EVANGELION DVD-BOX 」
 長男が友人から借りて来ていたので便乗させてもらいテレビ放映されたモノも、ビデオ化された時に再編集やら作り直した数話分も、劇場公開作品もすべて収められた10枚組のDVDを4日間ぐらいでまとめて見た。
 テレシネからやり直したコンポーネントデジタルニューマスターとか、5.1chサラウンド音声とかでとにかく極めつけの「エヴァンゲリオン」だということだ。
 見た直後は色々と書きたいという思いにかられていたのだが、この作品を見て見たくなった庵野秀明の劇映画デビュー作「ラブ&ポップ」を見てしまった今となっては、何だか考えて書き込む気力がなくなってしまった。
 確かに大化けした魅力的なアニメではあるのだが、作り手が投げ出してしまっているところまで深読みで拡大解釈され一人歩きしてしまった感もある。
 たいていの人ならば誰もが持っているような暗い闇を太宰治のように特権的に抱えてしまったもののように描くことでオタク文化の代表的なアニメにまでなってしまったのだと思う。
 そういう私もブーム時から碇指令の命令に自虐的なまでに従順な綾波レイ萌えで、包帯を巻いた痛々しい彼女の姿の絵を見ることに何故か精神安定剤のような効果を感じていた。
 ハリウッドで実写化されるという情報があるが、巨大ロボットアクションから終盤一気に内向して行くドラマに転じて行く展開が「2001年宇宙の旅」やら「惑星ソラリス」を思わせるSFになる可能性だと考えて期待してみようと思う。

 7月22日〜8月4日。

 7月18日に後楽園ホールでウェルター級8回戦を戦い勝利したMaの試合内容を前回2ラウンドKOと書いたが、実際は1ラウンドKO勝ちの間違いだった。
 サウスポーのMaに話を聞くと1ラウンド入って来た対戦相手アマチュアエリートのNを右フックで引っ張るようにひっかけてテンプルを打ち抜きまず一つ目のダウンを奪ったそうだ。
 その後、Nの右ストレートを浴び逆にダウンを奪われたそうだ。
 打ち合いになりNの右ストレートを今度はスウェイで外し、直後に左ストレートをカウンターで入れるとNは倒れ、カウントアウトしてしまったということだ。
 相手の左パンチを身体を右にシフトすることで左に流し直後に右をクロスカウンターする方法は私が好きなパターンでジムワークで結構選手に教え込んでいるのでうちのジムの選手は使う選手が多い。
 そのパンチがフィニッシュブローになったということはトレーナーとして嬉しいかぎりだ。
 しかし、いきなり1ラウンドで3度のダウンシーンが見れるというボクシングは、まだまだ4回戦ボーイがやるような“あたった者勝ち”のボクシングで2度日本ランカーになったような選手がやるようなボクシングではない。
 しかし初の後楽園ホールでの勝利でもあるし内容よりも結果と考えてよしとしよう。
 
