誰でも日記過去ログ
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ウィークエンド・ラブ 第67回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/05/14(Wed) 01:07
4月30日〜5月11日
5月2日。
有給休暇を取り愚妻と行動する。
愚妻の念願であった赤塚植物園に行く。
「うつくしい」という価値の意義って何なのだろうと考える。
広辞苑で「美」とひくと――
知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。「快」が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。
――とある。
ということは「蓼食う虫も好き好き」というのは「美」に関しては少ないはずであるように思えてくるのだが・・・・・・良く解からん。
外食して一度帰宅し、「どじはうす」というライヴハウスにもなるジャズ喫茶に行く。
お客さんは私たちおじさんおばさん夫婦二人だけで、それまで庭の草むしりをしていたママさんが「草むしりで手が痒い」と言いながらコーヒーを出してくれ、気さくに話かけてくれる。
若い頃は力んで隣町のジャズ喫茶によく行って気難しい顔をしてわかったような態度で長時間椅子に座っていたけれど、本当は何も解かってなかった気がする。
腹の出たオッサンになって何だかゆっくりジャズを楽しめるようになって来たようだ。
ママさんが「どじはうす」の音響設備のこと等について説明してくれる。
「ジャズは映画から好きになった。ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』のマイルス・デイヴィスは先日買ったのだけど、ロジェ・ヴァディムの『大運河』に使われていたMJQも聞きなおしてみたい。」というとママさんは「多分これだと思う」と言ってMJQのレコードを出して来てくれた。
「あと印象的だったのが大好きなポーランド映画でイエジー・カワレロウィッチの『夜行列車』で使われたジャズもよかった」と言ったがこれは解からなかったようだ。
後で調べるとA・ショーの“ムーン・レイ”を編曲したものだとわかった。
「何かリクエストして下さい。」と言うので、新聞でニーナ・シモンの訃報を読んでいたので、「ニーナ・シモンの曲を何か」とリクエストした。
そのママさんを5月8日の朝日新聞の朝刊のこの地方のページで見る。
市民会館で11日で開かれる日野皓正のコンサートの前売りの売れ行きが少なくて「日本一のトランペッターが来るのに恥ずかしい」と気をもんでいるという記事だった。
行ってみたいなと思ったけれどS席7000円、A席6000円を二人で行くのは給料前の低所得サラリーマンにはちょっと辛くて行かなかった。
「名古屋ブルーノート」も気になっているのだけど、まずは地元のこの「どじはうす」でのライヴをいつか行ってみようと考えた。
5月3日。
ポートメッセナゴヤのマンモスフリーマーケットへ行く。
マンモスフリーマーケットは年に4回ぐらい開催されるその名の通りの日本最大規模のフリーマーケットだ。
毎回大勢の人で賑わうのだが、中でもこの5月の連休に行われる時は毎年すごい人出となる。
今回も高速の料金所手前から渋滞というありさまだった。
5月4日。
名古屋市公会堂でボクシング、セミファイナル、ライト・フライ級6回戦を戦う。
この日の興行の主催は一応元世界チャンピオンが会長を勤めるHaジムとなっているが、実質的にはToジムが主役の興行だった。
ポスターにもプログラムの表紙もToジムの5人の選手の写真だけが載せられている。
中央には以前うちの刺青野郎と熱戦を繰り広げ2−0の僅差で勝利したエリートボクサーSa選手がメインイベンターとして大きく使われている。
これは、先日日本ランカーに勝ち全日本フェザー級10位にランクインされたSaの凱旋興行なのだ。
2ラウンドにダウンを奪われその後ジリジリを追い上げて逆転するかと思われるような熱戦をした刺青野郎の対戦相手はついに日本ランカーにまで上がってきたのだ。
その名勝負の後サッパリ勝てなくなってしまった刺青野郎と対照的な日本ランカーの姿をポスターで苦々しく見た。
刺青野郎もこれぐらいの力を持っていたはずなのだ・・・・・・。
この日セミファイナルを戦ったうちの選手はかつて「ガチンコ」最強の男箕浦と戦い引き分けたKiだ。
そして対戦相手は実質主催ジムであるToジムのYaという選手だ。
Ya選手も中部の新人王トーナメント戦で箕浦に2−1で敗れている選手だ。
しかし、あの試合は多くの人がYaの勝ちだったと言う判定に疑問の残る試合だった。
「Yaは強い!」という評判があちこちから聞こえて来ていた。
Kiは目の手術で長いブランクがあり再起してからは2勝2分けでその2分けも内容的には明らかに勝っていたと思われるものだったのだが、今度ばかりは危ないかもしれないと思わせられた。
YaはKiよりも低い身長で見るからにガッシリしていた。
そしてその体格どうり足を使うことはせず打ちに来る相手を待って来たら強打を浴びせるというものだった。
Kiもボクサーのスタイルとしてはファイターだ。
早いコンビネーションを武器に積極的に接近戦を仕掛けて行く。
試合はファイター同士の戦いとしてかみあった。
パンパンパンとKiの早いコンビネーションの直後にYaのヴァ−ンという豪快な左フックが炸裂する。
その一発でKiは吹っ飛んだ。
予想以上に強いパンチだ。
1ラウンドは相手のYa選手にポイントを持っていかれたように思えた。
しかし手数ではKiは圧倒していた。
2ラウンド以降もKiは臆せず積極的に攻め立てた。
Kiの回転の速い連打コンビネーションとYaの強打での激しい打ち合いが続いたが、徐々にKiが連打で優位に立つ場面が増えていった。
しかし相手も一発があるので一瞬たりとも気の抜けない激しいファイトになった。
4ラウンドが終了し、1ラウンドのポイントは取り返せたかなと思うときに会長は「次のラウンドは距離をとってみよう」と指示を出した。
その指示通りにKiは足を使い左を丁寧に突いて行くアウトボクシングをし始めた。
本来Kiはアウトボクサーではないのだが、それでもこの豪腕の足を止めての打ち合いには滅法強い相手よりは器用にアウトボクシングがこなせた。
会長の作戦は的中し、5ラウンドはKiの軽いジャブのヒットだけが目立つ確実にポイントは採ったというラウンドになった。
この対戦相手の戦績は7戦4勝3敗で4勝のうち3つがKO勝ちだ。
負けの3敗もKO負けはなく全て判定でやられたものだ。
打ち合いには滅法強いがアウトボクシングをされるとやられてしまうというタイプだ。
最終6ラウンドのゴングが鳴りグローヴをあわせた直後Yaは猛然と前へ出てラッシュしてきた。
その突進力は圧倒的で下手なアウトボクサーなら一気にもっていかれそうな勢いだった。
足で裁ききるのは無理だと判断したKiは何と足を止めて正面から迎え撃つ。
始めこそYaの勢いに押されたものの、その後からはKiの早い連打が冴えまくる。
力こそ劣るものの接近戦の名手Kiはショートパンチを連打しながら微妙にポジションをずらしてコンビネーションをたたみかけていった。
何度かヒットした右のボディブローも効き始めたようで、Yaは後退し始めこちらは押せ押せムードになって来た。
試合終了のゴングがなり私たちセコンドがリングに駆け上がる。
出された椅子を拒否してKiは勝利を確信したように判定を立ったまま待った。
相手コーナーを見るとYa選手は椅子に座り大きく肩で息をしていた。
判定は3者共1ポイント差のKiの3−0の勝利だった。
会長は「ええ判定や」と言ったが私には2ポイント差はあったように見えた。
やはり相手選手のジムの実質主催興行ということかもしれない。
しかし挨拶に来たYa選手はとてもさわやかで納得したという満足そうな表情に見えた。
恐らく正面からのどつきあいの勝負をしてくれたことから来る表情だったのだと思う。
足を使ってポイントアウトされるとどうしても「打ち合ってくれていたら」という思いがファイターの敗北の時には残る。
この試合はそういうフラストレーションの残らないファイター同士のバチバチのファイトだったのだ。
控え室に戻るとすぐにKiは「凄いパンチやった。アバラ2本やられたかと思った。」と言った。
そんな相手にこの非力なボクサーは正面から打ち合って勝利してしまったのだ。
前にも書いたようにこのKiはボクサーとしては線が細くとりたてて優れたところのない選手だ。
刺青野郎のような豪腕パンチもなければMaのような反射神経もない。
ただ誰よりもよく練習をして来た。
そしていぶし銀のような接近戦のテクニックを身につけたのだ。
今回のファイトはKiのベストファイトであり絶賛してよい内容だと思う。
私たちはKiのバンテージだけ切ると勝利の余韻に浸る間もなくメインの青コーナー近くのリングサイドを陣取った。
勿論メインは日本ランカーのSaなのだが対戦相手のOジムのMoはうちのジムで練習をしていた選手なのだ。
当初ランカーSaの対戦相手にMoの名前が載っているのに私はビックリしてしまった。
もう引退したと思っていたからだ。
調べて見ると2000年10月から試合をしていないのだ。
通常日本ランカー入りしたりしての凱旋興行には、必ず勝てる無難な相手を用意する。
これまではフィリピン人が多く使われたが、試合後不法労働者滞在する事件が発覚してタイ人が使われることが多くなった。
