誰でも日記過去ログ
028〜037


[37] ひっそりと……オススメ映画 投稿者:サイボク 投稿日:2003/07/05(Sat) 03:52  

『幕末残酷物語』 監督:加藤泰 
新撰組を描いた映画です(「なんでも掲示板」の方で、少し前に新撰組の話題が出ていたので)。
昔観たきりなので細かいことは覚えていないのですが、全体的に、かなり引き込まれて観たような記憶があります。
タイトルにもある通り、残酷で、そして非情な世界。

『狂った果実』 監督:根岸吉太郎
やはり「なんでも掲示板」で少し前に『遠雷』の話題が出ていたので、同じく根岸監督の初期の作品として。
ロマンポルノですが、ATGっぽい雰囲気もあります。ストーリー的にはまあ、暗くて悲しいです。特にラスト。
ちなみにこの作品の助監督は、『人魚伝説』などの監督として有名な池田敏春。

『変態テレフォンONANIE』 監督:佐野和宏
ピンク映画です。で、上記のタイトルは映画会社が商売用に付けたもので、本来の(監督自身が付けた)タイトルは『Don't let it bring you down(へこたれちゃダメだ)』。
いわゆる「よくできた映画」ではないし、独特のセンチメンタリズムが漂っているので、人によって好き嫌いが分かれると思いますが、一部の映画好き(私を含む)の間では人気の高い作品です。
ストーリーの要素を言葉の羅列で表現すると、「自衛隊・逃亡・山村・
移動上映会……」といったところ。

『ザ・ミッション 非情の掟』 監督:ジョニー・トー
日本映画が続いたので、外国映画も。
香港のガン・アクション映画ですが、ジョン・ウー作品とはまた違った味わいがあります。ウー監督が華麗でダンスのような動きを演出するのに対し、このトー監督は、動きが少なく尚かつ緊張感あふれるアクション・シーンを創っています。
アンソニー・ウォン、ン・ジャンユーなどの男優陣が渋くて巧い!

以上、何となくパッと思いついた作品を、脈絡なく並べただけです。
ちなみに『幕末…』はビデオが、他の3作はDVDが出ています。TSUTAYAの大きい店だったら、たぶん全部揃っていると思います。
興味のある方はご覧になってみてください。


[36] ウィークエンド・ラブ 第70回 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/06/30(Mon) 18:47  

 6月11日〜6月29日

うちのジムが主催する興行が本決まりになった。
 9月7日、県庁所在地の市立体育館だ。
 新日本やら全日本というメジャーなプロレス団体も使用する結構大きい会場だ。
 プロレスファンにはかつて前田日明とアンドレ・ザ・ジャイアントが伝説のセメントファイトをやった場所として知られている。
 ムエタイ流の蹴りとか受身の取りにくいスープレックスを使用してそのファイトスタイルが嫌われていた前田日明をつぶそうと新日の上層部がアンドレにたきつけてアンドレは真剣勝負を挑んでいった。
 上から押しつぶされそうな体勢からなんとか脱出した前田はリングサイドにいた山本小鉄審判部長に「いいんですか?やっちゃいますよ。」と何度も確認する。
 そして足刀を使った横蹴りで何度もアンドレの膝を蹴りまくる。
 戦意喪失したアンドレは寝転んだまま何もしようとしてこない。
 異変を察知した猪木が飛び出して来て、試合はノーコンテストとなった。
 この試合は当初テレビマッチを予定されていたがそういう内容になってしまったので放送は見送られ結局その時のテープが裏ビデオとして流出しファンの間で語り継がれることになったというファイトだ。
 うちの興行の会場と日程は決まったのだが肝心のマッチメイクが中々うまく決まらずに二転三転している。
 当初はメインに元日本ウェルター級ランカーのMa,セミには東京Kaジム所属でうちから移籍していった現日本スーパーライト級4位のS.Iが出場を予定されていた。
 しかしMaは7月にも試合が予定されており激しいスパーをしていたが、ある部分を痛めてしまった。
 キャンセルも考えたのだが、結局痛みをこらえて強行出場することになった。
 7月の試合を無事にクリアーして9月の興行につなげることに黄信号が灯った感じだ。
 セミのS.Iの試合は色々あって結局流れてしまった。
 6回戦の先日いいファイトで勝利し現在5試合負けなしのKiも“ガチンコ最強の男”との再戦を予定していたが、向こうの都合で流れてしまった。
 同じく6回戦の刺青野郎も現在B級のランキングに入っている強豪との試合が予定されているが、相手がうちの興行の前の試合でKO負けをしなければという条件付になっている。
 その相手のうちの興行の前の試合での対戦者というのが何とベネズエラの元アマチュアのチャンピオンというのだからどうにも心配でしかたない。
 その他の6回戦、4回戦のマッチメイクも中々決まらずに会長は頭を抱えている様子だ。
 なんとか昨年以上の熱気あふれる興行にしたいのだが……。

 6月14日から22日にかけて「小津安二郎生誕100年記念 三重映画フェスティバル2003」と名打たれて県総合文化センターで小津作品を中心に郷土出身の今は亡き3監督、小津安二郎、衣笠貞之助、藤田敏八にスポットをあてられた上映会やら行事が色々と行われていた。
 「キネマ旬報」でも紹介され朝日新聞でも連日その様子が報道されていた。
 熱心な小津ファンではないけれど、「キネ旬」でも注目される郷土の映画フェスティバルであるのでそれなりに気にはなってはいた。
 一度は見ておこうということで最終日の22日に県総合文化センターに行く。
 この日は10時から『東京物語』が上映され、13時30分から記念シンポジウム「小津映画と家族」、16時30分から小津ファンの交流会が予定されていた。