 7月27日に名古屋市国際会議場イベントホール(通称白鳥CP)でスーパー・フライ級の4回戦を戦う。
 うちのジムの選手はTで四日市での地元興行時にデビューし2−0の判定で惜しい敗北をきっした選手だ。
 Tはデビュー時は公立の進学校の高校生で今は大学生になった。
 細面の今風の優しい顔立ちの若者で「何故こんな奴がボクシングなんてやるのだろう」と思っている選手だ。
 しかし練習熱心でスタミナと打たれ強さについては誉めていいものを持っている。
 対戦相手はこの日がデビュー戦の最近上り調子のTジムのIという選手だ。
 ジム内でのスパーリングを見る限り余程の相手でない限りTが負けることは考えられないと思っていた。
 しかし相手はその“余程の相手”だった。
 スタミナに自身のあるTは果敢に手を出して攻めつづけたが相手のIはしっかりしたバランスの腰の入った強打を打ち返してきた。
 一発の重さでは圧倒されたがTは手数でガンガン攻めつづける。
 しかしラウンド数が進むにつれて相手のパンチが効きだしバランスを崩す場面が増え始めた。
 激しい試合内容に館内も結構ヒートアップした。
 4ラウンドが終了して精魂尽き果てたフラフラの状態でTはコーナーに戻って来た。
 椅子に座って2−0の判定負けを聞いて椅子から崩れ落ちマットに顔を伏せて悔しがった。
 何とか気持ちを取り戻すが階段を降りる足取りも心配だったのでセコンドの私は肩を支えて退場させるようにした。
 控え室に戻って来るとジムのプロの先輩選手達がやって来て負けはしたがとんでもなく熱い戦いをやってのけたTを皆口々に絶賛した。
 Tは嗚咽して泣き出しかけたが、会場に来ていたガールフレンドらが控え室に入ってきたのでぐっとこらえていた。
 少し落ち着いたところで私もTの健闘を称えたが、この敗北の最大の原因であるバランスの悪さを指摘した。
 練習中も何度か指摘したのだが、なかなかなおらないし、先輩からスパーの相手として声がかかることが多いのでフォームの矯正とかがやりづらい状態になっている。
 しかし、真面目ないい選手で次回こそなんとか勝たせてやりたいので一度スパーの数を減らしてでもフォームの修正にとりかかった方がいいのかもしれないと考えた。

 9月7日に予定されていたうちのジムの興行が10月に延期になってしまった。
 それが決まるまでに紆余曲折が色々とあった。
 書き出すと長くなるので決定的になったことのみを説明すると9月7日にこれも延期されていた石井広三の世界戦が決定してしまったことによる。
 中部のボクシング関係者達が全てそちらに集結することになりこちらの地方なんかにはジャッジもレフリーも派遣されなくなってしまったのだ。
 それでも会長は「大阪からでも東京からでも呼んで興行は決行する」と息巻いていたが、その大阪や東京をあたって見ても当日他の試合があり来れるコミッションがないということでついに折れ延期せざるをえなくなったのだ。
 前売りチケットもポスターも全てパーになってしまい会場も予定されていた所と変更されることになった。
 しかし10月の会場は昨年もやった場所で控え室で隣の控え室の声が聞こえてくることを除けば後は観客の熱気が降るように伝わって来るような小さいながらも身の丈にあった素晴らしい会場なので、私はむしろ喜んでいる。
 願わくば日程と会場が変更になっていたということでカードの見直しもされてほしいということだ。
 9月7日の興行では対戦相手が決まらず主要どころは全てタイ人で行こうとされていたのでそれを知って嫌がっている選手も数人いたのだ。
 選手の願いどおり強い日本人との対戦へとカードが変更されればこの延期は返って幸運をもたらしたことにもなるのだが……。

 見た映画の感想について。

 「ザ・リング」(02年 米)
 こちらも結構怖いのだが、元祖を始めて見た時のショックとは比べものにならない。
 予備知識なしで見ていて井戸から出てこちらに向かってきてテレビのブラウン管をも越えて部屋に貞子が入ってきた時のショックは忘れられない。

 「大いなる勇者」(72年 米)
 サム・ペキンパーの傑作「砂漠の流れ者」(68年)はタイトルを「ケーブル・ホーグのバラード」と変更(原題どおり)してリバイバルされて再評価を得た。
 先日、感想を書いた「さすらいのカウボーイ」(71年)も最初に公開された時とは全く違ったような“丁寧”な扱いでリバイバルされた。
 この「大いなる勇者」も地味でありそのダサい邦題でも損をしてしまった作品で再評価の機会を与えられていい佳作だと思う。
 「ジェレマイア・ジョンソンの伝説」とでもしてリバイバルされてほしいものだ。
 「砂漠の流れ者」や「さすらいのカウボーイ」と同様に見る者に孤独な厳粛感を感じさせる静かないい西部劇なのだ。

 下記の見た作品の感想も機会があれば書きたいのだが今回はとりあえずタイトルだけ。
 
 「ラブ&ポップ」(98年 ラブ&ポップ製作機構)
 