ただ、タイ人はそういう意味での人材がまだわかりにくいところがあり今回そういう意味でこの地方で10回戦がやれもっとも危険性の少ない相手としてMoが選ばれたということなのだ。
Moのこれまでの戦績は27戦して9勝14敗4分というパッとしないものだ。
KO勝ちは2つしかない・・・・・・しかしこの選手の戦歴はある意味うちのMaとよく似ていて全て敵地で強豪ばかりと戦って来た結果であることを知る者は少ない。
Moが負けた相手には元世界チャンピオンの井岡弘樹や現OPBFチャンピオンの中野博なんて名前もある。
だから戦績どおりの実力だと思ったら大火傷をするぐらいの実力者だと私は思っていた。
96年にはうちのMaといっしょに中部の新人王を採り九州へ一緒行った。
スキンヘッズで戦っていたMoはひどい出血でドクターチェックを受け何とかストップを逃れたと思ったらそこから猛ラッシュをしかけ逆転KO勝ちをしてしまうという感動的なファイトをやってのけたのだ。
その頃スパーリングパートナーがいないからと言ってうちのジムに菓子折りを持ってやって来て刺青野郎や当時いた沖縄出身の選手らと熱いスパーリングをやっていったのだった。
とても礼儀正しくボクシングをやるようなタイプには見えない若者だった。
会長が「Moはどんな相手でもどこの会場でも試合を断ったことがない」と言っていた。
この試合が決まったことを知った時、会長はMoがうちのジムの近くで働いていることを調べよかったらうちのジムで練習したらと誘ったのだった。
結局時間帯や曜日の関係で私はジムで2度ほどしかMoと顔を合わせることがなかったが、介護士の仕事をしていてなかなか練習する時間がとれないと相変わらず礼儀正しく話してくれた。
サンドバッグを打つパンチも迫力に乏しくさすがに今度の試合は厳しいのではないかと思わせた。
そんなこともあって私たちは“露骨なかませ犬”Moを応援すべく青コーナー側のリングサイドを陣取ったのだった。
そしてそれから10ラウンドの間、私たちはリングの上に視線をくぎ付けにされてしまうことになった。
かませ犬が日本ランカーを翻弄しまくったのだ。
とにかくMoの動きは柔らかい。
鋭い右のロングストレートを持つSaが“剛”のボクシングだとすれば、明らかにMoのは“柔”のボクシングだ。
“柔”のボクシングは有名な選手で言えばマイク・マッカラムでありパーネル・ウィテカーであった。
それは相手の選手を下手に見せてしまうボクシングでもある。
MoはSaの強打を必要最小限の動きで全く平凡で怖さのないパンチへと変えて見せていた。
特に外から飛んで来る右ストレートを左腕を上に上げ肩近くの腕を打たせる技術には感心した。
ドンドンあせって来るSaがまるで4回戦のデビュー戦のボクサー並に見えて来た。
Saが下手なのではない。Moがうまいのだ。
途中バッティングでSaがカットしたのでMoから減点がとられた。
打つ時に脳天を向けるように頭を下げるのはSaの悪いくせで刺青野郎の時もこれに苛つかされたが自分のせいでカットして相手から減点とはつくづくおかしな話だ。
それとSaのパンチはブロックの上を叩かされパーンという快音をさせることがありh、観客はいい反応をしていたがちゃんと見ていると何のダメージもないパンチであったことははっきりしたいた。
Saは顔が真っ赤になりあせればあせるほどMoの技に飲み込まれていくような状態になっていった。
後半はMoがロングアッパーなんて技で攻め、勝利は決定的に見えた。
ところが判定を聞いて驚いた。
三者三様でドローなのだ。
いくら凱旋興行とはいえこんなひどい判定にはあきれ返ってしまった。
確か2,3ヶ月前のボクシングマガジンで名古屋の判定のひどさについて厳しい苦言が書かれていたにも関わらず一向に変わっていない。
ブーイングをしていてリング上を見るとMoはそれほど悔しそうでもなく飄々とお辞儀をしていた。
それもまたMoらしかった。
Moはこうやっていつも敵地でその興行を主催するジムの期待のエリートの選手と戦い黒星を先行させてきたのだ。
しかし現場で見ていた私たちの中では2003年5月4日名古屋市公会堂で行われたボクシングのメインイベントは2年以上も試合をしていない引退同然のベテランボクサーが日本ランカーになったばかりの若くて生きのいいエリートボクサーを翻弄しきった試合として記憶に残るのだ。
私は同じ青コーナー控え室へと引き上げていくMoに「いい試合だった。完全におまえの勝ちだよ。」と言った。
Moはにっこり笑ってグローブの着いた手を上げた。
帰りの車の中で試合内容がよかったこともあって会長はいつになく上機嫌だった。
そして今年のうちのジムの興行はKiの地元である県庁所在地の市体育館でやる可能性が高まってきた。
Kiの対戦相手候補は勿論「ガチンコ」最強の男箕浦とのリマッチ決着戦である。
5月5日。
1階の和室の整理かたづけをするが未だコンプリートできないボトルキャップのリストを作りながらやっていたら一日では整理しきれなかった。
5月6日。
行き付けのレンタルビデオへ行く。
サイボクさんが薦めてくれた『ごめん』を探して見るが見つけられなかった。
今度他の店をあたって置いてあったら借りて感想を書けるようにしたいと思う。
見た映画。
「スコーピオン」(01年 米)
プレスリーのそっくりさんたちに扮してカジノを襲撃する強盗団の犯罪映画。
ケビン・コスナーというクソ野郎が出ているが結構楽しめるB級アクション。
監督はデミアン・リヒテンスタイン。
「DISTANCE/ディスタンス」(01年 「ディスタンス」製作委員会)
無差別殺人を犯したカルト集団という明らかにオウムを思わせる犯人たちの家族という言わば加害者でも被害者でもない微妙なポジションに位置する人々がひょうなことから合宿生活することになるドラマ。
青山真冶を彷彿とさせる是枝裕和の演出は真摯で厳粛である雰囲気だけは伝わってくるドラマだったのだけど理解力のないこちらとしては何が言いたいのかさっぱりわからないままで終わってしまった。
ええい、こんな難解な映画はゲンちゃんにまかせてしまおう。
「タイタンズを忘れない」(00年 米)
人種問題が未だはびこる学園で熱血の指導者デンゼル・ワシントンが人種問題何するものぞの精神で白黒混成フットボールチームを優勝に導く感動のドラマ。
こういう単純なスポコン物は大好きなのだけれど、この作品に関しては人種問題というより立派なお題目があってそれが単細胞な人間には夾雑物に思えてしかたなかった。
さらに言うならボクシングに真剣に関わっている人間にとっては黒人は優秀な身体能力を持った人種として羨望こそあるのだ。
社会派の立場を意識するから人種問題になるのであって純粋スポーツドラマにすればそれは不必要なものだ。
監督はボアズ・イェーキン。
「マジェスティック」(01年 米)」
1951年。ハリウッドの脚本家ジム・キャリーが赤狩りで共産主義者の疑いを持たれてしまう。
失意の中、交通事故で川に落ちローソンという町に流れ着く。
記憶喪失のままその町の戦死したと思われていた英雄にされ自身もそう思い込み街の映画館を再開させたりの活躍をする。
記憶を取り戻した時、非米活動委員会にかぎつけられ法廷に立たされることになる。
自分が成りすますことになった戦死したローソンの街の英雄のことを考えこの非米活動委員会の非人道的なやり方を真正面から批判して真の英雄扱いを受けることになる。
赤狩りの時代のハリウッドを描いていてとても興味深かった。
しかし、“赤”の疑いを持たれたが実際にはそうでなかったという男の立派な説教で何が救えたのだろうという違和感も残った。
この監督フランク・ダラボンの「ショーシャンクの空に」は本当に好きな作品なのだけど、「グリーンマイル」とこの作品へとつづいてそのヒューマニズムが結構安直なものに思えて素直に感動できなくなっている。
こんな安直なヒューマニズムに走るのではなく、例えばエリア・カザンととことん酒飲んで腹割って殴りあい寸前の論争をやって・・・・・・というようにもっともっと屈折した思いをあの時代に抱かざるを得ない人間とつきあうことから初めてみる必要があったと思う。
それをやったとは到底思えない浅いドラマではあった。
「コヨーテ・アグリー」(00年 米)
シンガー・ソング・ライターを目指してニューヨークに出てきた女性がひょんなことからクラブ・バー“コヨーテ・アグリー”で働くことになる。
そこは色々な夢を持った女性バーテンダー達がカウンターの上でセクシーに踊りながら客をエキサイトさせるという強烈なバーでそういう場で活躍やら事件やらを経験し、やがてシンガーソングライターのオーディションに向かう勇気を得ていく。
ま、同じスタッフがらみだからか「フラッシュダンス」を思わせる青春ドラマだ。
こういうのを見ると単純に元気になってしまうのだが、「フラッシュダンス」のが良かったなあ。
監督はデヴィッド・マクナリー。
「天使のくれた時間」(00年 米)
大金持ちのニコラス・ケイジがふとしたことで別の貧しくとも家族愛にめぐまれた人生を経験し、もとの大金持ちに戻ってもそういう生き方に変えようとするドラマ。
教訓的なのは苦手だ。
監督はブラット・ラトナー。
「COWBOY BEBOP 天国の扉」(01年 SPE)
テレビアニメの時の方が面白い。
「ブリジット・ジョーンズの日記」(01年 米)
30台独身女性の本音のようなものを描いたものなのだろうが、男からの愛され方が結構ご都合主義的であるし、この女性にそれだけの魅力が感じられないのでダメだった。
「努力しないでシンデレラを夢見るのはダメだろう」って言ったら女性からクレーム来るだろうか?