 「東京物語」(53年 松竹)
 夏。尾道に住む老夫婦笠智衆、東山千栄子が東京に住む長男山村聡と長女杉村春子の元へやって来る。
 しかし実の子供達は現実の生活に追われ親のことをかまってやる余裕がない。
 もっとも暖かく接してくれたのは戦死した2男の妻という義理の娘原節子だった。
 「東京物語」は、20数年ぶりの再見になると思うのだが、正直圧倒された。
 20年前に見た時は、親と一緒に飯食った記憶すらほとんどない育ちの人間にとっては唾棄すべき世界にしか見れなかった。
 かろうじて戦争で夫を失っても義理の父母につくす原節子のりんと背筋の伸びた美しい姿に魅せられこの後の彼女の人生を考えてしまったのだが、40を越えて見た今回は不覚にもラストの方でひとり佇む笠智衆の姿に涙を流してしまった。
 笠智衆の姿に生きていくということ、老いていくということの悲しみをしみじみと考え込んでしまった。
 この映画には“日常の中の死の匂い”とも言うべきものが立ち込めている。
 実際に東京から尾道に帰った後、老妻東山千栄子が死ぬ。
 実の子供たちは皆自分の生活に精一杯で老いた親など邪魔でしかなかった。
 息子たちに追いやられるように行った熱海の旅館では、隣の部屋の麻雀の音がうるさくてゆっくり眠ることも出来なかった老夫婦が早く東京に戻る。
 しかし、やっかいになれる場所がない。
 「とうとう行くところがなくなってしまったね」と言い、笠智衆は昔の仲間を訪ねて飲んで酔いつぶれ、東山千栄子は原節子のアパートに泊めてもらうことになる。
 原節子に肩をもんでもらった後、布団で横になり部屋の電気を消すと東山千栄子がすすり泣く。
 それを隣で横になり目を開いて天井を見つめて聞いている原節子。
 老いた人間は寂しい存在なのだ。
 山村聡と杉村春子の元へ「ハハキトク」の電報が来る。
 出発する列車の時刻の打ち合わせの後、杉村春子が山村聡に聞く。
 「喪服どうします?もっていきましょうか?」
 “日常の中の死の匂い”“日常の中の死の匂い”“日常の中の死の匂い”
 ひとり佇む笠智衆の姿。
 打ちのめされたと言っていいくらいこたえた。
 そういえば東京で笠智衆は東山千栄子に言っていたっけ。
 「それでもわしらはまだ幸せなほうじゃ。」
 ここにあるのは、“抑圧された者の叫び”でも“哲学的な苦悩”でもない。
 ただのあたりまえの“日常と死”だ。
 戦争で唯一の子供を亡くした親だっているだろうし…もっともっと不幸な人間が世の中にはいるはず……。
 だから「それでもわしらはまだ幸せなほうじゃ。」と言うしかないのだ。
 「言葉に出すほどではない悲しみ」を表現して、この映画は映画表現の極北にたどり着いたのかもしれないと思えた。
 “抑圧された者の魂の叫び”でもなければ、“選ばれてあることの苦悩”でもない、あるのは「それでもわしらはまだ幸せなほうじゃ」と言うしかない決して不幸ではない人間の“日常と死”だ。
 このなんでもない老夫婦の東京への旅のドラマは、「文学」でもなく「マンガ」でもなく映画だからこそ“大衆娯楽”としても存在しなければならない映画だからこそ描きえた極地なのだ。
 小津は1960年にデビューする松竹ヌーヴェル・ヴァーグ派からは“プチブル的”と批判の対象となる。
 時代は60年安保で騒然としていて政治意識の強い大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らにとっては“松竹大船調”なんてものは否定すべきものでしかなかった。
 以前、吉田喜重がNHK教育での小津の特集番組の中で酒席で小津の前に座り色々とからんだことを語っていたことを思い出す。
 しかし今回この「東京物語」を見直して、随分と過激なものを見せられた気分になった。
 “過激”という表現は適切ではないかもしれない。“きつい”と言った方がいいのかもしれない。
 "過激”や"きつさ”は政治意識の鋭さからのみ出てくるものではないのだ。
 "日常と死”もやっぱり"政治的な死”と同様に"きつい”のだ。 
 さらに言えば、「東京物語」はある意味で“親殺し”の映画なのかもしれないのだ。
 「青春の殺人者」は一度「東京物語」と同時上映してみるべきなのだ。
 フウ、ちょっと「東京物語」に打ちのめされてまいっている。
 しかし、これ以上小津という優れたホームドラマ作家にのめり込むのはやめにしておこう。
 小津に背を向けて、もっと明確な過激派のゴジについて行くのだ。
 私はプロボクシングのトレーナーとして生きることを選んだ人間なのだ。
 私はゴジサイトのラスタマンなのだ。

 そして13時30分からの「記念シンポジウム『小津映画と家族』」。
 この日、参加予定をしていたドナルド・リチーが急病の為、来れなくなったことが告げられる。
 後の参加者は筑紫哲也、平山秀幸、藤田明の3人である。
 まず筑紫哲也から基調講演がある。
  海外からきれいな女優が来日すると「ニュース・ステーション」に行く。
  しかし監督が来日すると私の方の番組に来る。
  対談相手として映画監督とオーケストラの指揮者が一番興味ある。
  どちらも独裁者であることが許された存在だからだ。
 等、しゃべりを専門とするニュース・キャスターなのだから当然のようにうまかった。
 そして先にあげた3人の対談となった。
 この3人の中で「藤田明という人は誰?」と思っている人が多いだろうが、この人は地元で映画に関する上映会やら行事活動やら文芸評論やらをやっている人である。
 「三重・文学を歩く」という著書もあり朝日新聞三重版では月に1回、「展望・三重の文芸」を執筆している。
 そして私の高校の時の映研の顧問だった先生なのである。
 私が高校3年になった時、藤田先生が転任してきて、映画研究部を作った。
 私はすぐに入部して初代の部長となった。
 雑談ばかりしていたが、文化祭の時には大島渚のデビュー作「愛と希望の街」を上映したりした。
 当時は生意気盛りで職員室で藤田先生と「アラン・ロブ・グリエだのマルグリット・デュラスだのアンチ・ロマンだの」と良く解かってもいないことをカッコつけて話をしていると隣の席で興味深そうに聴いていた当時東京女子大を出たばかりの文芸部の先生に声をかけられて文芸部の文集に映画のことを書くことになった。
 当時からペキンパーやらアルドリッチやらのアクション映画についての駄文なのだが、唯一つ「東宝ハードボイルドアクション」の系譜を書いたのは結構良かったのかなと思っている。
 後、その年は高三ということでさすがに見た映画の本数は少なかったのだが、「キネ旬」とかは結構綿密に読んでいたので「ベストテンを予想する」として書き、ベストワンはバッチリ当てた。
 勿論その年のベストワンは邦画が「青春の殺人者」で洋画が「タクシー・ドライバー」である。
 文芸部の先生からも藤田先生からも興味を持たれていたようで、文芸部の先生からは何度か電話をもらいかなりフランクに話したりした。
 当時としては「大人の頭の良い異性」と電話で長話をするということは、なんだかドキドキした体験だったものだ。
 藤田先生は家にも後には職場にも何度か来てくれたりした。
 実は以前ここに書いた所謂「キネ旬白井佳夫解雇事件」に端を発して出来たミニコミのような雑誌「浪人街通信」(ゴジへのインタビューが載せられた号もある)を貸したのもこの先生だ。
 この先生がやった上映会にもよく足を運んだ。
 ドイツ大使館に協力してもらいフィルムを借りての月1回の無料の上映会は立派な市民ホールを使ってのものだったが字幕が英語ということもあってかいつも入場者は20人いたかいないかだった。
 そこで「最後の人」(24年 F・W・ムルナウ)、「三文オペラ」(31年 G・W・パプスト)、「メトロポリス」(26年 フリッツ・ラング)といった名作を見た。
 ヴィスコンティの「ルードヴィッヒ」なんてのも無料でやったりしていた。
 家に来てくれた時は、貧民街のような住宅での(今も住んでいる)、大正生まれの老いて無学の母親との母子家庭を見られることに屈折したものがあった。
 そういう自分の原点を強さに変換できるようになるまで、随分と長い時間がかかった気がする。
 話は逸れてしまったが、3人の小津をめぐる話の中で何とゴジの話題が出てきたのだ。
 最初は平山秀幸が「小津の映画をどう思うかについては最初の映画の現場の仲間たちと話した。過激な現場の人たちだったので……」と言うと筑紫哲也が話しの腰を折って「最初の現場は誰です?」と聞く。
 平山秀幸が「『青春の殺人者』……あ、長谷川和彦…」と言うと、筑紫哲也は「ああゴジね。」と言って会場の人に簡単にゴジの紹介をした。
 筑紫哲也によると「麻雀仲間で、かつて無頼の日々を(一緒に)過ごしたことがある印象的な男。過去に2本しか作ってないのだけれど、作ると必ずベストワンをとるという変わった男。」だということだ。
 さらに映画監督とオーケストラの指揮者は独裁者であるということの説明の例として「ゴジに『太陽を盗んだ男』でビルの屋上から札束を降らすシーンがあるのだけど、ゴジに『あれは何で降らしたんだ』と聞いたことがあって、その時にゴジは『俺が降らせたいから降らせたんだ』と答えたことがあって……」と話していた。
 小津に関する話では平山秀幸の“男性が中心にある家庭というものが壊れていく様として印象に残る”や藤田先生の“シングルをつらぬいたところで造形できた家族像”とかの意見が興味深かった。
 16時30分からの「小津ファンの交流会」には参加せず、展示部門である「小津安二郎資料展」を見て帰って来た。
 見た映画のタイトル。

 「チェーン・リアクション」(米 96年)

 「ブレイド2」(米 02年)

 「15ミニッツ」(米 01年)

 「ザ・ダイバー」(米 00年)

 「力道山物語 怒涛の男」(日活 55年)

 「アライバル ―侵略者―」(米 96年)

 「ロックンロール・ミシン」(ギャガ・コミュニケーションズ 02年)

 「アイス・エイジ」(02年 米)

 「小さな目撃者」(99年 オランダ 米)

 「スパイ・ゲーム」(01年 米)