 「ココニイルコト」(01年 日本ヘラルド映画)

 「アバウト・ア・ボーイ」(02年 米)
 
 「トリプルX」(02年 米 チェコ)

 「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(02年 米)

 「チョコレート」(01年 米)

 「メン・イン・ブラック2」(02年 米)

 「9デイズ」(02年 米)

「水の女」(02年 アーティスト・フィルム=日活)

「がんばっていきまっしょい」(98年 東映)

 「プロフェシー」(02年 米)

「笑う蛙」(02年 オフィス・シロウズ=メディアボックス)

 「ゲット・マネー」(02年 米)



[43] 復旧 投稿者:べあ 投稿日:2003/08/04(Mon) 16:41   <URL>

ゴジサイト掲示板 復旧しました。
原因はサーバー側のトラブルによるもののようですが
ともかく ほっと一息。

みなさん また カキコミよろしく!



[42] ゴジサイト掲示板 現在不調 投稿者:べあ 投稿日:2003/08/02(Sat) 08:20   <URL>

現在 ゴジサイト掲示板不調です。
サーバー側になんらかの支障があったと思われますが
ともかく 復旧をお待ちください。


[41] ウィークエンド・ラブ 第71回 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/07/22(Tue) 00:16  

 6月30日〜7月21日

 ボクシング。
 7月18日、東京後楽園ホールでうちのジムのエースMがEジムのN選手とウェルター級の8回戦を闘った。
 会長は「二人で(Mと)言ってくるわ」と言ったので、私も、今、毎日ジムに来て見ていてくれているKトレーナーも留守番になってしまった。
 ボクシングの聖地後楽園ホールにうちのジムの選手は過去3回出場しているが、全て敗北を喫している。
 Mが全日本新人王を闘った試合はKO負けで完敗であったのだが、後の2試合は判定によるものではっきり言って負けていた内容とは思えないものだった。
 そのうちのひとつである前回の後楽園ホールでの試合は東京の名門Yジムの現東洋太平洋スーパー・ウェルター級チャンピオンであるK選手のデビュー戦に前年西日本の新人王に輝いたうちのMが指名されて戦った試合だ。
 K選手はアマチュアで100戦近く戦って8割以上の勝率を誇った強打者で鳴り物入りでのプロデビュー戦だった。
 今はスキンヘッドにしているけれどデビュー戦ではまるでモンゴル人のような辮髪姿で登場し、リング上でいきなりMをにらみつけるというアマチュア出身者のプロデビュー戦とは思えないような灰汁の強いキャラクターの選手だった。
 試合内容は一発のパンチ力のKとスピードと手数のMというコントラストのはっきりしたもので、2ラウンドにMはダウンしたが、その後Kは一発狙いになり過ぎて手数が減り、逆にMのパンチがポンポンあたり出し、5ラウンドには逆にダウンを奪い返した。
 その後もKはMの左ロングフックを浴び続け、左眼辺りの顔面は腫れ上がり視界もやばそうな状態になっていた。
 6ラウンドが終わり「まず負けはないな」と思っていたら、0−3の判定負けがジャッジされ驚愕した。
 リング中央でKの手が上げられた時、観客席から「青(コーナ−)の勝ちだ!」と罵声が飛んだ。
 ドクターチェックでKとKのトレーナーと顔をあわせたら、Kのトレーナーが「いやあ、どっちが勝ったかわからん試合やったねえ」と声をかけてきた。