監督はシャロン・マグアイア。
「クロコダイルの涙」(98年 英)
ジュード・ロウが吸血鬼になるのだが、妖しさでは「ハンガー」のデヴィッド・ボウイと勝負できそうだ。
監督はレオン・ポーチ。
「ノー・マンズ・ランド」(01年 仏 伊 ベルギー 英 スロヴェニア)
評価の高い反戦映画ではあるし、実際よくできた話だと思うのだが、反戦=良識派=名画=優等生みたいな構図を嫌うという不良のプライドが頭にこびりついてしまったひねくれ親父には素直に見ることができなかった。
監督はダニス・タノヴィッチ。
「ザ・スカルズ/髑髏(ドクロ)の誓い」(00年 米)
エリートで固めた秘密結社に入会できて喜ぶがやがて組織の偽善に気づいて戦うことになるドラマ。
結構B級のゲテモノなのだがこれはこれで楽しめた。
監督は、ロブ・コーエン。
「バーチュオシティ」(95年 米)
バーチャル・リアリティの世界から現実にはみ出してきた犯罪者との戦いを描くSF。
何だかCGばかりの映像を見せられてゲンナリ。
監督はブレッド・レナード。
「ザ・ワン」(01年 米)
パラレル・ワールドに125あるもう一人の自分を抹殺し“ザ・ワン”になろうとするジェット・リーのSFアクション。
このワイヤーアクションとメトロノームを使ったような一定のテンポの格闘アクションは見ていて苛苛する。
こんなもんは格闘じゃなくて体操だ。
監督はジェームズ・ウォン。
「アメリカン・ゲリラ・イン・フィリピン」(50年 米 未公開)
フリッツ・ラングの戦争映画である。
日本軍人が極悪人間に描かれている。
「すべての美しい馬」(00年 米)
マット・デイモンがカウボーイとして旅に出るという夢を実行し色々なことを経験し成長していくドラマ。
「ザ・ビーチ」と同じような話なのだが、楽園のような島でなくカウボーイとしてメキシコを目指したということで志を良しとしたいのだ。
監督はビリー・ボブ・ソーントン。
「スコーピオン・キング」(02年 米)
主演のザ・ロックはアメリカン・プロレスの大スターなのだが、動きが結構ショボかった。
監督はチャック・ラッセル。
「ぼくの神さま」(01年 米)
子役を使っての反戦映画を誉めたくはないのだが、見ている時は自身をキリストと思い込んでしまった一番年少の少年がそうでないにも関わらずキリストと思い込んでいるゆえにユダヤ人だと言い張り、ナチの収容所行きの列車に乗せられて行くシーンは胸に来た。
しかし見終わって考えると戦争の対立概念として宗教があると描いていることはどうなんだという疑問が湧いてくる。
監督はユレク・ボガエヴィッチ。
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暑かったり涼しかったりする日々
投稿者:
サイボク
投稿日:2003/05/05(Mon) 02:55
件の番組、他人様に勧めたので自分でも観てみた。
妙に印象に残ったのは、笠原氏が生前語っていたという言葉。
「脚本家でもカツドウ屋でもなく、死ぬときは“海軍二等兵曹・笠原和夫”なんだ」
細かくは覚えてないが、だいたいそういう意味の言葉だった。
氏のように戦後大きな仕事を成し遂げた人がそうなんだったら、普通の人は余計にそういうことを思うのかなあ? と、ふと考えてしまった。
ところで、下のラスタマンさんの日記の中に、「じっくり感想を書きたかった作品」として『ハッシュ!』『害虫』『非・バランス』などが挙げられている。
『ハッシュ!』と『害虫』は私も観た。かなり記憶に残っている。『非・バランス』は未見だが、同じ監督の『ごめん』は良かった。ラスタマンさんにも観ていただきたい(ビデオもDVDも出ているようだし)。この作品に関しては、成人男性の感想をいろいろ聞いてみたい。単なる興味本位だが。
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お知らせを含んだ独り言
投稿者:
サイボク
投稿日:2003/05/02(Fri) 03:03
最近、東映の昔の映画がちょっとだけマイブーム。(マイブームって言葉ももう古いのかも知れないが、まあいいや。みうらじゅんの造語は好きだ。)
で、ドタバタアクションとか笑える系のものを中心に観てる。でもそろそろバシッとしたのも観るかな。ちょうど深作氏や笠原氏の特集上映やってるし。
でも、戦争の影が濃いシリアスな映画は苦手。今のところ避けている。自分の身近に、戦争で酷く屈折した人が居るので、観ると必要以上に暗くなりそうな気がして嫌だ〜。まあ、ならないかもしれないけど。
そういえば、今度の土曜日(3日)、夜10時からNHK教育で「『仁義なき戦い』を作った男たち」というドキュメンタリー番組が放送されるらしい。どんな切り口になってるかは謎。面白いかどうかも謎。
でもまあ、『仁義』や上記の二氏が好きな方はご覧になってみては?
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ウィークエンド・ラブ 第66回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/04/30(Wed) 01:13
4月14日〜4月29日
4月6日富山市総合体育館でのメイン、ウェルター級10回戦に敗れたMaが14日の練習に来ていた。
早くも次の試合のオファーがあり受けたという。
気になっていた引退という心配はひとまずなくなったようだ。
しかし手の親指の付け根の部分が妙な骨折をしているらしく入院が必要なのだそうだ。
そのためか16日以降の練習では姿をみることがない。
練習を充分にやり込むことは厳しそうだが日本ランカーにまでなった選手には確かに試合をコンスタントにこなして行くことも必要なのだろう。
5月4日にライトフライ級6回戦を戦うKiの激しいスパーリングが続いている。
目の手術で長く試合をしてなかったが、その間もジムに練習に来ていた真面目な選手だ。
元々線が細く非力なところがあるのでボクサーには向いていないところもあるのだが、それを補う練習量でテクニックを身に着けていった。
再起してから4戦して2勝2分けと負けないボクシングを続けている。
接近戦での右のアッパーは抜群のものを持っているので今度の試合でも何とかその武器を生かしてほしいものだ。
20日の日曜と26日の土曜、結構な時間をパソコンの前に座ってこの「ウィークエンド・ラブ」を書かねばと思いながらもフラフラとネット・サーフィンばかりしていて結局書けなかった。
ちょっとスランプだ。
27日、オタク仲間の友人とポートメッセ名古屋の催物「ナゴヤトイズパラダイス3」へ行く。
またしてもガシャガシャというカプセルトイやら食玩やらボトルキャップやらチョロQを買い込む。
映画のポスターばかり売っていたブースがひとつあってゆっくり見たかったのだが、高そうだしアニメ中心のようだったのでチェックしなかった。
「女囚さそり・けもの部屋」のポスターが欲しくって仕方ない。
1階の和室に放り込んで置いてあるこうしたオモチャが増えすぎたので愚妻から連休中に片付けろと厳しいお達しがでた。
勿論従わねばならないのだが・・・・・・フウ。
「トイパラ」を早目に切り上げて帰宅して午後4時から4年前に死んだ友人の家を他の友人3人とで訪問した。
友人のNが死んだ時、残された女の子は幼稚園の年長さんだったのだが、小学3年生になっていた。
あたりまえのことだが・・・・・・それでも成長した少女の姿は感慨深いものがあった。
遊びに来る娘さんの友達が仏壇に飾ってある写真を見て「誰?」と聞き教えると「何で死んだん?」と聞いて来ることがあると残されたNの奥さんが言っていた。
2時間くらい仏間で死んだNの奥さんを交えて世間話をした。
去年まではビールが出たが、今年は飲酒運転の罰則が厳しくなったということでコーヒー等のノンアルコール飲料になった。
6時頃Nの家を出て男3人で焼肉を食べに行った。
先日レーザーディスクを片付けていたら、Nから借りていて既に返したと思っていた「太陽を盗んだ男」のサントラのLPレコードが出てきた。
傷がひどくてレコードプレーヤーのヘッド部の上に何枚かコインを置いてしか再生させることができず、一度でレコード針を傷めてしまう、この傷だらけのアナログレコードは、それでもNの形見であり私の貴重な宝物だ。
28日の月曜には中央省庁にいる同期のKが連休で帰ってきていて、また飲みに行くことになっていた。
有給休暇をゴールデンウィークなどに有効活用して長期休暇になることは奨励されているので私の職場も28日は有給休暇にして連休にする人も多くて結局Kを迎えて飲みに行くのは私と地元のKの後輩になるIだけになった。
3人で飲むと話の中心はどうしても職場や仕事のことになり7月から新組織へと変わって行く中での意識の持ちようとかの立派な話になる。
中央省庁へ行ったKは勿論、Iも組合の副委員長をバリバリとやっている人なのでそういうことへの意識が高いので私は意見を引き出す役割を意識して務めた。
意志してそういう意識の低い私は正直に言って居心地の悪さを感じた。
中央省庁へ単身赴任で行きバリバリ働いている立派な同期生のKより、4年前突然妻とまだ幼い娘を残して一人先に逝ってしまった大馬鹿野郎の友人Nの方にシンパシーを感じてしまう私はダメ人間なのだろう。
ボクシングとかおもちゃとか、およそ物の解かった大の大人の男には似つかわしくないものに肩入れすることで何故か安心してしまう。
午後5時半から11時前までひとつの店でひたすら堅い話で飲んだ。
そしていつものように職場に戻り休憩室で寝た。
翌29日の祭日、9時半頃職場を出発して10時半頃に地元の大型ショッピング・センターに寄る。
S.Cの中にあるタワーレコードでポイントカードの有効期限が近づいていたのでCDを物色。
ここで買ったCDはほとんどジャズばかりだ。
ジャズはこんな地方のCDショップでは扱う品数が少なく選べないが、このタワレコは品数豊富でしかも輸入物だとだいたい1680円ぐらいで売っている。
この日もマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター[完全版]」(サントラに別テイクを追加したもの)とアート・ペッパーの「ミーツ・ザ・リズム・セクション」とソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」というジャズの古典的名盤ばかりを3枚買った。