 「少林サッカー」(01年 香港)

 「トワイライト」(98年 米 未公開)

 「ドニー・ダーコ」(01年 米)

 「シュレック」(01年 米)

 「初恋のきた道」(99年 米 中国)

 「バーバー」(01年 米)

 「ランダム・ハーツ」(99年 米)

 「ジョンQ−最後の決断−」(02年 米)

 「インソムニア」(02年 米)

 「ミーン・マシーン」(01年 米)

 「宣戦布告」(01年 東映)



[35] ウィークエンド・ラブ 第69回−2 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/06/15(Sun) 01:48  

 「テイラー・オブ・パナマ」(01年 米 アイルランド)
 運河の権利を持つ国パナマに派遣された結構悪党なスパイのピアース・ブロスナン。
 ここの政情の探りを入れる為に政府の要人御用達の仕立て屋ジェフリー・ラッシュに近づく。
 反政府活動の秘密組織との関わりを持つこの仕立て屋の偽情報で国家までが揺るがすような事態になってしまう様をブラックユーモアとして描く。
 勿論ボンドガールとか秘密兵器を期待して見てはいるわけではないが、いくら本格派のスパイものと言ってもこんなにシニカルな視点でドラマを作り上げて、それを“良し”とする感性がわからない。
 ジェフリー・ラッシュをもっと生かしてピーター・ウェアーのオーストラリア時代の力作「危険な年」(82年)のインドネシアの軍事政権にプロテストする為にオペラを流しながら自殺していったリンダ・ハントのような役柄にすることは可能だったのじゃないだろうか?
ピアース・ブロスナンというおちゃらけスパイ映画007の役者を本格派スパイ小説作家ジョン・ル・カレの原作作品に使ったというところに面白味を見ろなんてことをジョン・ブアマンが狙ったなんて考えたくもないのだが……。

 「キャッツ&ドッグス」(01年 米)
 恐竜や宇宙人はCGで動かしてもいいけれど猫や犬までCGで動かすのはいけないという法律が必要だ。
 監督はローレンス・ガターマン。
 
「バウンド」(96年 米)
 出所してきた女泥棒ジーナ・ガーションとマフィアの女ジェニファー・ティリーとレズビアンの仲になる。
 二人で組んで組織の金を盗みだすまでをバイオレンスたっぷりに描き出す。
 緊迫感のあるドラマ展開で引き込まれるのだが、リンチシーンで特殊なハサミで指を1本1本切っていったりとかの場面があり、そういうのがどうにも生理的にダメだった。
  監督はウォッシャウスキー兄弟。

 「処刑人」(99年 米)
 “月に変わっておしおきよ”とばかりに神からの啓示を受けたまるでモデルのようなかっこいい兄弟ショーン・パトリック・フラナリー、ノーマン・リーダスが悪党をバタバタと殺しまくる。
 まるでスプラッター映画のようなのりで作られた作品なのだからめくじら立てる必要はないのかもしれないが、やはり私は真面目な映画ファンなのだ。
 めくじらを立てて“こんなのはダメだ”と言うのだ。
 自分を守る為の暴力ならまだしも神への盲目的信仰心の元に悪人を暴力で裁いて処刑して行くっていうのはどんなに“のり”が面白くても見ていて気分のよいものではない。
 監督はトロイ・ダフィー。

  「世界中がアイ・ラヴ・ユー」(96年 米)
 ニューヨークの四季を背景にマンハッタンに住む裕福な家族の恋やらドタバタをウッディ・アレンが始めてミュージカルで描いたもの。
 出てくる人間は皆“クソッタレ”な連中ばかりだ。
 育ちの良さがコンプレックスでボランティア活動にばかり熱心になり、誕生パーティーに出獄したばかりの元囚人を招待してしまう母親のゴールディ・ホーン。
 リベラルな父親ルーカス・ハースに反発して保守党支持者として対立する息子。
 娘たちの頭の中は“恋愛”しかなく次々と違う男達との恋に落ちて行く。
 精神科医に告白するジュリア・ロバーツを覗き見した娘の助言にしたがって“理想の男”通り振舞うウッディ・アレン。
 そのアレンに「私の理想だわ」と言って夫を捨てて走るジュリア・ロバーツ。
 本当に“クソッタレ”だらけなのだが、その“クソッタレ”がチラチラと可愛く思えたりして来る。
 そして自分もまたそういう“クソッタレ”な要素を持って生きている人間であることを見つめさせてくれて、そういう“クソッタレ”人間たちが愛しく思えて来る。
 この辺がまさにウッディ・アレンの名人芸。
 「ここでこの物語はおしまい。これを映画にしようって提案したらいわくミュージカルにしないとこんなの受けないわよだって」というナレーションににんまり。
 ソフティケーテッドなウッディ・アレンのミュージカルに「そうだよな。人間やってるって色々あるけど、そんなに悪かないのかもしれないなあ」と思わせられた。



[34] ウィークエンド・ラブ 第69回−1 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/06/10(Tue) 23:57  

 5月26日〜6月10日

  「ピンポン」(02年 アスミック・エース)
 松本大洋の原作は、高校卓球部の世界を「スラムダンク」並のスポ根ものに仕上げた傑作だった。
 映画の方も原作をうまくダイジェストしてあることに感心した。
 登場人物の原作とのそっくりさんぶりも凄いしとにかく原作へのリスペクトの精神があふれている。
 幼なじみで近所の卓球場に共に通っていた天真爛漫なペコとクールで神経質なスマイルとの友情がドラマの核としてある。
 しかし、“友情”とかはスポ根ものでは露骨に表面に出て臭くなってしまうことが多いのだが「ピンポン」は二人にとって決して表に出ることのない内面だけのものとしてあることが優れている。
 個人競技でレクリエーション的な要素の強い卓球というスポーツの世界で、天真爛漫と神経質という対象的な二人を使ってそこをさらりとやってしまったことがいいのだ。
 「原作を超えてやる」というような気概は感じられないがそつなく作られていて楽しんで見れる作品となっている。
 CGの使い方も必要なものとして好感が持てた。
 先に見ていた長男の解説によると「スーパーカー」や「ブンブンサテライツ」を使った音楽は最近の通好みのテクノばかりだそうだ。
 監督は曽利文彦。
 
 「男と女」(66年 仏)
 クロード・ルルーシュはヌーヴェル・ヴァーグ派からは無能の監督扱いされていたらしいことをどこかで読んだ記憶がある。
 確かに他愛のないストーリーでCFのように心地良い音と映像の世界は、“カメラ=万年筆理論”等を信奉するような頭でっかちの人からは“中身がない”と攻撃しやすいものなのだろう。
 そういう理論派に惹かれて一時期はルルーシュを批判的に見ていたが、若い頃に比べて“ツッパリ精神”の薄れてきた親父になってくると、結構素直にこの甘く切なく美しく心地良いラブストーリーの世界に浸りたくなってくる。
 レースの後アヌーク・エーメの元へ一晩中車を走らせて駆けつけるジャン=ルイ・トランティニャン……ああ、こんな恋がしてみたかったもんだ。
 そしてルルーシュと言うとどうしても一時期の斎藤耕一を思い出してしまう。
 「旅の重さ」(72年)、「約束」(72年)、「津軽じょんがら節」(73年)と次々と秀作を作っていた頃の斎藤耕一はまさに“日本のクロード・ルルーシュ”だった。
 「男と女」を見ていたら、なんだかひさびさに「約束」も見たくなって来たのだ。

 「ザ・プロフェッショナル」(01年 米 加)
 ジーン・ハックマンをリーダーとする窃盗団が最後の仕事に選んだ金塊強奪劇とその金塊をめぐる裏切り合戦を描いている。
 例えば「ソードフィッシュ」とかやたらド派手な犯罪劇を目にすることが多くなって来たので、この映画の強奪劇は古風に感じた。
 でも返ってそのほうが例えば「地下室のメロディー」とかのフィルム・ノワールを思い出させて心地良かった。
 しかし金塊強奪を命じた連中を交えたの裏切り劇になってくると例えば妻を色仕掛けに使ったりとかが何ともおそまつで品も知恵もなくてガッカリしてしまった。
 監督はデイヴィッド・マメット。