 Kは醜く腫れ上がった顔を伏せるようにうつむいたままだった。
 腹の中で「こっちの勝ちに決まっているだろう。バカ野郎!」と思いながら「ありがとうございました。また使ってやって下さい。」と挨拶をした。
 YジムのKはその後順調に成長しスーパーウェルター級の日本チャンピオンとなり7月15日に場所も同じく後楽園ホールで韓国の東洋太平洋ランキング1位の選手と東洋太平洋王者決定戦を戦ったばかりだ。
 深夜にテレビで放送されたので久々にKのボクシングを見た。
 右のパンチ力にはさらに磨きがかかり、何と2ラウンドでランキング1位の選手をKOしてしまった。
 新OPBFのチャンピオンとなったKはインタビューに答えて現世界チャンピオンでありボクシング界のスーパースターと言っていいオスカー・デラ・ホーヤの「顎しか見えません」などという大口を叩いていた。
 そんな様をテレビで見ながら「あの時、KではなくMの手が上げられていたら今日のKの姿はあっただろうか?」と苦々しく考えた。
 名古屋のジャッジの地元贔屓はよく指摘されることなのだが、東京だってなかなかなのだ。
 1、2ポイント差の勝ちなら向こうの勝ちにされてしまう、3、4ポイント差の勝ちなら引き分け、それ以上の明確な差をつけなければ判定で勝つことは難しい……地方にありアウェーで戦うことの多いジムの私にはそんな思いがある。
 逆に言うと実績はあるが判定でしか勝てないようなパンチのない地方の選手というのはこれから売り出そうとしているエリートボクサーにとっては、格好の対戦相手となるということだ。
 否、「対戦相手」なんて生易しい表現だ、「踏み台」と言ってもいい。
元西日本の新人王、2度日本ランカー入りした経験を持つMはそういう意味でもっとも狙われやすい選手だと言える。
 今回の18日の試合もそういう構図がもろに出ているマッチメイクである。
 仕事の方も予定があったのだが、そういう構図で戦うことにウンザリしているということもどうしてもこの試合に行きたいという気にならなかった要因のひとつである。
 対戦相手のNもやはりアマチュアのエリートでデビュー以来3戦3勝3連続KOと波に乗っている選手だ。
 新人王トーナメントという厳しい世界には出場させずに吟味されたマッチメイクで丁寧に育てられているという選手だ。
 アマチュアエリートには無縁のうちのジムから見れば「糞食らえ」の選手だ。
 しかし、プロ入り4戦目で8回戦で元日本ランカーと戦わすということは相当最短距離で日本ランカー入りが狙える逸材と目されてもいるということだ。
 ひょっとしたらと言うより、正直に言ってポイント採りのうまいアマチュアエリートの選手に敵地で勝つことはパンチのないMには厳しいと心ひそかに思ってはいた。
 それでも、練習中はMに「プロ入り4戦目という選手に挑戦されとんのやぞ!完全になめられとんのやぞ!」と挑発しまくった。
 そして18日の午後8時半頃、会長から会長の甥である若いKトレーナーの携帯に連絡が入った。
 試合結果はMの2ラウンドKO勝ちであった。
 私とKトレーナーは小躍りして喜んだ。
 会長は急いでいた様子だったので詳しい試合内容は聞けなかったようだが、もうその結果だけでも私達には充分だった。
 でも本当はやっぱり現場に居たかった!
 聖地後楽園ホールで歓喜の雄たけびをあげたかった!
 そして「畜生!こんな結果になるんだったら少しばかり職場に迷惑かけても行っていればよかった。」と後悔した。
 19日に参加したかったイベントもあったので東京へ行くことは好都合だったのだが……あ〜あ、残念。