DVDソフトなんかは、他の中古店やら10%の割引をしている店で買うことにしている。
今回は「さすらいのカウボーイ ディレクターズカット版」と「男と女」のDVDソフトを購入した。
「さすらいのカウボーイ」は高校か中学の時にテレビで一度見ただけなのだけど、伊藤彰彦さんがリバイバル上映をシネセゾン渋谷へ見に行く前日の夜は映画を見れる興奮でひさびさに寝付けない思いをしたという作品だ。
それを聞いていたので欲しくなったのだ。
そういえば70年代にはフロンティアスピリットから離れたミーイズムに生きる静かな西部劇が結構あった。
「大いなる勇者」なんてのももう一度見直してみたい西部劇だ。
「男と女」はゴジ組応援団なら同時期に同じような感じで出たフランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」の方を買うべきかなと一瞬考えたが、コマーシャル・フィルムのような心地良い「男と女」の方が気分展開したい時に気楽に何度も見ることになりそうなのだと考えて選んだ。
「アメリカの夜」は中3か高1の時に封切りで見た。
当時同時上映が「青い体験」で思春期のにきび面のガキにはラウラ・アントネッリの肉感的なヌードはジャクリーヌ・ビセットのクールな美しさをぶっ飛ばしてしまったのだった。
S.Cでは、5月からは発砲酒税が値上がりするというのでまた酒屋「やまや」で1缶88円のオリジナルブランドの発砲酒「白泡楽園」を24本×4箱買ってきた。
またくだらない生活のことを書くのに時間がかかってしまって映画の感想を書く時間がなくなってしまった。
今回はじっくり感想を書きたい作品がいくつかあったので悔やまれる。
「ハッシュ!」「害虫」「非・バランス」「KT」が特に残念だ。
またタイトルだけになってしまったけど。
見た映画。
「あの頃ペニー・レインと」(00年 米)
「冷静と情熱のあいだ」(01年 東宝)
「スパイダー」(01年 米)
「盛り場流し唄 新宿の女」(70年 ダイニチ)
「ホタル」(01年 東映)
「BOM!」(01年 ケイエスエス)
「非・バランス」(00年 メディアボックス=日本ビクター)
「愛しのローズマリー」(01年 米)
「害虫」(02年 日活)
「ソウル」(02年 東宝)
「フィラメント」(01年 アースライド=アートポート)
「夢二」(91年 ムービーギャング)
「ハッシュ!」(01年 シグロ)
「仄暗い水の底から」(01年 東宝)
「チャカ LONELY HITMAN」(98年 ビジョンスギモト)
「チャカ2」(99年 ビジョンスギモト)
「パニック・ルーム」(02年 米)
「海は見ていた」(02年 SPE=日活)
「蝶の舌」(99年 スペイン)
「電話で抱きしめて」(00年 米)
「海辺の家」(01年 米)
「KT」(02年 シネカノン)
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ウィークエンド・ラブ 第65回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/04/14(Mon) 01:04
4月7日〜4月11日
7日月曜日、ジムへ行き6日に富山市総合体育館で行われたメイン・イベント、ウェルター級10回戦のことを会長やら見に行った人に聞く。
会長は主にメンタル面でのMa選手の弱さを嘆いていたが、選手で見に行った者に話を聞くと露骨なホームタウンデジションだったと言う。
Maはうまい選手だが、強い選手ではない。
試合も所謂玄人受けのする地味なものだ。
相手の選手のパンチを見切りブロックしては軽いが的確なパンチを当てて行く。
敵地で振りの派手な選手とやるとブロックの上からのヒットでも相手側の応援団が沸く――そうやって正確なヒット数では上回っていても攻勢をとられているような印象で判定負けをしてきた試合が相当ある。
個人的には今回もそういう試合だったのかもしれないと思った。
勿論、会長が言うように精神的な脆さもあったようで特に10ラウンドラスト30秒を切った辺りで相手選手ともみ合いになり押しつぶされるようにしゃがみこまされたが、すぐに立ち上がってこなかったのでダウンをとられてしまったというのが最大の致命傷になったということもあるようだ。
見に行った者はそれをも含めてそれでもホームタウンデジションだったと言うのだが、最終ラウンドのそれさえなければ確実に勝っていたというだから本当に惜しい試合を落としてしまったことになる。
若いトレーナーに聞くと対戦相手のKu選手は試合後に挨拶にやって来たという。
チャンスをくれたことに礼を述べこちらの興行で必要ならば必ず参加させてもらうと言ってくれたそうだ。
礼儀正しい感じのいい若者だったと言う。
Maはそれからジムには顔を出していない。
四天王Oに勝利したら、寿司を食いたいだけ食わせてやるという約束をしていたが機会に恵まれず果たしていない。
この結果に関わらず約束は果たしてやりたいし、その場ででも今後のことについてじっくり話しあいたいと思うのだが・・・・・・。
9日くらいから花粉症に風邪が加わってきたようで咳も出始めて身体の調子がおかしくなってきた。
くしゃみばかりして何度も鼻をかむ。
そんな体調の中で10日の木曜日に新年度になってからの新しいメンバーで花見をやることになった。
最初の顔合わせということで皆、気合が入っていたのか相当の酒の量となった。
現在、職場の職員数は12人で内2人は車で帰るというので飲まなかった。
残り10人で1合とっくりが55本空いたようだ。
2次会でスナックで水割りを飲み、私と同様職場の休憩室で宿泊するというもう一人の職員と休憩室でまた缶ビールやら缶チューハイを飲んだ。
翌11日の金曜は3人が休暇願いを申し出ていた。
体調の悪さに二日酔いが加わりくしゃみに鼻水に胃痛でフラフラでなんとか勤務時間をやり過ごす。
家に帰って愚妻に「今日はジム休みにして明日にしたら」と言われたが「戦士は戦場へ行くのだ」と格好つけてジムに行く。
それにきつい事を全部済ませて週末寝込んじまった方がいいという計算もあった。
ジムに行くと、もうそこの雰囲気だけで分泌してきたアドレナリンがだるさ、しんどさを吹き飛ばしてしまう。
結局、いつもどおりガンガンやった。
翌日は熱っぽくより病気の症状になってきた。
通常なら母を温泉病院への送迎バスの駅まで送り書店やらをウロウロするのだがこの日は書店のウロウロは早目に切り上げて帰宅した。
午後3時に母の迎えをして2,3の用事を済ませて寝床に着いて読書することにした。
枕もとに持ってきた本は待ちに待っていた岡崎京子念願の単行本「ヘルタースケルター」だ。
いつものショッピング・センターの書店には置いてなくて中央道路沿いの少し大きい書店に行ってもコミックスの新刊書コーナーにないので店員に尋ねるとレディース・コミックの単行本のところに1冊だけあった。
岡崎京子の幻の作品と言われていた「ヘルタースケルター」の初の単行本化だぜ。
この街に文化はないのか!
「ヘルタースケルター」は微熱状態で読むにはうってつけの本だった。
「もとのままのもんは骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコぐらいなもんでね あとは全部つくりもんなのさ」という全身整形の美女で芸能界に生きるスーパーモデルりりこの栄華と転落を描いたものなのだがこんな風に別の人間が筋を紹介しても陳腐にしかならない。
岡崎京子のストーリーテラーぶりを知るには読むしかないのだ。
彼女の最高傑作である「リバーズ・エッジ」には及ばないが岡崎ワールドを充分に堪能した。
そして後でネットで彼女の交通事故後のリハビリによる回復具合を知る。
新作を望むことが夢ではなくなってきたのかもしれない。
ゴジの「連合赤軍」同様その日を待ち焦がれるのだ。
「Helter Skelter」という言葉はビートルズの曲として有名だが、もともとはイギリスの遊園地のらせん型のすべり台のことで「引っくり返す」との意味もあるようだ。
そしてこのビートルズの曲“ヘルター・スケルター”を「この世をひっくり返せ」というメッセージと受け止めてあの有名なカルト集団による残虐な殺人“シャロン・テート事件”を引き起こしたのがチャールズ・マンソンだ。
掲示板で話題になったマリリン・マンソンの語源の人だ。
この事件は76年にその名も「ヘルター・スケルター」というタイトルで映画化されている。
しかし、映画の監督トム・グライスは次の作品「アリ・ザ・グレーテスト」の後に急死しており“マンソンのたたり”だと言われているそうだ。
シャロン・テートは殺された当時、お腹にロマン・ポランスキーの子供を宿しておりそのことも事件の残虐性に一役買った。
そんな事件があったので監督のロマン・ポランスキーは一時期世の中から同情的に見られていたのだが、後に自分が13だか15だかの少女を犯っちまってロリコンであることを暴露してしまいヨーロッパに逃げてしまうことになる。
今年のアカデミー賞で監督賞を受賞しても会場には行けない。
もし会場に来ていたらブーイングなのだろうかスタンディング・オベーションなのだろうかエリア・カザンの時同様興味深いものがある。
見た映画。
「大河の一滴」(01年 東宝)
「喜劇 女生きてます」(71年 松竹)
「 トレインスポッティング」(96年 英)
「ペイバック」(99年 米)
原作がリチャード・スターク(ドナルド・E・ウェストレイク)で傑作「殺しの分け前/ポイント・ブランク」(67年)と同じ原作「悪党パーカー 人狩り」だそうだ。
他に犯罪映画の快作「ホット・ロック」(71年)の原作もやっているし「グリフターズ/詐欺師たち」の脚本もこの人だ。
ついでにジャン・リュック・ゴダールの「メイド・イン・USA」(67年)の原作もこの人だ。
「喜劇 女売り出します」(72年 松竹)
「トータル・フィアーズ」(02年 米)
「ベティ・サイズモア」(00年 米)
「助太刀屋助六」(01年 東宝)
「劇場版∀ガンダム I 地球光」(01年 松竹)
「劇場版∀ガンダム II 月光蝶」(01年 松竹)
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ウィークエンド・ラブ 第64回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/04/07(Mon) 00:58