 「インビジブル」(00年 米)
 完成間近の透明人間の実験に自ら人体実験の対象となるケビン・ベーコン。
 透明人間になってしまうと様様な欲望を抑えきれなくなり研究仲間と対立し死闘へとカタストロフィに向かう。
 ポール・ヴァーホーヴェン、結構ゲテモノに徹しているのだがもっともっと下品にもできそうな気もする。
 何しろ“透明人間”なのだ。
 日活ロマンポルノでもエロマンガでも使われた題材なのだ。
 そういう意味で“透明人間”という題材はどんな風に作ってみても物足りなく思わせるのだ。 

 「ロミオ&ジュリエット」(96年 米)
 「ムーラン・ルージュ」を先に見ていたので、同じバズ・ラーマンということで期待して見た。
 この監督は“何を見せるか”ということより“どう見せるか”ということに優れた人だ。
 それゆえにこういう古典を題材に持って来たのは己の資質を知っていてうまいと思わせた。
 しかしこれだけ見せ方に強烈な個性を持っているということはある意味で飽きられやすくもあると思うのだ。
 倉本聡の“間”とか新鮮なうちはとても魅力的だったけれど、いつも使われていると「またか」という気分にさせられる。
 ブライアン・デ・パルマやリドリー・スコットも強烈な独自の映像スタイルで登場した監督なのだが、スタイルの魅力を超えて優れた作品を生み出そうとして苦労している人だと思う。
 バズ・ラーマンが前記の二人のように初期の作品が一番印象に残るということにならない為にはスタイル以上に見せたいサムシングエルスを見つけることが必要だと思える。

 「陽はまた昇る」(02年 東映)
 家庭用VTR戦争でビクターのVHS方式がソニーのベータマックスに大逆転してしまうまでを描く。
定年間近の西田敏行がリストラを迫られながらもそれに反発しビデオ事業部を建て直しVHSを世に送り出す。
 露骨なサクセスストーリーではあるが、作劇がうまく嫌味になってない。
 しかしラストの人文字での“VHS”で退職する西田を送るシーンには気恥ずかしさを感じた。
 監督は今作がデビューの佐々部清。

 「es [エス]」(01年 独)
 心理学の実験で公募で集まった人間を看守役と囚人役に振り分け模擬刑務所の中で過ごさせる。
 次第に看守役は看守に、囚人役は囚人になりきり対立し暴力、殺人へと発展し制御不能の状態にまでエスカレートしてしまう。
 展開は読めていて事実そのようになっていったし、人間の怖さを描けているとは思うのだが、有り体に言ってこんなもの見たくないのだ。
 人間なんてこんなものだと言われて否定もできないのだが、その果てに何があると言うのだろう。
 監督はオリヴァー・ヒルシュビーゲル。

 「突撃ラクガキ愚連隊」(97年 OV)
 風俗ライターの泉谷しげる、哀川翔と客大杉漣の金を奪って逃げた真弓倫子のドラマを中心にそれに関わる悪徳刑事安岡力也やヤクザの親分の宇崎竜童らが織り成す人情アクション劇。
 脚本水谷俊之、監督高橋伴明で気心の知れたメンバーを集めて作った手堅い小品。

「ガタカ」(97年 米)
 遺伝子工学が発達した近未来。
 人間は生まれた瞬間から遺伝子によりその生涯が決定され、惨めな生涯を嫌うものには予め強い遺伝子を使って出生させるというシステムが存在している。
 劣勢の遺伝子を持って生まれたイーサン・ホークが宇宙飛行士を夢見、その夢を可能にする為、事故で下半身不随になったが優秀な遺伝子を持つジュード・ロウになりすます。 
 殺人事件がおき劣勢遺伝子を持つ者としてイーサン・ホークは危機に陥る。
 事件を捜査するのは遺伝子操作により生まれた優秀な弟だ。
 そういう弟との葛藤やら正体がばれそうなる危機やらを切り抜けてイーサン・ホークは宇宙飛行士として飛び立つ。
 遺伝子によって人が差別されるということがまず堪える。
 人種とか思想や宗教とかでなく遺伝子の優劣でなら差別もやむを得ないのかもしれないからだ。
 弱者が切り捨てられ強者のみが生存できる――そのことを哀しいと思う正体はきっと自分の中に弱者を見ているからなのだろう。
 弱者が嫌なら操作によって優秀な遺伝子を持って生まれれば良いという理屈になるのだが、それもまたやりきれない――ええい、うまく言葉が出てこない。
 とにかく色々考えさせてくれる優れたSFだ。
 いっぱい時間をかけて考えて感想を書いてみたくなる作品だ。
 何よりも自分に成りすまし、自分の名を持つというもうひとつ自分イーサン・ホークを守る為に上半身だけで階段を懸命によじ登って行くジュード・ロウの姿に圧倒され感銘を受けた。
 監督はアンドリュー・ニコル。

      ―――つづく―――



[33] 頭脳警察といえば… 投稿者:サイボク 投稿日:2003/06/03(Tue) 02:12  

少し前に下北沢の古本屋に行ったとき、
『PANTA暴走対談』という本がわりと目立つところに置いてあった。
要するにパンタがいろんな人と喋ってる対談集なんだが、
表紙にズラリ並んだ対談相手の名前をよく見てみると、
大勢のミュージシャンに加えて、
塩見孝也・見沢知廉・山本政志・梁石日などの名前もあった。
「なんだか凄そうな本だな〜」と思った。


[32] ウィークエンド・ラブ 第68回−2 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/05/28(Wed) 00:18  

 偽131さんリアクションありがとう。
 『さようなら世界夫人』が重信房子を歌ったものという解釈は雑誌か何かで読んだものだと思うのですが、それが何で誰が書いたものなのか残念ながら記憶にないです。申し訳ない。
 お詫びにもう少しこのアルバムのブックレット等から知りえた興味深いエピソードを書いておきたいと思います。
 ファースト・アルバムが発売禁止になった理由をパンタは『お前が望むなら』という曲の<男が欲しいんだろう俺がそばにいるぜ 誰かと寝たいんだろう俺は男だぜ>とかの詩が決定的原因になったと言っています。
 “革命3部作”の政治性よりもエロティックな表現の方に規制があったのかもしれません。
 『最終指令“自爆せよ”』については「テルアビブを連想させてレコ倫は通らないから、レコードではタイトルは変える」とMCしています。
 パンタのソロ・アルバム『クリスタル・ナハト』に収録されている『オリオン頌歌・第二章』はイスラエルのテルアビブでリッダ空港を襲撃し、100名近くが死傷するという衝撃的な事件を起こした日本赤軍3人の生き残り岡本公三の「我々は死してオリオンの三つ星となろうと思った」というセリフを受けてあの事件、行為の意味にその後もこだわり続けている姿を示したものだということです。
 前回「全共闘指導者らしき人のアジテーション」と書いた「全共闘指導者」とはやはり山本義隆でした。
 東京大学五月祭でのライヴに収録されています。
 パンタは「ワン・ステップ・フェスティヴァル」というオノ・ヨーコをシンボルとするイヴェントを「オノ・ヨーコが嫌いだから」という理由で蹴ったそうです。
 最後にパンタもトシも「頭脳警察」の解散の理由を“パブリック・イメージのプレッシャー”と言っていますが、私はまた彼らはその“パブリック・イメージ”故に何度でも再生できるのだと思っています。
 32歳の頃、人生2回目の蹉跌と言うような時代があり死ぬ気で何かをやらなきゃダメになると思いプロボクシングジムに通い始めた。
 スーツに腕を通すことも寝返りをうつこともつらいような全身筋肉痛の日々で足を引きずりながら職場に通勤していた1990年に「頭脳警察」は再始動はじめた。
 名古屋クラブクアトロで私はほとんど私より年下の若者たちに混じって奴らのライヴを見た。
 エレベーターの横の壁に貼ってあった「腐った卵がいま孵える」とコピーの入ったポスターをガキ共の視線を無視してどうどうと剥いで盗んで帰って来たが、引越しの時に紛失してしまった。
 でもまた奴らは私にポスターを盗む機会を与えてくれそうな気がしてならないのだ。