 7月1日から私のいる職場の中央省庁が廃止となり地方の出先機関である私の職場も名称が変更された。
 勿論変更されたのは名称だけではなく仕事も今までの中心業務は民間へと移行され私達の組織は多くの新規業務を始めることになった。
 私はかつての仕事を民間へ移行していくしていく役割の中心となる部署をひきつづきやることになっていた。
 いわば残務整理のような仕事なのだが、私の勤務地でのその業務は他の地域に比べ1年遅れて取り組んだことにより「官」から「民」へ移っていく過渡期である本年がもっとも大変な状態となってきた。
 “最盛期”と呼ばれる最も多忙な8月下旬から10月上旬にかけてのその業務に民間機関は最低限度の取り組みでしか対応してくれず、新規業務へと移っていった後の残されたわずかな人数で“最盛期”を乗り越えていくことになった。
 管理職の方から今後の組織と業務についての説明があると、労働組合役員やそういう意識の高い職員からはその管理職に怒鳴りつけるような質問やら悪態やらが浴びせられた。
 職場には殺伐とした空気が流れた。
 さらに“残務整理のような仕事”を行う私達も「いずれ取り組むことになる」ということで新規業務の研修を何度となく受講させられた。
 東京で試合のあった18日も研修の日だった。
 これから開拓して行かなければならないその新規業務の内容を受講した後の私と私の職場の友人とは決まって「あ〜あ、これからこんな仕事してかんなあかんのか?嫌になるのう。」と言ってため息をついた。
 定年を待たずしての退職者が多く出るとか、現在の勤務地は2年後にはなくなるだろうとかの様々な噂や憶測が流れ出た。
 この機会に県外に出てしまおうと名古屋の上部機関を希望して転任する者が増えて来た。
 そんな風にして出て行った一つ年下の者から来た挨拶状を2通、苦い思いで読んだ。
 若い頃は上司に対しても労働組合に対してもことあるごとにたてつく跳ねっ返りだった私は32でボクシングを始めてから職場では極端におとなしくなった。
 争いを避け仕事は淡々とやり対人関係はヘラヘラしていることに意志して変えた。
 順番で回って来た労働組合の副委員長という役割も熱くならずに適当にやっていたら酒席で一つ年下の者に「あんな生ぬるい当局交渉でいいのか!」とからまれた。
 ナックルパンチでもお見舞いしてやろうかと思うくらい一瞬ムッとしたが、抑えてヘラヘラと聞くことにした。
 からんできたのが挨拶状をくれた2人のうちの1人だ。
 それでも態度を改めずに“淡々”“ヘラヘラ”を今日まで続けている。
 本当の自分の戦場を見つけたからと言えばカッコイイが元々センコーに説教され親に泣きつかれて嫌々なった職業だからというふてくされた気分も根っこにはあった。
 しかし不思議なもんでそうやっておとなしく生き始めると仲間扱いしてくれる人々も増え、随分とラクチンに職場生活を送れるようになって行った。
 それでも「ここは俺の居る場所じゃない。ここに居る俺は本当の俺じゃない」みたいな考えは呪縛のようについて回っていたがボクシングに関わることもできているということで許容できる職業にもなって来ていた。
 7月1日にある若い友人からのメールを受け取った。
 あるクリエイター集団の正式メンバーに成れなかったことを悔しく思うことが書かれていた。
 そして自分自身の資質を評価してもらえなかったことから自分の性格を見つめ直し分析して行くという苦渋に満ちた告白が書かれていた。
 その激しいメールの内容に圧倒されながら、何故だかそうやって悩む若い友人が羨ましくて私もまた考え込んでしまった。
 もっとも私のは悩みというより中年親父の愚痴に近いものだが……私は今の職業に就くことであったかもしれないもうひとつの自分の可能性というものを捨ててしまったのではないだろうか?
 もっとクリエーティヴな職業には就けなかっただろうか?
 モノ書いては食っていくことは出来なかっただろうか?
 ゴジファンに成るような男がコッカコームインなんてのをやっているってことはやっぱりどう考えてもインチキなのじゃないのか!?
 否、やっぱり愚痴っぽい話だ……止めよう……。