3月24日〜4月6日
24日。
中央省庁へ単身赴任して行った同期生Kが連休を利用して帰って来ているというので、Kの実家のある管内である私の今の職場に立ち寄ってくれた。
これからKの奥さんの実家がある名古屋で宿泊して明日6時半の特急で上京して職場に直行すると言う。
私の家は名古屋行きには便利な駅から近いのでそこまで乗せて行けというのでKを乗せて帰路に。
車中で「時間に余裕があるんやったらうちに寄ってかんか?」と聞くと「そうする」ということになり愚妻に携帯で連絡をとり酒宴というと大げさだが適当につまみを用意させた。
Kとは就職と同時に一緒に夜間短大に行っており、その短大にいた私の愚妻とも友人関係にある。
いつも私が飲んでいる88円の発泡酒では申し訳ないので途中、酒屋によりアサヒスーパードライ大瓶を6本買って帰る。
Kの苦労話や7月で廃庁の決まっている私たちの職場組織とそれについてどう身を処して行けばよいか等と色々と話した。
特に今後のことについては今の職場に働く者にとって重要な関心事である。
この3月には停年を待たずして退職する者やら、また以前にも書いたより良い給与体系にするためにと県外勤務を希望する者やらが結構いて、そういう人達への“餞別”に今年で最後となる年度末手当てのほとんどが当てられて出費して行ったのだった。
また7月からの新規業務について研修も何度か行われており、とにかく職場には、「やる気があるのなら県外勤務を希望せよ。県内に残るにしても新規業務を希望せよ。」という空気が強まってきていた。
Kは組織そのものが危ないこういう時には中央に行くべきだといち早く行動した男だ。
そして私といえば県外勤務を希望するわけでもなく、新規業務の研修中は居眠りばかりして、人事異動の希望調書には現在の仕事の残務整理みたいな部署を希望してきた人間だ。
1時間半もあれば名古屋へ出れるという言わばうまく行けば自宅通勤で県外勤務が可能だという地の利に恵まれた所に住居を構えながら、まるでやる気のない私の態度はKにはとても歯がゆいものでしかない。
昼休みも東大出の変わり者の課長が「昼にしよう」というまでとらずに待ちそれから課長と共に昼食をし、退庁時間が毎日午後11時半でコンビニ弁当を買い、土日には洗濯をするという日々を繰り返してがんばっている同期生の前で「ボクシングがやりたい」という私は世の中というものをまったく解かっていない青臭いガキでしかなかった。
「年収が○百万増えた」というKの言葉は少し私を惨めにさせた。
「そんな生活で楽しみってあるのか?」と少し毒づいて言うと意外なことに「映画かな。」という返事が返ってきた。
最近見た映画を聞くと、話題になった封切りの新作名がズラズラっと並んだのに驚いた。
Kは、短大時代は中国語研究会と称してほとんど受講せず部室で麻雀ばかりしており、早くから今の奥さんとつきあっていて映画になど関心なんてまるでなかった男だ。
当時は私がひとりぼっちで週末になると名古屋へ出てミリオン座やゴールドや中小企業センターや旗屋シネマや名古屋シネマテークや雲竜ホールやらで小難しい映画を見ては悦に入るという暗い青春を送っていたものだった。
Kが映画を楽しむようになったことをとても嬉しく感じたのだが、あれから色々と変わってしまった気もしたし何も変わっていない気もする。
私は多分ずっと“青臭い”ままで年を重ねて来たのだ。
そしてこれからも“青臭い”まま老いていくのだ。
否、これからも“青臭い”まま突っ走るしかないのだ。
三ツ矢サイダーとペプシコーラでまたボトルキャップが付いて来るキャンペーンが始まった。
三ツ矢サイダーには1.5リットルにウルトラマンのオリジナルボトルキャップが24種類、ペプシには500ミリリットルボトル缶にadidasのスニーカーボトルキャップが60種類付いてくる。
さっそく集め始めたのだが、三ツ矢サイダーの方はどれだけ購入しても12種類以上にならない。
どうやらまだ12種類しか出していないようなのだ。
もしそうならそうと公表してほしかったよアサヒ飲料。
3日。大叔母の告別式に出席する。
早朝6時に家を出て近鉄特急、JR環状線、阪神電車と乗り継いで行く。
10時からの告別式になんとか間に合った。
大叔母は、96歳だったと言う。
中学の頃、母が交通事故で入院した時、この大叔母が来てくれて食事の世話をしてくれた。
考えてみるとその期間が中学の3年間で一番平安な時だったのかもしれない。
火葬場の隣に墓地がありそこでは満開の桜が咲き誇っていた。
暖かい日だった。
29日。東海市民体育館サブアリーナーでプロボクシング新人王予戦2試合を戦う。
一人目は第1試合でライトフライ級4回戦だ。
うちの選手はうちの興行で壮絶なKO負けで頬骨が陥没したIだ。
しかし私は素質とセンスだけだったら過去最高のものを持っていると確信している選手だ。
願わくばもっと基本を体に染み付くまで徹底的にやらせてからプロテストを受けさせ新人王トーナメントには来年に望ませたかったと思っている。
反射神経、勘の鋭さ、殺傷本能など一流のプロボクサーになるには先天的に持っていてほしいものが備わっている。
しかし、私の勤務地のある地方に住むIは、どこか“お山の大将”で満足してしまうところがある。
井の中の蛙になりがちだ。
先日メインを征したNも同じ地方の出身者だが、Nの言葉を借りれば「あそこは皆、内弁慶」である。
そしてIは自分のイメージしたものにこだわり過ぎる傾向がある。
デビュー前はシュガー・レイ・レナードのようなボクシングをやりたいと言って、スピードはあるが手打ちで腰の入っていないパンチの練習ばかりしていた。
結果、壮絶にKO負けし反省したかに思えたが今回もサウスポー対策として教えた“いきなりの右ストレート”を盛んに練習していたが上体を突っ込ませてパンチと一緒に突進するように当てるという変な打ち方をやり始めた。
しかし器用だからこれが結構あたってしまうので正しい打ち方を教えても覚えようとしない。
「やれやれ次も苦戦するぞ」というのが会長やトレーナー陣の一致した見方だった。
試合前、Iはつきあっている彼女の父親が格闘技ファンで見に来ているので「緊張する」と言っていた。
碌に口も聞いたこともない親父らしい。
対戦相手は名門Mジムで2勝2敗のN選手だ。
KOは勝ちも負けもなく全て判定だ。
ということはプロで16ラウンド経験してきているということだ。
まだ2ラウンド直ぐに倒された経験しかないIにとっては強敵に思えた。
しかもタフなサウスポーときている。
しかし「今回は絶対相手の間合いに入らん。無理な打ち合いはせん。」と試合前に公言していた通りのボクシングをIはやりつづけた。
面白みに欠ける内容ではあったが、入らせるとうるさそうな相手を足でさばいて不恰好な打ち方ながらも右ストレートをコツコツ当てていった。
返しの左フックも打つのだが、上体が前へ突っ込んでいるので身体の軸がぶれて大振りになりヒットはしなかった。
見栄えは本当に悪かったのだが、相手のクリーンヒットは全く許さず3,4ラウンドにはかなりの右ストレートをヒットさせた。
内容的には完勝と思えたのだが、見栄えの悪さからか一人が引き分けの判定をつけていて結局2−0の勝利だった。
それでも初勝利にIはリングの上で小躍りして喜んだ。
しかしIがさらに上を目指すのなら一人のジャッジが何故引き分けにつけたかを真剣に考える必要があるだろう。
そして親の世話になりながら働かずに住んでいる今の土地から55キロの距離のあるジムへ通うのではなくジムのある私の町に出てきて働きながらボクシングをやろうという精神が必要だと思う。
「仕事やめてボクシングに賭けてみる」と言ったことがあったがそれぐらいの気持ちなら親元から離れてひとりぼっちになるぐらいのことはやってほしいと思う。
二人目はスーパーバンタム級の4回戦。
うちの選手は漁師町から一人で出てきて確かにボクシングに賭けていると言っていいNで相手は地元TジムのH選手だ。
Nは、はっきり言って下手な選手だ。
バランスが悪く腰の回転ではなく上体を倒す勢いも使いながら振り回し気味の右ストレートを打つ。
そういうパンチは距離がないと放てなく返しの左フックとか接近戦でのショートのパンチとかは全く打てない。
しかし練習熱心でそのがんばり方は誉めるに値する。
結果ジャブとかはいいものを持っているし右ストレートも角度はともかく破壊力だけはかなりのものがある。
一発いいのが入れば派手にぶっ倒すのではないかという期待を抱かせた。
しかし試合は見栄えの悪さの目立つものになってしまった。
とくに接近戦で全く手が出せずガードの上からではあるが相手のパンチをもらうがままになったシーンは印象が悪かった。
クリーンヒットだけならNの方が上回っただろう。
3,4ラウンドにシャープなジャブを的確に当てていた。
そしてNのロングストレートもHのガードの上からではあるが、その破壊力でHの顔をみるみる赤くしていった。
負けてはいないが微妙な判定になると思ったが結局1−2のスプリット・デジションで敗者となった。
控え室に戻る途中で壁を叩いてNは悔しがったが、あれだけ見栄えが悪いと止むを得ないところもあるので、荒れるNに厳しく「あれだけ接近戦が下手糞やったらしょうがないやろ。もっぺんやりなおしや」と言った。
Hは会長にもう一度同じ相手と試合を組んでくれと言っていたがその前にもう一度バランスの基本からやり直す気持ちが大事かもしれない。
こうしてうちのジムは5人がエントリーした新人王戦で1回戦が終わった時点で3人が敗れ残ったのは2人になってしまった。
今年こそ行けるのではないかと思っていたが予想外に厳しいスタートとなった。
勝ち進んだ2人はどこまで行けるのだろう。
6日。富山市総合体育館でウェルター級の10回戦を戦う。
富山までは私の町からは車で約6時間かかる。
前日計量なので5日の朝から6日の深夜まではさすがにきついなあと考えていたら会長が若いトレーナーKに乗せてもらって行ってくるというので遠慮やらホッとやらで行かなかった。
休日の2日間を全てボクシングに費やされるのは家庭持ちには確かに厳しいことではある。
選手は奇跡のような番狂わせで日本ウェルター級4位の選手に勝利し日本ランキング8位に入ったMである。
対戦相手は以前6回戦で戦い判定で惜敗したことのあるTジムのKである。
しかし今回はレベルの違いを見せ付けてきっちり勝利してくれるものと信じていた。
そして日本タイトル挑戦へと繋げていってくれるものと思い込んでいた。