 見た映画の感想のつづき。 

 「エリン・ブロコビッチ」(00年 米)
 企業の環境汚染訴訟に勝利した蓮っ葉な女性の活躍を描く。
 実在する人物ということでDVDの特典映像にはその人物へのインタビューとかがあるのだが、確かにミスコンに入賞経験しただけののことはあると思わせる長身のかっこいい女性だった。
 ミスコンあがりのスタイル抜群の美女で無職のシングルマザーで蓮っ葉な女が巨大企業相手に活躍する役となりゃあジュリア・ロバーツもミニスカートで胸の谷間を強調した服ばかりでがんばってくれるってものなのだ。
 黙って子供の面倒を見てくれる男の存在も都合の良過ぎて不愉快だったし、何より社会的には立派なことをした女性でも幼い娘が気の毒でしょうがなかった。
 きっと彼女は「普通のお母さんでいてほしかった」と思ってしたはずだ。
 監督はスティーヴン・ソダーバーグ。

 「オースティン・パワーズ ゴールドメンバー」(02年 米)
 ミュージカルシーンは楽しめるのだが下ネタばかりのギャグにはうんざりさせられる。

 「千年女優」(01年 クロックワークス)
「パーフェクト・ブルー」と同じスタッフによるアニメ。
 「パーフェクト・ブルー」は可愛い子ちゃんアイドルが経験する相当エグイドラマだったが、今度は引退した大女優をインタビューしながらその半生を振り返るというものなのに大女優がずっと清純派そのものであることに白けてしまった。
 時代背景を縦横無尽に変えてみても女優に生身の女の人生が希薄で薄っぺらな印象しか残らない。
 大女優へのインタビューということで新藤兼人の「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(75年)の田中絹代を思い出して仕方なかった。
 溝口からの愛を感じていたことを語る田中絹代の生々しい女の感情に圧倒されたのだが、この映画のスタッフも「溝口健二の記録」を見てからこの作品に取り組むべきだったろう。 

「ペイ・フォワード 可能の王国」(00年 米)
 学校の教師ケヴィン・スペイシーが「世界を変えるためにどうする?」という問いに中1のハーレイ・ジョエル・オスメントは「人から受けた善意を3人の人に返すことで伝えて広げていく」というアイデアを出す。
 この善意のねずみ講みたいな話をキーに母子家庭と顔のやけどで人に簡単には心を開かなくなった教師とのふれあいを描く。
 最後は弱い者いじめをするいじめっ子と戦ってナイフに刺されたオスメントが死ぬ。
 彼の提案は一種の“ムーブメント”になっていて多くの人々がロウソクを持って少年の家の回りを取り巻く。
 けちをつけると良識派から叱られそうだ。
 だが、あえて言えばこんな“親切運動”より顔にやけどの跡を持ち深い哲学で閉ざされた世界を気付き上げた教師と奔放な少年の精神的葛藤の方を中心にした方がより面白くなっただろう。
 ヴィスコンティの傑作「家族の肖像」のバート・ランカスターとヘルムート・バーガーの世界のアメリカ版になって興味深かったと思うのだ。
 監督はミミ・レダー……なるほど女性監督なんだ。

 「タイムマシン」(02年 米)
 未来や過去の話よりオープニングの恋人にプロポーズするまでの緊張感や、OKしてもらった時の喜びや、暴漢に殺されてしまった時の哀しみのドラマが結局一番ドキドキした。
 後は過去に見てきたSFをなぞっているだけみたいでなんの新鮮さも感じられないものだった。
 監督はジョン・ローガン。

 「シベリア超特急」(96年)
 こんなのがカルトになっちゃうのかなあ。
 情けなくて言葉もない。

 「ウインドトーカーズ」(02年 米)
ジョン・ウーの作品の中では一番のお気に入りになるかもしれない。
 看護婦からの好意など細かいところでアラはあるけれど、ニコラス・ケイジの熱いものを抱えながらどこかシニカルに行動しているところなどに惹かれてしまった。
 やたらアクションの派手なのばかりで話題になる監督だけど、主人公の人間像がこれほど魅力的に描かれていたのは初めてじゃないだろうか。

 「ナースのお仕事 ザ・ムービー」(02年 東宝)
 TVシリーズが映画化される時、必ずやテレビドラマでは考えられない大きなドラマが展開されることになる。
 「ドラえもん」でも「クレヨンしんちゃん」でも大きなドラマがテレビとは異なった魅力となっている。
 この「ナースのお仕事」もテレビ版は見たことがないのだけど劇場版は期待しながら見た。
 しかしテレビ版がそうであるのだろう、徹底したオバカドラマに徹して一向に大きなドラマがやって来ずに盛り上がらない。
 ドタバタとオバカドラマが繰り広げられる中、なんとかつての入院患者だったウド鈴木が新しくやって来た陰険な婦長根岸季衣に入院をことわられマシンガン銃を持って病院に立てこもってしまう。
 たちまちいかめしい警察に包囲されワイドショーやニュースの実況中継の的にされてしまう。
 そんな周辺の深刻さとは裏腹に病院の中には犯人の誕生パーティーをやったりの相変わらずのドタバタオバカドラマが繰り広げられている。
 蟹江敬三率いるこの警察軍団はいかにも“うざこそう”な連中として描かれておりヨシヨシなのだ。
 やっとやってきた大きなドラマにこちらが期待したことはこうだ。
 犯人と一応人質のナース達の予定調和的なドタバタをある種の平和な共同体として描きその“平和な共同体”を乱す者として警察権力という構図がある――というのを期待したのだ。
 ところが残念フジテレビはそんなやばい図式をとってくれるようなテレビ会社ではなかったのだ。
 話は流れ弾を受けた観月ありさの手術をクライマックスとして一応映画的な盛り上がりは見せるが犯人として逮捕するにはあまりにも可哀想なウド鈴木を何も救わずして終わってしまう。
 たとえオバカ映画であってもそこを抑えておかないことが一番むかついた。
 何はともあれ昔のやさしかった看護婦さんたちがいる世界が忘れられずに入院しようとして断られマシンガンで立てこもっちまったウド鈴木は何らかの形で救っておく必要があったのじゃないだろうか。

 「コレリ大尉のマンドリン」(01年 米)
 時間がないよ〜。

 「ゴースト&ダークネス」(96年 米)
 これも書いているとまた運転や仕事中に居眠りしてしまうよ〜。 



[31] 突然ですが。 投稿者:ゆきさく 投稿日:2003/05/27(Tue) 00:42  

ゲンさんへ。
是枝監督の「ディスタンス」についての意見、とても興味深く読ませてもらいました。でも私はどちらかというと是枝監督の作品は好きな方です。「幻の光」はともかく「ワンダフルライフ」はもっと評価されてもよかったのではと思っております。
で、「ディスタンス」ですが私はキリスト教を信仰していないのにミッション系の大学で聖書を半分馬鹿にしながら学んでいた者なのですが(もう六年も前になりますが)そんな私でさえクリスマス前になるときれいに飾られたチャペルを見てその美しさに言葉を失った記憶があります。
「きれいに飾られたチャペル」と「八ヶ岳山麓の湖上に広がる単に表層的な「美」の世界」とはそれほど違いはないのかもしれませんが、私はたしかにそのとき「きれいに飾られたチャペル」に対して何かしらの心の拠り所を求めたのも事実です。
だから「ディスタンス」に出てきた宗教団体があの美しい湖上周辺に住みついたのも理解できますし、映画が其処へ行くことから始まり其処に火をつけることで終わったのも何となく頷けるのです。