 見た映画の感想。

 「たそがれ清兵衛」(02年 松竹)
幕末、平侍の真田広之は、幼い娘二人とボケた老母を抱えて貧しい暮らしをしている。
 妻は長い病気の果てに死に残された真田は借金も抱えているようだ。
 就業時間を終えると真っ直ぐに帰宅に向かう真田のことを職場の仲間達は“たそがれ清兵衛”と呼んで嘲笑する。
 幼馴染で親友の吹越満の妹宮沢りえが酒乱の夫と離縁して戻ってきて、真田の家に出入りするようになる。
 娘たちも宮沢りえになつき吹越も妹が真田となら再婚をしてもいいという気持ちを持っていると言ってくれている。
 しかし真田広之はそんな宮沢りえの気持ちを、極貧の生活をおくる身分の自分のところに来てもきっとうまく行くはずがないと拒絶する。
 剣の腕は、かつては道場の師範代を勤めていたことのある猛者である真田は、宮沢の前夫との決闘での噂により上意討ちの討ち手の命を受ける。
 愛する家族を守る為にも受けねばならなかった使命だ。
 しかし死を賭けた戦いを前に己の宮沢への想いに素直になろうと告白して戦いへと出て行く。
 この小太刀を使った殺陣のシーンはこれまでの山田洋次作品からは想像もつかないような凄みのある出来栄えになっている。
 無事に打ち手の役目を終えた真田は宮沢と共に静かな生活へと戻って行く。
 見ている時はベテラン山田洋次の語り口のうまさにグイグイ引き込まれてのめりこんだ。
 しかし見終わってこの作品の魅力を考えていくと私は支持したいと言うことは出来ない。
 どうしても多くの山田洋次の作品にありがちな「清く、貧しく、正しく」という価値の前に躓いてしまうのだ。 私は真田広之のような謙虚な人間にはなれない。
 ボクシングもやっていてちょっとばかり強いぞと思われたいし、そのように自己演出したりもする。
 強さは隠しとおして、「家庭的で、つつましく、ささやかな幸せ」を大事にして静かに生きるというあり方はあまりに日共が喜びそうな世界でもある。
 こういう世界を支持するなんて言ったりしたらジムの練習生に「嘘つけ!」と言ってぶん殴られそうだ。
 ただ、この映画は評価の高い北野武映画へのアンチテーゼとしても受け止められると思った。
 これは家族と暴力というものの関係を描いて「HANA−BI」とは対極に位置付けられる作品である。
 「思想の党派性にこだわれ!」などと説教じみたことを言う気はないが「HANA−BI」も「たそがれ清兵衛」もどちらも「大好きな映画」とするような輩はどうも信用できない。
 勿論、私はどちらも支持しない。
 私は「太陽を盗んだ男」派だからだ。
 
 「Returner リターナー」(02年 東宝)
日本映画がSFを扱うとどうしてもみすぼらしくなってしまうか、怪獣のいない怪獣映画みたいになってしまうのだが、これはよくがんばっているSFアクションだと思う。
 金城武のセリフの言い回しが妙に迫力がなく、それに伴って悪役の岸谷吾朗の熱演が熱演すぎて浮いているようになってしまったのはご愛嬌だが、結構楽しんで見てしまった。
 日本映画が目指すべきところはこういうハリウッド的エンタテイメントではないだろうという意見もよくわかるのだが、戦闘機やら旅客機が変形していくCGの使われ方なんてハリウッド製のこういう映画を見慣れた目の者にも驚かせる力は確かにあったと思う。

 「チアーズ!」(02年 米)
 この手のスポ根ものは面白くなりやすいし好みなのだが、これは力不足というしかない。
 最後にライバル校の黒人ばかりのチームが優勝して主人公のチームは2位になれたことを良しとする描き方には好感が持てただけだった。
 栄光へ至るまでのがんばりの部分が下手で応援したいという気持ちになれなかったから元気になれんのだ。
 まあ、こういう競技だから描きづらくはあったんだろうと思う。
 日本のこの手のクソ映画「ウォーター・ボーイズ」よりは大人に媚びてないだけましってとこか。

 「マッスルヒート」(02年 東宝)
 近未来を舞台にしたケイン・コスギのバトル・アクション。
 子供を抱いたまま回し蹴りをするシーンがあって、子供の頭が近くのモノにあたりそうでドキッとした。
 本当の子供だろうかと何度も見直したら本当の子供なのでまた驚いた。
 DVDに特典映像としてあったメイキングを見るとそのシーンがあったのだが、弱冠蹴りの動きのスピードが遅いような気がした。
 ということは本編では少し早回しにしているということかもしれない。
 こういう技法がとれるなら例えばボクシング映画のファイトシーンには大いに応用できるのではないだろうか。
 迫力のあるファイトシーンを持った邦画のボクシング映画が見たいものだ。