第1試合のゴングが午後1時なので午後7時過ぎにはメインも終わっているものと考え会長に携帯で連絡をとる。
結果は2−1の判定負けであった。
ガックリ来た。
2ラウンドにきれいにダウンを取ったそうだが、その後押されて最終ラウンドラスト30秒というところでスリップのようなのをダウンに採られたのが致命的だったそうだ。
詳しいことはそれ以上わからないのでまだ何とも言えないが、とにかくがっかりだ。
見た映画。
「アザーズ」(01年 米 スペイン 仏)
単にホラーと言ってしまいたくない。
屋敷に取り付く霊がなぜそうなったかを人間であった時の心理劇で見せる。
久々に堪能できたサスペンス物の傑作だ。
ヒッチコックの「レベッカ」、ジョセフ・ロージーの「召使」を思い出させる力作だった。
ホーンテッドハウス物というジャンルがあるとするならベストワンとしたい。
監督は「オープン・ユア・アイズ」のアレハンドロ・アメナバール。
この監督は注目するに値する。
「ブラックホーク・ダウン」(01年 米)
リアルに戦場を再現したいなら現在本当の戦場に出向いてカメラを回すべきだろう。
「堕天使学園」(96年 メディアオリジナルビデオ)
「しあわせ色のルビー」(98年 米 英)
現代版「人形の家」と言ったところだが、男女に関わらず自由を叫ぶならまずは自立できていることだろうと思う。
そういう意味ではドンドン女性は自由になってきている。
経済的な意味で自立できている女性はある意味男より自由なのかもしれない。
「ブレス・ザ・チャイルド」(00年 米)
「光の旅人 K−PAX」(01年 米)
「ファイナル・レジェンド 呪われたソロモン」(01年 米)
「ロード・オブ・ザ・リング」(01年 米 ニュージーランド)
「ピカレスク −人間失格−」(02年 ジーピー・ミュージアム=ドラゴン・フィルム)
太宰治のことを考えると何故か相米慎二を思い出してしまう。
先日「風花」を見てて思ったのだが、相米慎二にはつい「死にたい」などという甘ったれたセリフを言っても許してもらえそうな優しさがあるのだ。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(02年 東宝)
宮崎アニメだけがアニメじゃない。
前作ほどではないがこれは、涙、涙の純愛もの。
「プランケット&マクレーン」(99年 英)
「真夜中のサバナ」(97年 米)
「陽だまりのグラウンド」(01年 米)
「 ブロークダウン・パレス」(99年 米)
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ウィークエンド・ラブ 第63回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/03/24(Mon) 00:19
3月16日〜3月23日
ボクシング。
3月16日、岐阜商工会議所2Fホールにて、ライト級中日本新人王予選を戦う。
うちの選手は先日、日本ライト級3位に勝利したKジムの選手の兄だ。
弟と違って兄Dはこれまで4戦して3敗1分と勝ち星にめぐまれていない。
Dはサンドバッグやミットを打たせると「何故こいつが勝てないのか信じられない」と思うほどうまい。
腰の入った重いパンチをズバンと打ち込んでくる。
しかしスパーリングになると体の重心がやや前にのめるようになり、引いてある右足で蹴って打つのでなくまず右足を寄せてからステップするようになりパンチのタイミングが相手にたやすく見抜かれる打ち方になる。
戦う相手が前に立っているというそのことだけでボクシングが狂ってしまう。
その都度、「重心が前に行き過ぎや、戻せ!」と叫ぶのだが、一瞬は戻ってもまた前のめりになって行く。
しかし、ミットで修正しようとするとすぐに素晴らしい打ち方に戻るのだ。
これまで何度となくそういうことの繰り返しをやってきた。
もう最後の方は「技術的なことは問題ない、一番問題あるのは精神面や、それをなんとかせんとどんだけ練習しても勝てやん!」と言いまくって来た。
それでも、いいものは持っているので誰か教える者が出て来る。
今回も会長が熱を入れて見てきて「今度はいける」と言っていたので、少なからず期待していた。
事実スパーリングでは先日敵地のメーンで判定勝ちしたNaを相手にして結構いい内容のスパーをやっていた。
会場へは日本ランキング入りを決めた弟も駆けつけてきた。
Dの試合は第3試合に組まれた。
相手のTジムのS選手もこれまで3戦して2敗1分と勝ち星のない選手だ。
Dの初勝利に期待が集まる中、第1ラウンドのゴングがなった。
そして10秒が経ったぐらいで「ダメだ、こりゃ」と私は内心ガックリ来ていた。
やっぱり重心が狂っておりとても遠い距離からフェイントの意味さえ持たないジャブを懸命に出しているのだ。
距離がつまってもワンテンポパンチを出すのが遅くとてもあたりそうに思えなった。
相手のパンチはポンポンとあたっている。
こうなったら残された方法はひとつだけ――まぐれあたりの可能性を増やすことだ。
それで「前へ出てスリー・フォウまで手を出せ」と怒鳴りまくった。
そして2ラウンド目にそういうパンチのひとつがヒットし初のダウンを奪った。
あたれば倒すパンチは持っている。
後1度倒せば4回戦ではそれが自動的に勝利の試合ストップとなる。
誰もが千載一遇のチャンスと思った。
「いけ!」と叫んだがそうやって出された大振りのパンチはことごとく空を切り開いた身体に相手のパンチがビシビシとヒットする。
ドンドン劣勢に立たされついには逆にダウンまでさせられた。
これで2ポイントの差はつけられたはずの2ラウンドは帳消しにされた。
3ラウンド4ラウンドもDはワンテンポタイミングの遅れたパンチを打ち続け結局0−3の判定負けを喫した。
1ポイント差が一人、2ポイント差が二人だった。
試合を終え控え室にDの弟や職場であるピザ屋の元プロボクサーの店長らがやって来た。
「惜しかったなあ。ダウンとった後のつめをもう少しうまくやっとれば勝っとたのに」
「もう一回、もう一回、勝つまで何べんでも挑戦するんや。負けて終わったらダメやぞ。」
私はDのグローブを外し、ハサミで慎重にバンテージを切りながらそういう声を背中で聞いた。
バンテージを切り取った後、できるだけ感情を抑えてDにこう言った。
「スパーでは、だいぶよくなって来たと思っとったけど、試合ではやっぱりバランス崩れ取った。出すパンチ全てがワンテンポ遅れとった。どんなにパンチあってもあのパンチのタイミングではあたらんぞ。手数出してまぐれ当たり狙うことしか戦法考えられやん。もうボチボチ潮時ちゃうか。ゆっくり考えてみよ。」
残酷なセリフだが言わねばいけないことだと思った。
いつも綺麗な彼女を連れている弟と女にはまったく縁がない兄。
日本ランキング入りを決めた弟とデビュー戦で引き分けて以来4連敗をつづけた兄。
対照的なこの兄弟を見ながらクロード・シャブロルの「いとこ同志」を思い出していた。
Dの姿が見えない機会に弟のS・Iと話をした。
S・Iは前から兄に東京に出て来ることを奨めていたことを聞いていた。
そして自分のアシストをしてほしいと言っていることも。
「おまえ、Dに東京出て来いって言うとるそうやけど、兄貴は本当にボクシング向いとると思とんのか?」
「いや、ボクシングに関係なくこっち出て来たら兄貴も何かやること見つけると思て……」と天才的なカウンターパンチャーは答えた。
「そうか……」と私は言った。
確かにそれも一つの道かもしれない。
これまでDはジムの関係者からその仕事を世話してもらったりしていた。
ある時はペンキ屋の見習だったりある時は寿司職人の見習いだったりしたが対人関係を苦手とするDはそのどれをも続かず辞めてフラフラした。
この試合の前「今度の試合ダメやったらまず定職を考えろ」と私や同年のトレーナーはDに話してきた。
私は「介護士の資格をとるのがええんとちゃうか」とDの性格を考えて言っていた。
しかし弟が言うようにここにいての“甘え”みたいなものが東京へ出て行けば治されるのかもしれないとも思えてきた。
中学で親が離婚し父親に育てられ、高校の授業の後ジムに来て練習し、その後パチンコ店で清掃のバイトをしていた時代もあったこのDはその後ボクシングでも仕事でもいいところなく今日まで来た。
しかしこの男は人に愛された。
気が弱く、頼りなく、素直で、誠実なこの男は人に愛された。
何とかこいつが今後の人生をうまくやってほしいと皆思っているだろうし私もそう思っている。
とにかくこれで今年の新人王戦はうちのジムから5人がエントリーして1回戦が3試合終わったところで2人が姿を消した。
想像以上に厳しい現実だ。
次は3月29日、東海市体育館で残りの二人が新人王1回戦を戦う。
今度こそいい結果でありたい。
今の職場の送別会が19日に宿泊であった。
仕事の話を喧喧諤諤でやることが好きな人間がだいたい宴会の雰囲気を支配しこの日もやっていたのだが、そんなことはクソクラエダとカラオケで楽しく騒ぎまくった。
見た映画。
「カタクリ家の幸福」(01年 松竹)
「ダンサー」(99年 仏)
「SPY_N」(00年 香港 米)
「プラトニック・セックス」(01年 東宝)
「RED SHADOW 赤影」(01年 東映)
「シッピング・ニュース」(01年 米)
「殺し屋1」(01年 日 香港 韓国)
時間がなくて感想が書けないのが残念なのだが、今回はそれほど書きたいと思える作品がない。
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世界の分裂を目の前にして。
投稿者:
松島は絶景かな‥‥
投稿日:2003/03/18(Tue) 04:43
大陸側諸国と海洋国家諸国としての世界情勢の分裂。
長谷川監督は“連合赤軍事件”の中に何を見る?
現在のどんな感情を入れ込む?
死んでゆく人々、止まらぬ人間としてのエゴ。
時代がどんなに変わっても人間が集団となり最大公約数の国家という形態をとり、利害関係による対立が生まれ世界の貧富の差を解決できぬ限り何度でも歴史はくり返すのか‥‥
数学者が研究の果てに『答え』のでない不完全定理を発見するように、人類の本性にも変わりがないということか‥‥
あの時代に“青春の殺人者”を創作することは私にとっては革命的だった。まだ幼かった私の脳裏には激しく渾沌としたメッセージがこびりついた。
はたして今、“連合赤軍事件”を復活させることが革命的なのか?