ラスタマンさんとゲンさんのやり取りに勝手に割り込んでしまっ
てすみませんでした。ゲンさんの感想がとても刺激的だったので
ついいろいろと書き込んでしまいました。。。

べあさんへ。遅くなりましたが私が送信したメールへの素早い対応
どうもありがとうございました。


[30] さようなら世界夫人よ 投稿者:偽131 投稿日:2003/05/26(Mon) 21:50  

「ラスタマン日記」、楽しく読ませてもらっています。

「さようなら世界夫人」が「重信房子を歌った」ものというのは初めて聞く説なので面白いと思いました。
どこかでパンタ自身か他の人がそのように語っているのかもしれませんね。
おれは頭脳警察にはあんまり詳しくないので、曲自体は聴いたことがありますが、その辺知りませんでした。
おれも好きな曲です。
でも、歌詞については全然違う解釈をしていました。
ま、優れた表現は受け手の自由な解釈が許されるものだとおれは思っていますので、その辺興味深いです。

もともとはヘルマン・ヘッセの有名な詩で、ヘッセが世界大戦の戦禍による惨状を嘆いて書いたものだというのはどこかで聞いたことがあります。
「ごきげんよう、浮世婦人」とかいうタイトルに訳されたものを読んだ記憶があります。
ただ、頭脳警察があの時代にあの詩を取り上げたことはヘッセの詩に新たな意味を生み出したような気がしておれには興味深かったのです。
70年代初頭の状況を反映して、当時のラジカルだった若者の心情を象徴的に描いているように思えたからです。
当時、新左翼的には圧倒的な後退戦の時代だったと思います。
60年代末の運動の爆発的な高揚が過ぎ去り、「全共闘」というラジカルな大衆の運動体は解体、霧消し、まるで潮が退くように新左翼離れが起こっていたころ。
運動を離れて海外を放浪したり、ヒッピーになったりする元全共闘や元セクトの活動家崩れがごろごろしていた時代。
運動を離れられない一部の若者たちは三里塚辺りを拠点とし、あるいはセクト間の内ゲバが激しさを増していたころ。
現実に打ちのめされ、挫折し、運動に幻滅し、運動から離れた若者が革命の幻想から醒めてしまった心情、そしてまた再生の意思を込めて、かつて革命の熱情の対象だった世界そのものを女性に例えて歌っている歌だとおれは解釈していたのです。
だからこそ、「銃をとれ!」のようなイケイケの歌がある一方で、「さようなら世界夫人」を歌うパンタ、頭脳警察に奥深さを感じていました。
しかし、重信房子というのも面白い解釈ですね。

さて、そのように新左翼的には何をやっても上手くいかなくなった後退戦の最中に、行き詰まりを打破しようとした最もラジカルだった若者たちによって「連合赤軍」は結成されたのです。
あのどん詰まりの時代に起こるべくして起こった事件、ものすごく象徴的ですね。



[29] ウィークエンド・ラブ 第68回−1 投稿者:ラスタマン 投稿日:2003/05/26(Mon) 00:57  

 5月12日〜5月25日」

 ゲンちゃん、『ディスタンス』についての書き込みありがとう。
 梅本洋一を引用しての解説等、昔の新潮文庫の夏の100冊のコピーではないが期待通りの“インテリゲンちゃん”ぶりに感心することしきり。
 特に『リリイ・シュシュのすべて』の「田園風景の中でヘッドホンをしている少年」を「死に関わる問題を審美学でごまかした汚えやり方」と言ってくれたのには感激だった。(『青の炎』は未見。)
 「映画批評のリテラシー」ってやつを感じさせてくれる文章だった。
 これからもゲンちゃんの言葉が読みたくなったらちょくちょく振らさせてもらいますのでよろしく。

 20日、いつも長男に買い与えている雑誌「ミュージック・マガジン」の発売されたばかりの号を長男が持ってきて「これ買わんでええの?」と聞いて来る。
 「どれ」と言ってみると「album pickup」のコーナーに「頭脳警察 LIVE DOCUMENT 1972−1975」というアルバムが紹介されているではないか。
 「頭脳警察」の未発表のライヴ・ディスク8枚組なのだ。
 よくこんな音源が残っていたもんだと驚く。
 確か80年代末だったと思うけれどやはりこの「ミュージック・マガジン」で伝説のロックバンド『裸のラリーズ』のCDの入手方法が載せられたことがあり、忘れていて入手しそこない悔しい思いをした。
 今回はそういう轍は踏むまいと、1万6千円はちょっと痛かったけれど翌日近くのタワーレコードに注文する。
 店の人が「入荷できるかどうかの電話しますね」と言うので「やっぱり手に入り難いものなのかもしれない」と不安でいたが、さらに翌日「入荷可」の電話が入り、無事に24日に手にすることができた。
 CD7枚組・DVD1枚・36Pブックレット・A1ポスターがLPサイズのBOXに入っている。
 内容は、
 1.WAR IS OVER…?日比谷野外音楽堂/1972年8月15日(全11曲)
 2.白樺湖音楽祭/1973年8月4日(全7曲)
 3.俳優座劇場ロックコンサート週間/1973年8月15日(全17曲)
 4.東京大学五月祭/1974年5月26日(全12曲)
 5.TWO STEP CONCERT 日比谷野外音楽堂/1974年8月4日(全13曲)
 6.TOP FORTY STATION 伊那市民会館/1975年7月13日(全16曲)
 7.三ノ輪MOND/1975年8月26日(全17曲)
 8.DVD TOP FORTY STATION 伊那市民会館/1975年7月13日(全6曲)
 CD全7枚のうちの6枚に重信房子を歌った『さよなら世界夫人よ』が収録されておりそれを聞き比べるのも楽しみだ。
 まだ全てを聞いたわけではないが全共闘指導者らしき人のアジテーションありの酔っ払ったような客の怒声やら喧嘩している様子まで伝わってきてまさに生のライヴという感じであの時代の空気に思いを馳せれることが出来るだけでも貴重だった。
 70年代の空気から時代は遠ざかり、その時間の流れの中で多くの失いたくないものを築いてきて、いつのまにかその種の事件の報道を耳にすると被害者を哀れみテロリストを憎むようになっちまったけれどかつては私もテロリストを志した。
 そう、確かに世界を敵にまわしてひとりぼっちで戦う戦士を夢見た時代があった。
 生きることにそつなくなってしまった今になって、もののわかった立派な大人をやってちゃあいかんのだ。
 それが“ゴジイズム”を生きることだと思っている。

 タワレコのポイントカードがいっぱいで3000円の金券として利用できる使用期限が近づいていた。
 マイルス・デイヴィスの「カインド・オブ・ブルー」と「スケッチ・オブ・スペイン」と後「ウォーキン」だったかの3枚がBOXに入って3千円代というお徳なのがあったのでそれを買おうと決めて行ったのだが、売り切れてなかった。
 「椎名林檎は中古店で買えるしなあ。ここでしか手に入れ難いのがいいなあ。」とあれこれ迷ったが久々に『ICE』の「FORMULA 21」を買って来た。
 私らしからぬ聞き心地の良い音楽だけどこの都会的なサウンドが好きでこの「FORMULA21」の前とその前のアルバム以外は全部持っている。
 かつては『ピチカート・ファイブ』や『コーネリアス』と共に一応“渋谷系”ってことで騒がれたりもしたが、ここのところメジャーな音楽シーンでは名前を聞かなくなってしまった。
 とても実力のあるバンドなのでもっと売れてもいいと思う。
 DVDでは今回見た『さすらいのカウボーイ』がよかったので「旅から帰るのではなく、旅に出る映画」の方『イージー・ライダー』が見たくなって中古店で買って来た。
 他に2枚で3,980円という期間限定サービスの対象商品になっていた大好きな『ハスラー』を買った。
 2枚買わなくてはいけないということで職場の友人が『大脱走』が欲しいというので協力してもらって買った。
 