 「命」(02年 東映)
 柳美里の生々しい自分の体験を綴った原作の映画化作品。
 自殺願望、恋人の癌、出産……死ぬこととか生まれてくることとかに神経を研ぎ澄ましたような感覚がしんどかった。
 感動するというより何だかこの作者と一緒にいると息苦しさを覚えてしまいそうな気になった。
 意気地がないと言われれば「そうだ。」と答えるしかしょうがない。

 「PLAY BALL プレイボール」(02年 アースライズ)
 事故で風俗嬢を殺してしまったガレッジセールのゴリがマニラに逃げて現地の孤独な少年と触れ合ったりその姉に恋したりというドタバタとした人情コメディ。
 人情の部分が薄っぺらでただのオバカ映画になってしまった。

 「イン・ザ・ベッドルーム」(01年 米)
 トム・ウィルキンソンとシシー・スペイセクの1人息子は夫と別居中の人妻マリサ・トメイと付き合っている。
 別居している夫がマリサに暴力をふるうのを止めに入って逆に射殺されてしまう。
 息子を失った親の悲しみをひたすら絶望的に描きついには犯人を射殺するところまで行ってしまう姿を描く。
 ただひたすら重苦しいだけの展開にやるせなさだけが残った。
 これだけの深い絶望を描くことに何の意義があるのだろう?

 「マイ・ラブリー・フィアンセ」(01年 仏 米)
 12世紀のイギリスから現代のシカゴにタイム・スリップしてしまった伯爵ジャン・レノのドタバタを描いたお気楽な作品。

 「チキン・ハート」(02年 オフィス北野)
 いい年になっても定職に就かずウロウロをつづけている池内博之、松尾スズキ、忌野清志郎の3人。
 面白いキャストだし、こういう面々が例えば傑作マンガ『ボーダー』のように次々に起こる事件の中で管理社会に深くコミットしないというポリシーでも見えてくればまだ映画としては見れただろう。
 特に池内はかつてはいいところまで行ったプロボクサーでありながら殴ることが嫌になり今は殴られ屋をやっているという面白い役どころなのに、ドラマとしては結局殴れないボクサーのままに徹してしまって盛り上がらない。
 「何かを始める」のではなく「何もできない」ということを描こうとしているのはよくわかるのだが、それだとやはり退屈な作品になってしまうのは仕方ないと思う。
 ただダラダラしているだけの印象が残る作品になってしまった。 

 「ゴスフォード・パーク」(01年 米)
 1930年代のイギリスのゴスフォード・パークと呼ばれるカントリー・ハウスでパーティーが催されている。  そこで殺人事件が起こるのだが、その謎解きよりもそこに登場する上から下までの階級の人々の様子を楽しむという作品。
 アガサ・クリスティを彷彿とさせる世界だ。
 こういう群集劇をやらせたらピカイチの監督ロバート・アルトマンの作品である。
 スタンリー・キューブリック亡き後のアメリカ映画界で、もっとも巨匠と呼ばれてふさわしい監督はコッポラとかスピルバーグとかいるけれどもやはりこの作品の監督のロバート・アルトマンだろうと思う。
 しかし、こういう群集劇を楽しめる感性が多分私は他の人より鈍い。
 私がこの世界を楽しめるようになる為には、もっと“育ちの良さ”“知性”“シニカルに人を見ながらもそれを楽しみに出来る余裕”みたいなものが必要なのだと思える。