私は『革命』を要望する。
“血”という破壊的なアプローチではなく
“知”という共有的なアプローチとして‥‥
『知る』ことは尊い。
映像は理念を『理解させる』ことはできなくても『知らせる』ことができる。
100%理解できない人間にもニュアンスを伝えることができる。
大衆革命とはニュアンスを『知らせる』ことにほかならない。
フランス革命、ロシア革命、
大衆は革命のニュアンスに同調し動く。
長谷川監督には今回の映画において自らの“総括”と、できることなら20年以上ぶりに“革命”のにおいをかもし出してくれることを期待する。
世界中で平和にたいする長年のストレスのために
本当は不自然なはずだった“秩序”が崩れていく‥‥
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ウィークエンド・ラブ 第62回
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/03/17(Mon) 00:52
3月9日〜3月15日
これまでそんな気配なんて微塵もなかったのにどうやら“花粉症”などというしゃらくさいもんになってしまった。
突然なるという話は聞いたことがあったけど本当に突然で、育ちの悪い自分にだけはそんな現代病など関係ないだろうとたかをくくっていたので驚きと悔しさでも苛つかされた。
くしゃみと鼻水と鼻詰まりに頭に来て夜、入浴後、ティッシュを鼻につめこんでグルグル回して鼻の穴をカラカラにして鼻毛をブチブチといっぱい抜いたら翌14日はさらに酷い症状になってしまった。
ちょうどその日は年度末ということで職場の課の宴会の日だった。
贅沢して職場のある街で最も有名な超高級牛肉料理店でやろうという話になっていた。
めったにない機会だし、経験としていいかなと楽しもうと思っていた。
ところが花粉症の鼻詰まりで味覚がなんだか冴えないのだ。
タレにつけた牛肉を目の前で網焼きにしてくれ皿にのせてくれる。
確かに柔らかく美味しいらしかろうことは解った。
しかし味覚は冴えないし、わずか70グラム程度の牛肉が3切れで1人前6500円という値段にビックリしてしまった。
結局いつものようにガンガン酒を飲んだ。
そんな高級な肉を更に追加したのだから、随分豪勢な宴会ではあった。
しかししみったれた貧乏人にはもっと安いカルビやらホルモンで飲んだ方が落ち着くものだと思った。
2次会でスナックでカラオケをし、職場に戻りかび臭い蒲団にくるまって寝た。
翌日は二日酔いと花粉症と睡眠不足でフラフラだった。
胃の調子もおかしかったのだが、16日の試合の打ち合わせもありジムに行った。
家ではヨレヨレでも一度ジムの門をくぐると何故か雰囲気でシャキッとしてしまう。
多忙な日々がつづくと何でボクシングまでやっているのだと思うことがある。
楽しくてやっているのか何なのか解らなくなってくる。
しかしもうやめることも逃げることも出来ない気がしている。
なぜならそういう世界があることを知ってしまったからだ。
ボクシング。
9日(日)名古屋市公会堂でスーパーライト級のメインイベント6回戦を戦う。
うちの選手は私の勤務先のある街で造り酒屋をやっているNaだ。
対戦相手はこの興行を主催するHeジムのTo選手で2002年中日本新人王獲得している。
Naにとっては、初のメインでA級入りのかかった試合だった。
ポスターには興行を主催するHeジムの選手だけが写真入りで紹介されており、メインであるにもかかわらず名前のみというのはNaにはかわいそうだった。
Naのボクシングは精緻なスタイルをもっている。
うまく行くと綺麗に倒すが崩れると脆いところもある。
けっして武器は多くなくパンチも破壊力に欠けるものだが、ディフェンスの技術には長けたものがありピンポイントでタイミングで捉えるタイプだ。
1ラウンド、相手のTo選手は足を使ってジャブを多用してきた。
初めNaは追ってつかまえようとしたが追うとバタバタして危ないシーンもあり会長は「動くな!来るのを待ってあわせろ!」と大声で指示する。
Naはその指示に従い追うことを止めTo選手が打ってくる瞬間にカウンターをあわせることに徹した。
そしてその作戦は見事に成功して3ラウンドに右がカウンターで炸裂し、ダウンを取る。
4ラウンドは右からの返しの左フックで2度目のダウンをとる。
後がなくなった相手のTo選手は前に出てガンガン接近戦を挑んで来た。
ショートの連打合戦では押される展開となったが、何とか5,6ラウンドを凌いで2ポイント差が二人、4ポイント差が一人という3−0の判定で完勝となった。
見事、敵の興行でのメインを征してNaのA級入りは確実となった。
見た映画の感想。
「忘れられぬ人々」(00年 ビターズ・エンド=タキコーポレーション)
今も戦友たちとの集まりとかつきあいを大事にしている老人たち。
戦中派の爺の感傷映画かと思っていたら、その中の亡き戦友の孫娘のプータローをしていた彼氏がやっと見つけた仕事が紹介されてくると俄然面白くなってくる。
仕事の研修と称したそれはまるで自己啓発セミナーがやっていそうな洗脳セミナーだった。
最も巨大な使命の為には多少の悪もやむを得ないという精神構造にして行くものだ。
タップリ洗脳された後、その組織の代表である篠田三郎が登場するともう姿を見ただけで泣き出すものが出て来るような異様な光景だ。
そこの仕事とは霊感商法だったのだ。
その手口がじっくりと描かれて行く。
一人暮らしの老婦人星美知子のもとへガス警報機と称して隠しカメラを取り付ける。
そのカメラで老婦人がかつて空襲の時に残した子供を焼死させた過去を持っていることを知る。
手相だか人相学だかを研究している者だと称してその老婦人に近づき「焼け死んだ子供が成仏せずに苦しんでいる。あなたのせいだ。」と言って責め始まる。
ご丁寧に霊媒師みたいな役割の者もいて憑かれたように「母ちゃん、熱いよう」とうめき出す。
そうやって強烈に追い詰めておいて成仏させるためといってちゃちな仏具を数千万で買わせるのだ。
結局老婦人は高額な金額を吸い取られ最後には発狂して病院に入院させられてしまう。
その老婦人に好意を寄せていた戦中派の爺青木富夫は単身で組織に乗り込むがどうやら抹殺されてしまったようだ。
その後を受け三橋達也とこれも妻内海圭子の病から霊感商法に騙されていた大木実の二人が刃物を持って組織に乗り込んで行く。
もうこの爺達の心意気にドキドキした。
特に戦友の死に強い責任と罪悪感を持ち戦後になっても戦友達の集まりにもほとんど参加せず、一時期はやくざ組織に入っていたが、今はひっそりと男やもめのまま畑仕事をしているという設定の三橋達也のかっこいいこと!
日本刀を持って乗り込むのだが「昭和残侠伝」の健さんよりいかしてたのだ。
拳銃を持った篠田三郎に銃弾を浴びながら刺し違えて逝ってしまう。
こんな風な爺のアクション映画って邦画で他に何があっただろう。
このサイトを意識して「太陽を盗んだ男」で例えて言えば、これは伊藤雄之助が孫の世代沢田研二ではたよりないと自ら菅原文太と戦うという作品なのだ。
以前から「爺のアクション映画が見たいよな」と考えていた私には大歓迎の作品なのだ。
「忘れられぬ人々」という地味な作品は私には「忘れられぬ映画」となったのだ。
監督は、篠崎誠。
「化粧師 KEWAISHI」(01年 東映)
まあ、カメラマンとかこの化粧師とか女の美を扱う仕事ってもてるだろうなと思う。
いつか「美容整形師」なんて映画が出来るかもしれない。
監督は田中光敏。
「アリ」(01年 米)
ソニー・リストンからヘビー級のタイトルを取るところからザイール、キンシャサでジョージ・フォアマン戦までの20世紀最高のボクサーにしても現在も生ける伝説であるモハメド・アリの半生を描く。
いったいアリの伝記とかドキュメントってどれくらい映画になっているのだろうと思って調べてみた。
「カシアス・クレイのすべて」(70年 未公開)
「モハメド・アリ/チャンピオンへの道」(70年 未公開)
「モハメッド・アリ 黒い魂」(74年)
「アリ/ザ・グレーテスト」(77年)
「モハメド・アリ/ザ・ファイターズ」(91年 未公開)
「モハメド・アリ かけがえのない日々」(96年)
「モハメド・アリ KING OF THE WORLD](00年 TV)
「アリ/栄光への軌跡」(00年 TV)
「モハメド・アリ 世界が見た王者の姿」(01年 未公開)
ざっと調べただけでこんなにあるのだ。
日本で言えばいつかアリは宮本武蔵のような存在になるのかも知れないと思う。
この作品に関して書きたいことはそれこそ山ほどあるのだが、時間が足りないのでまたの機会ということにする。
ひとことだけ言えば日本でも例えばピストン堀口なんて伝記映画が作られてもいいんだけどなあ。
監督はマイケル・マン。
「千年の恋 ひかる源氏物語」(01年 東映)
吉永小百合もよくこんな仕事を引き受けたなあ。
まあ、その程度の作品だ。
監督は堀川とんこう。
「LOVE SONG」(01年 SPE)
尾崎豊のアルバム「十七歳の地図」を貸してくれたレコード店の店員伊藤英明と突然去ってしまったその伊藤を追って北海道から東京へと旅に出る女子高生仲間由紀恵のそれぞれの青春を描いたもの。
さわやかでちょっぴりせつなくて……というぶちのめしてやりたいような青春クソドラマ。
監督は「修羅雪姫」はもう少しましだったぞの佐藤信介。
「アナライズ・ミー」(99年 米)
マフィアのボス、ロバート・デ・ニーロとお世話になる(?)精神分析医ビリー・クリスタルのドタバタコメディー。
ビリー・クリスタルはともかく名優デ・ニーロにとっては、「どうなんだろう?」って感じの作品なのだが、それでも嬉々として精神分析医で救われて行くマフィアのボスなんていう笑える役を演じているのが逆に凄いのかもしれない。
楽しそうに自ら「ゴッド・ファーザー」をパロディにもしてしまっている。
監督は、ハロルド・ライミス。
「ローラーボール」(01年 米)
ジョン・マクティアナンは何故ジェームス・キャメロンになれなかったのか。
ああ眠い!
もう寝るぞ!!