 ボクシングジムには12日、15日、16日、19日、21日、23日と行った。
 次にプロテストを目指す選手達にガンガンとスパーリングをやらせている。

 見た映画の感想。 
 
 「ピストルオペラ」(01年 松竹)
 殺し屋組織のナンバー3野良猫と呼ばれる江角マキコ……とかストーリーを書いていても何の意味もないくらい映像の遊びに徹していて話の方はちっとも盛り上がらないという鈴木清順の惨い作品。

 「さすらいのカウボーイ」(71年 米)
 二十歳で十歳年上の女と結婚した男ピーター・フォンダが妻子を捨て7年間西部をさすらっている。
 川で釣り糸にひっかかった少女の死体を「糸をひっぱったら死体がバラバラになってしまう」と言って糸を切ってやるエピソードから始まる。
 死の影を感じさせるオープニングだ。
 仲間の二人はカリフォルニアに行こうというがピーター・フォンダは「家に帰りたい」という。
 共に行動していた仲間の一人が街で諍いに巻き込まれ殺される。
 「お母ちゃん」と叫んで死ぬ。
「家に帰りたい」と「お母ちゃん」、「家に帰りたい」と「お母ちゃん」……そうだ、アメリカン・ニュー・シネマは男達が弱音を吐く映画群だった。
 ドラッグやロックやセックスもあったけれど男達が弱さを見せ始めた映画群でもあったのだ。
 ニュー・シネマ的世界とは対極の世界の人ジョン・ウェインでさえ1971年の『11人のカウボーイ』ではブルース・ダーンに撃ち殺される役をやってしまう時代にだったのだ。
 強く正義感に満ちた男達がベトナム戦争をおっぱじめたんだ。
 あの頃のスクリーンからはそういうアメリカの呻き声が漏れている。
 残されたピーター・フォンダと相棒のウォーレン・オーツはピーター・フォンダの妻子のいる家に戻る。
 妻は自分達をおいてかってに出て行った夫を許そうとはしない。
 この妻役を演じるヴェルナ・ブルームがいい。
 とてもハリウッド映画のヒロインじゃなくて生活臭さを全身にまとったおばさんなのだ。
 なんとかふたりは使用人として居ることを許される。
 街に行けばヴェルナ・ブルームが使用人と寝る女である噂を聞き妻に問い詰めると何の悪びれもなくこれまで何人かの使用人と寝てきたことを語る。
 それでも妻子を捨てて旅をしていた自分には何も言うことができない。
 この辺の無念さがたまらない。
 泣くな!叫ぶな!怒るな!はしゃぐな!静かに淡々と日々を過ごせ!ここで生きるとはそういうことなのだ。
 そしてそのように生き、妻と再び心がかよい始めた頃、それに気付いた相棒のウォーレン・オーツはひとり旅立つ。
 ところが、“敵”の手に落ちたウォーレン・オーツの指が届けられる。
 友を救出する銃撃戦の中でピーター・フォンダは命を落とす。
 生き残ることのできたウォーレン・オーツがひとりでヴェルナ・ブルームの元へ戻って来る。
 しかしそこで流れていた時間は銃撃戦の高揚を引きづったものじゃなくて、これから始まる淡々とした日常を暗示するものだった。
 おそらくウォーレン・オーツとヴェルナ・ブルームは一緒に暮らして行くのだろう。
 旅をやめて家に帰ること、戦うことをやめて静かに生きること、夢を捨てて淡々と日々をすごすこと……そういう男達を描いてこれは忘れられない作品となった。
この作品は購入したDVDで見たのだが、その中に着いていた『the NEW AMERICAN CINEMA Rivival(1960’s〜1970’s)』という宣伝チラシに中原昌也が面白いことを書いている。
 少し引用してみる。
 <立派な賞を貰おうが何しようが、僕がこうして全然まともな生活が出来ないのは、もしかするとアメリカン・ニューシネマの名作群をTVで子供の頃に見て育ったからかもしれない。物心ついて時から何故か持っていた敗北感と反社会的な考え。それは全部、『バニシング・ポイント』『さすらいのカウボーイ』や『真夜中のカウボーイ』『ガルシアの首』そして『サンダーボルト』などを人格形成前に見てしまったのが原因なような気がしてならないのだ。>
 共感するところが大いにある文章だ。
 そうだ私も『あしたのジョー』や『太陽を盗んだ男』にのめり込まなかったならもっと普通の大人になれていた筈なのだ。
 そして私がこれまできつい時やつらい時にいつも思い返しては戦う力としてきたサム・ペキンパーの『ワイルド・バンチ』と並ぶ超弩級の傑作『ガルシアの首』がついに8月6日にDVDリリースされることもこのチラシで知らされた。
 すでにLDでは持っているのだけど、このDVDもぜひ買いたいものだ。

 「暗くなるまでこの恋を」(69年 仏)
 この「ウィークエンド・ラブ」の第59回で感想を書いた「ポワゾン」(01年 米)と同じ原作ウィリアム・アイリッシュの『暗闇のワルツ』をフランソワ・トリュフォーが映画化したもの。
 「ポワゾン」ではアントニオ・バンデラスとアンジェリーナ・ジョリーがやった役をこの作品ではジャン・ポール・ベルモンドとカトリーヌ・ドヌーヴがやっている。
 ジャン・ポール・ベルモンドが写真と手紙だけでしかしらない女と結婚する。
 しかしその女は船の中で殺され最初から男が大富豪だと知っていた別の女カトリーヌ・ドヌーヴが別の男に命じられて従って成り代わったものだった。
 ドヌーヴは始めは計画的にベルモンドの資産を奪ったりしたがベルモンドの一途な愛に心を奪われて行く。
 ドヌーヴが蓮っ葉な女を演じてもあまりに気品のある美貌なので違和感が残った。
 「昼顔」や「反撥」や「哀しみのトリスターナ」ではその美貌の向こうにあるゾッとするような暗い闇を描いていて秀抜だったがこの作品ではそういう意味ではドヌーヴの起用は失敗している。
 「ポワゾン」では男と女の駆け引きのような関係が強く描かれていたが、この作品では悪女と知りつつも愛してしまった男の純情が強調されているのが「トリュフォーらしいな」と思わせた。

 「スパイダーマン」(02年 米)

 「TOKYO EYES」(98年 仏 日)
改造拳銃を発砲して脅す事件をつづけている武田真治に近づく美容院勤めの少女吉川ひなの。
 ひなのの兄杉本哲太は刑事でちょうどその発砲事件を追っている。
 兄への協力への意味もあって始めたことが武田真治への関心と兄から子供扱いされたことへの反発も加わって武田真治と危険な親密さを深めて行く。
 それでどうなって行くかと思えばどうにもならない。
 ビートたけしが下っ端ヤクザで出てきて改造拳銃で遊んでいるうちに発砲して……吉川ひなののキャラも手伝って登場する人物が見ていて苛苛してくるような奴ばかりで、結局何が言いたいのかさっぱりわからないままに終わってしまった。
 「なんだこりゃ?」でジャン=ピエール・リモザンとかいうフランス人監督作品。

「グラスハウス」(01年 米)
 突然の両親の交通事故死で親戚夫婦に引き取られる姉と弟。
 ところがその夫婦は借金を抱えていて姉弟の資産目当ての為、事故に見せかけて両親を殺した悪者だったのだ。
 最後は直接対決で姉がひき殺して復讐をとげる。
 夫婦も借金でヤクザに脅されている可哀想な人間とも言える。
 それを親の仇だからといってひき殺して終わりというのはどうかと思った。
 アメリカらしい「目には目を」の露骨な復讐ドラマだった。 

 「名探偵コナン ベイカー街の亡霊」(02年 東宝)
 体感シュミレーションゲームで19世紀末のシャーロック・ホームズの活躍するロンドンへ行く。
 残念ながれホームズはバスカーヴィル家に行っていて不在中なのだがモリアティ教授は登場する。
 モリアティが仕掛けた殺人鬼“切り裂きジャック”を逮捕する為にコナンたちが大活躍する。
 「コナン」はテレビシリーズもマンガもちゃんと見たことがないのだが、何だか蝶ネクタイをした格好といいエリート主義志向の強いアニメで嫌ったらしさしか感じられなかった。