 「マイノリティー・リポート」(02年 米)
 近未来社会は、犯罪予知システムなるもののおかげで平和が保たれている。
 犯罪予知システムとはプリコグ呼ばれる予知能力者が犯罪の加害者と被害者の名前を述べそれに従って行動する犯罪予防局によって未然に犯罪を防ぐことで成り立っている。
 そのことを紹介する為に導入部で紹介される犯罪がいきなり切ない。
 浮気をした妻やその相手を殺そうとしたあわれな男が逮捕されるのだ。
 この犯罪予知システムが犯罪というある意味で最も人間臭い行為を奪ってしまうシステムであることを示唆する。
 犯罪予防局のチーフであるトム・クルーズが加害者として予知されたことによる逃亡劇とその裏に隠されている陰謀が描かれていく。
 未来社会の小道具やシステムも見応えあるし、何よりその展開がこれまでのP・K・ディック作品の映画化されたものの中でももっともうまくディック的ワールドを作り出していて魅力的だ。
 前作「AI」がひどかったので同じく近未来もののこの作品にもさほど期待していなかったのだが、前作とは比べものにならないような出来栄えだ。
 自分がいったい何者なのか、今起こっていることが本当の現実なのか、シミュラクル、ドラッグ、廃墟、精神世界……神経症治療の為のアンフェタミン中毒になりながら書きまくったSF作家P・K・ディックの悪夢のような迷宮世界を見事に映像で再現してくれている。
 そういえばこの監督はかつては「激突」や「ジョーズ」という悪夢のような世界を描いた傑作を作った人だった。
 しかしスピルバーグというメジャーというよりあまりにもポピュラーになりすぎたその監督名故にこの作品は損をしているとも思った。
 主演がトム・クルーズという二枚目人気俳優であることもさらにそのことに加担した。
 もっと無名の監督、俳優で作られていたならタルコフスキーの「ソラリス」「ストーカー」、ニコラス・ローグの「地球に落ちて来た男」のようにカルト的なSF作品として扱われる作品になっていたかもしれない。

 「バイオハザード」(01年 独 英 米)
 ゾンビのシーンよりも何よりも主演のミラ・ジョヴォノヴィッチのヌードシーンに一番ドキッとした。

 まだ「PAIN ペイン」(00年 アルゴ・ピクチャーズ)、「容疑者」(02年 米)、「 NEON GENESIS EVANGELION DVD-BOX」の感想が書けないうちに寝る時間になってしまった。
 どの作品もタイトルだけ書いて終わりにするには忍びないものなので次回にまわしてしまおう。


[40] 『真田風雲録』と『太陽を盗んだ男』の共通点(ちょっと無理矢理) 投稿者:サイボク 投稿日:2003/07/15(Tue) 01:29  

たまさん、「援護射撃」ありがとうございました。
『幕末残酷物語』&『江戸川乱歩の陰獣』の二本立てでご覧になったということは、たぶん加藤泰の特集上映だったのでしょうね。

加藤泰といえば、もうひとつ私が好きなのが『真田風雲録』。
これは「ミュージカル時代劇」なのですが、その音楽がロカビリーだったり、衣装も時代考証をわざと無視した派手なモノで、かなりハチャメチャな映画ですが、作りが凄く丁寧で役者さんもみんな巧い。
あ、あと、主人公の猿飛佐助は超能力者(!)で、人の心が読めます。
さらにこの映画は、制作当時の世相(安保闘争とその挫折)を比喩的に描いていたりもします。

てなわけで、「ハチャメチャが良い方向に働いていて面白い、おまけに深読みも出来る」という、お得な映画です。
そういえば『太陽を盗んだ男』もこのタイプの映画ですね。
   



[39] 援護射撃 投稿者:たま 投稿日:2003/07/08(Tue) 17:23  

『幕末残酷物語』
確か『江戸川乱歩の陰獣』との二本立で10年くらい前に文芸坐で観た。
黄門様の西村晃がムチャクチャ若く、無条件に得した気分。
確かに惹きつけられる映画だった。ワタシモひっそりとオススメ。


[38] 補足のような訂正のような 投稿者:サイボク 投稿日:2003/07/05(Sat) 12:55  

下の書き込みに付け足しを。

もちろん、TSUTAYAじゃなくても、大型店じゃなくても、
アジア映画(邦画を含む)コーナーが充実したお店なら置いてあると思いますよ。

小さくても頑張ってる面白いお店もあるので、
TSUTAYAだけ書くのはイカンな〜とフッと思いついた次第です。



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