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ウィークエンド・ラブ 第61回-2
投稿者:
ラスタマン
投稿日:2003/03/10(Mon) 01:37
見た映画の感想。
「ミート・ザ・ペアレンツ」(00年 米)
彼女との結婚を認めてもらうため、両親に会いに行っておこるドタバタコメディ。
父親というのがロバート・デ・ニーロ演じる元CIAの頑固親父で、しかも娘を溺愛しているときている。
当然娘の相手には厳しい。
この親父に気に入られようとするベン・スティラーのてんやわんやが結構笑える。
”自分の時”を思い出して苦笑いってのもあった。
女の親に会いに行くって自分の価値観を投げ出してでも相手に気に入ってもらおうとする時なのだろう。
過去こういう題材は「花嫁の父」に代表されるように感動的なものとして扱われてきたが、こんな風にブラックな笑いにしてしまったのは珍しいのではないだろうか。
異性と親との問題ってのは東西を問わず大変なものなのだ。
それの最悪を描いたのが「青春の殺人者」かもしれない。
監督は ジェイ・ローチ。
「レクイエム・フォー・ドリーム」(00年 米)
ジャレッド・レトーとジェニファー・コネリーのカップルとレトーの老いた母親エレン・バーステインがドラッグ中毒の果てに転落崩壊してゆく様を描く。
エレン・バーステインはテレビ番組でなぶり者にされるという悪夢の中で精神病院で縛り付けられる。
ジェニファー・コネリーはクスリ欲しさに身を売り、怪しげなパーティーで男達の好奇な視線にさらされながらレズビアンショーを強要される。
ジャレッド・レトーは注射を射ちすぎた腕がまるで腐っているかのようにまでただれ片腕を切断されてしまう。
そういう地獄絵図をこれでもかというくらいの凝った映像で描いて行く。
画面分割やらコマ落としをハイスピードで多用しショックの連続で観る者を酔ってしまいそうなほどの気分の悪さの中にに叩き込む。
見終わった後もしばらく気が滅入ってまいった。
しかし、その饒舌すぎる映像は、“麻薬の恐ろしさを描きたい”とか“麻薬撲滅というメッセージ”に基づいて作られたものだとは決して思えなかった。
監督ダーレン・アロノフスキーの、カルト的な映像が作りたいという嗜好が何より感じられただけで麻薬で崩壊して行く人間はただその為だけに都合がよかった題材としてあったのだとしか思えなかった。
だからダメだという気はないのだが、こんなに後味の悪い映画見たくもないぜ。
「トレーニング デイ」(01年 米)
希望に燃えてロサンゼルス市警の麻薬取締課に配属になった新人刑事イーサン・ホーク。
ベテランで数々の事件を解決し名刑事と誉れも高いデンゼル・ワシントンの下につく。
しかしより巨悪な犯罪を摘発する為のような大儀名文で説得して自らドンドン法を犯して行くワシントンの前でイーサン・ホークは、戸惑い困惑し追い詰められて行く。
ついには殺人までやっちまうワシントンと決定的な対立の中で戦いボロボロになりながら刑事としての本分をまっとうする新人刑事の着任初日の熱い1日を描く。
「郷に入っては郷に従え」ということわざがある。
また昔読んだ何かの本で「大人になるとは、とりあえず人と一緒に泣いたり笑ったりすることだ」というのがあった。
どちらも有体に言ってしまえば「固いこと言わずに協調性を持てよ」ってことだ。
初めイーサン・ホークはワシントンにチンピラから奪った麻薬を試してみるように進められる。
何度も拒むがおとり捜査にでもやった時に麻薬ひとつやれないことでしくじることがあるとかの理由を言われ拒みきれなくなり、ついに麻薬を試すことになる。
そのことが、ワシントンの犯罪行為に耐え切れなくなり対立関係になった時、「麻薬反応の出た新米刑事の言う事を誰が信用するのだ」と脅迫材料を与えてしまうことになる。
そういうドラマ展開が私にはとても痛かった。
私の職業は役人だ。
一番末端のコッパヤクニンだが、それでも少しは“権力”ってやつを持っている。
回りには喜んでそれを振り回す人が多くいる。
もともと間違ってなっちまった職業を「喰うため」と割り切りポリシーを持って“チャランポランな役人”であることを心がけて来た。
それでもそんな私でもこれ以上目をつぶることは出来ないという状況に出くわすことがある。
ところが過去にそれに目をつぶって来た人が組織の中での成功者だったりする。
昨年の4月から転勤になり現在もいる勤務場所はこれまで地元の人間だけを多く登用し他所の地の人間との交流の少ないということで有名なところだった。
山々に囲まれた盆地の排他的閉鎖的なこの土地に現在私の官庁が持つ行政の民営化を根付かすことが役目だと上から言われて異動して来た。
その背景には地元の人間ばかりで官民が所謂“もたれあいの関係”みたいなものがあり民営化が他所に比べ全く進んでいなかったというのがあった。
昨年の4月以来様々な局面で私は「固いこと言わずに協調性を持てよ」というプレッシャーを受けた。
幸い一緒に同じ任務を受けて異動してきた上司がそれをはねかえせるパワフルな人だったので私も救われてきたが、実際一人だったらこの土地の要求する「協調性」の中で“役人らしくない役人を心がけて来た役人”は簡単に“腰抜けの役人”にされてしまったかもしれないとしみじみ考える。
この映画「トレーニング・デイ」は最後、ワシントンは悪者一味から処刑されてしまい疲れ果てたイーサン・ホークは無事に家路に向かうという謂わば通俗的な終わり方になる。
確かに名作と呼ぶような立派な作品ではない。
しかし確実に現在を呼吸する生の映画として忘れられない1本となった。
私にとっては何より「固いこと言わずに協調性を持てよ」あるいは「大人になる」ことの恐さを描いた強烈な作品だった。
監督は、アントワーン・フークア。
「裏切り者」(00年 米)
身内も絡んだ汚職事件を内部から証言する若者のドラマをひたすら暗く陰々滅々に描く。
この沈鬱な雰囲気はただごとではない。
この監督は例えばエリア・カザンとかエドワード・ドミトリクみたいに赤狩りで転向したり仲間を裏切ったりとかの暗い過去でも持っているのかと気になって来た。
監督ジェームズ・グレイは自身の青年期に実際に起こった汚職事件を基にこの映画を作ったそうだ。
その事件での監督の傷ついた体験が基になっているのかどうかはわからないが、とにかくこの沈鬱な雰囲気はただごとではないのだ。
これでこの映画をこんな暗い映画にしてしまったモチベーションがつまらなかったら許さないぞと思うくらい沈鬱な映画だ。
作品の良し悪しよりもとにかくそのことが気になってしかたない。
この監督がものすごく暗くて巨大なものを抱えているように望みたいのだが、どうなんだろうジェームズ・グレイ。
「フロム・ヘル」(01年 米)
“切り裂きジャック事件”を追う警部ジョニー・デップ。
王室がらみの権力と陰謀がいりくんでいての解釈に興味が持てなかった。
監督はアルバート・ヒューズ。
「アミスタッド」(97年 米)
聖書を読んでひかれて行く黒人の様はいかにも白人好みで嫌な感じだ。
こんな露骨な人種差別反対といういい映画をスピルバーグもよく臆面もなく作れるものだ。
「17歳のカルテ」(99年 米)
米国版「二十歳の原点」っていう作品。
ウィノナ・ライダーがやっているのでリアリティーがある。
監督は、ジェームズ・マンゴールド。
「新・仁義の墓場」(02年 大映)
サクさんの「仁義の墓場」を見ているから2番煎じに思えてあたり前なのだけど、やっぱりこういうの妙に心地良かったりする。
これも「あしたのジョー」も三島もペキンパーも破滅美ってのがあるのだろう。
監督は、三池崇史。
「野獣の青春」(63年 日活)
監督は鈴木清順。
「らぶれたあ」(59年 日活)
これも清順作品。
「ターン」(00年 アスミック・エース)
監督は、平山秀幸。
なんだか大島弓子の漫画を読みたくなって来る。
「Laundry ランドリー」(01年 ROBOT)
監督は、森淳一。
ただこっ恥ずかしいだけのかわいらしいメルヘン。
「ドメスティック・フィアー」(01年 米)
監督は、ハロルド・ベッカー。
「サウンド・オブ・サイレンス」(01年 米)
監督は、 ゲイリー・フレダー。
「ドメスティック――」ともどもご都合主義に満ちたサスペンス。
「悪太郎伝 悪い星の下でも」(65年 日)
監督は、またしても 鈴木清順。
「 ビューティフル・マインド」(01年 米)
精神分裂症の病を持ち幻覚やら妄想やらに悩まされながらも献身的な妻等に支えられた数学者がノーベル賞をもらうまでのお話。
予備知識はそれほどなかったのだが、評判は良さそうだが臆面もないタイトルで苦手そうなタイプの映画だと思いながら見た。
最初にプリンストン大学に入学してきた主人公等に「数学者が戦争を勝利させた。次に君たちもそれをやれ。」みたいなアジテーションのような歓迎の言葉が述べられる。
そして主人公の優秀な頭脳が暗号解読という極秘任務に利用されるという展開が、実は主人公の精神分裂症による妄想だとわかってくると、数学者に戦争加担の使命を与えた大学当局への皮肉なのかと考えた。
ところがどっこい、それからは夫婦愛で最後は何とノーベル賞をもらったジョン・ナッシュという今もプリンストンの教壇に立つ実在の人物の実話だと種明かしされてずっこけた。
成功した野郎の苦労話ってのほどうそ臭いものはない。
この映画もその例外に漏れずうそ臭いしタイトル通り臆面もない美談ドラマに辟易とさせられた。
実際にこうだったのかは知らないしどうでもいいのだが、妻になるジェニファー・コネリーがあまりに“都合のいい女”すぎる。
こんな美人で才女として描かれている女性が、いきなりのデートで「やらせてくれ」みたいなことを言われて濃厚なキスを返してくれるなんて考えられないし、そういう“進んだ女性”が結婚後に夫が精神病者だと解っても献身的に良妻賢母をつづけてくれるってのも感動的というより“ご都合主義”にしか見えなかった。
主人公の数学者の理論がどう後の経済学理論に影響を与えたのかさっぱりわからないし、強引なサスペンス風の展開の中で薄っぺらな偉人伝になってしまったように思えてならない。
監督は、 ロン・ハワード。
浅田彰は「逃走論」で「パラノイア=偏執病」よりも「スキゾフレア=精神分裂症」が時代を切り開いて行くキーだとしたが、あの時ジョン・ナッシュという数学者の存在って関係あったのだろうか?
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