 「おこげ」(92年 東京テアトル)
 おこげとはオカマの底にくっついているということでホモに偏見のない女性のことをいうそうだ。
 大島弓子の数ある傑作の中で最も好きな漫画『バナナブレッドのプディング』の三浦衣良を思い出してしまった。
 「世間にうしろめたさを感じている男色家の男性」を理想の男性像とする『バナナブレッドのプディング』三浦衣良とこの映画「おこげ」で育ての父親ガッツ石松に性的対象としての接触されたという恐怖体験を持ち“おこげ”になった清水美沙とは、どちらも『自分のことを性の対象として見てくれない男を求めている』ということで同じキャラクターと言ってよい。
 男性側からは作り出しにくかったこういう女性をこのドラマの主役に持って来たことがまず優れていると思った。
 同棲している村田雄浩と中原丈雄。
 役柄上とはいえ濃厚な接吻シーンやらベッドシーンも男同志でこなしているこの二人の演技にも感心した。
 村田の母親千石規子が長男の嫁との喧嘩で怒り狂って村田のアパートに乗り込んで来て「しばらく居る」というので二人は同棲できなくなる。
 その二人に自分のアパートの一室を提供する清水美沙。
 しかしそこも中原の妻根岸季衣に乗り込まれて男同志の恋人たちは別れざるをえなくなる。
 ことに村田に好意を持つ清水美沙は献身的だ。
 村田が嫌がるお見合いを超タイトの皮のミニスカートで見合い相手の女性に合い、「私の男に手を出すな」と破談させるし、ゲイバーに来る元自衛官の男に片思いと知ると橋渡しをしてやる。
 その橋渡しの過程で清水美沙は何と元自衛官に犯され妊娠、結婚、出産という道をたどってしまう。
 しかし元自衛官はバクチ好きでサラ金から追われる始末。
 村田は自分がホモであることから鬱病になってしまった母親千石規子を献身的に死ぬまで面倒を見る。
 そういう長い試練の時間が流れた後の清水美砂と村田推浩が再会するシーンの素晴らしいこと。
 子供を抱えた清水美沙が夫の借金の取り立てのヤクザに襲われている。
 そこへ、ひさびさに顔をだした村田とゲンバーで働くオカマたちが通りがかる。
 清水を救うべく単身ヤクザ二人と立ち回る村田。
 その弱っちいくせにヤクザに懸命に立ち向かっている姿にうたれ、見ていたオカマたちは加勢する。
 どしゃぶりの雨の中でオカマたちが戦う。
 着けまつげを雨に流しながらオカマパンチにオカマキックだ。
 ひとりぼっちじゃたいしたことのない奴らばかりだが大勢でかかれば二人ばかりのやくざぐらい退散させれるのだ.
 「いやだ、お化粧がとれてお店にでられない」とかオカマ達が言っているなかで清水美砂と村田雄浩は感動の再会をするのだ。
 そして二人は一緒に生きて行く決心をする。
 そこには確かに男女の性とか肉体とかを越えてしまった愛があったように見えた。
 この作品は多くの裸が登場する。
 元自衛官に犯されるシーンでの清水美沙のヌードはこの映画を見せる売りにもなっているが、他に村田雄浩と中原丈雄の男の恋人同志の裸、村田がホモであることを隠して破談にした元見合い相手の女性が復讐のように村田を挑発して見せる官能的な裸から清水美沙の赤ん坊のオムツを取り替えるシーンの裸、そして療養施設での浴場での村田の母親千石規子の裸、その裸の千石の老女の裸にもドキリとさせられたが、その老女である母親を献身的に身体を洗ってやろうとする村田の姿にもドキリとさせられ直後に胸を打たれた気分にさせられた。
 裸の人間にとって大事なものって何なんだろう?多少臭い言い方ではあるがそんなことをしみじみと考えさせられた。
 中島丈博の快作だ。
 そして私にとって中島丈博はふたつのことで忘れられない人だ。
 ひとつは1974年の傑作『祭りの準備』のライターであること。
 南国土佐の村社会的人間関係の中でシナリオライターを目指して東京へ旅立って行く主人公のドラマは当時、邦画に本格的にのめり込み始めた高校生にとって忘れられない傑作だった。
 4年前に死んだ友人――唯一高校時代で映画についてまともに話せる奴だった――とよくこの映画の1シーンの真似をした。
 それは殺人犯になって行く原田芳雄が江藤淳にする挨拶だ。
 原田芳雄は江藤淳に近づいていきなり江藤淳の股間に手をあて「どう、最近、チン○立ててる?」と挨拶代わりに聞くのだ。
 それをやられると江藤淳は飛びのいて「としちゃん、よしてよ!」と言っていた。
 これを私達は二人で挨拶代わりにやったりした。
 それは『祭りの準備』なんて映画を愛せる仲間であることの確認でもあった。
 そういえばゴジがホンを書いた『青春の蹉跌』にも似たようなシーンがあった。
 アメフト部の二人があうと右肩をゴツゴツとぶつけ合い次に左肩をゴツゴツ、頭をゴツゴツ、そして腰に手を回して股間をあわせながら喘ぎに似た声を出していた。
 そう中島丈博で忘れられないふたつめのこととは私に始めてゴジを紹介してくれた人だということだ。
 1976年10月下旬号の『青春の殺人者』の特集の中でまずこの中島丈博が「熱気あふれる『青春の殺人者』伊豆・下田ロケ訪問」で興味深くゴジのことを書いてくれたのだ。
 とにかくこの時のゴジの紹介の仕方が強烈で多感な高校生は一発でこいつは凄い奴が出てきたと取り付かれてしまったのだ。
 これは本当に面白いのでいつか機会があったらぜひ紹介したいと思っている。

 ―――つづく―――



[28] ディスタンス 投稿者:ゲン 投稿日:2003/05/18(Sun) 20:24  

話の筋としては、カルト教団の加害者家族が、加害者達が自殺した富士山麓の湖畔に赴き、そこで元信者(浅野忠信)と遭遇し、一夜を共にする。加害者達の過去がカットバックで挿入されながら、ラストでARATAの正体が実は教祖の息子だったということがわかって……というようなものだったと記憶しています。(捏造の可能性あり)

是枝の映画は『幻の光』といい『ワンダフル・ライフ』といい、面白いと思ったものはなく、基本的に期待もしていないのですが、特に『ディスタンス』は、役者が活かされていない、緊張感の欠いた茶番劇を延々と映しだったタイクツな映画だったように思います。非常にシリアスな素材をぞんざいに投げ出した感じがしてかなり憤怒しました。

印象的に覚えているのは、キャラクター達が皆コミュニケーションを始めるきっかけとしてタバコを吸うところです。まず自分の咥えたタバコに火をつけ、そして相手のタバコにも火をつけ、そして喋り出すという流れが何回か続いて「もっとなんかアイデア出せ〜」と妙にイライラしたことを不快感と共に覚えています。

梅本洋一が『ディスタンス』に対してこんなことを言っています。
≪……多くの人の死に関わる問題を、審美学の側に解消することは、かつてミシェル・フーコーが懐古趣味的なフィルムの流行に対して、審美学の過剰はファシズムにつながるのだと警鐘を鳴らしたことがあったが、八ヶ岳山麓の湖上に広がる単に表層的な「美」の世界を造形することは、リヴェットが「卑劣」と呼び、フーコーが「ファシズム」の兆候を呼ぶものと寸分違わぬものであることはまちがいない。≫

因みにですが、『リリイ・シュシュのすべて』で、岩井俊二が何度も露骨に映し出していた「田園風景の中でヘッドホンをしている少年」というイメージや、『青の炎』における「水槽の中の少年」というイメージにも、これと同じような問題を、僕は感じずにはいられません。また、それは「イメージのナルシシズム」とも言うべきものであると思います。


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