『〜映画は別ヴァラ〜』 VARIETY-J MAIL MAGAZINE
今日はみんなの要望どおりテストだ。
『2001年:太陽をみるもの』編
そらをこ〜えて、ラララ。
『アニメ』編
何がしたいんだ、おまえは。
『交わり』編
エネルギーとは何ぞや。
『力の伝達』編
スポンサーの特別のご好意。
『商標』編
臨界量の算出がもっとも難しい。
『原爆』編
9の次は0なんだ。
『ブタ』編
あたしゃ、蚊じゃありませんよ。
『熱帯時代』巡査編







シンクロニズム:映画の論1

今日はみんなの要望どおりテストだ。
『2001年:太陽をみるもの』編

Q:もう一つの伝説的映画

次に列挙した用語は『2001年宇宙の旅』に出て来たテーマもしくは設定を拾ったものである。ところで、このキーワードが隠喩する状況と良く似た、深い内容の映画が日本でも作られているのであるが、その映画タイトルとは何か?

――――月をみるもの、サバンナ、サル・ブタ・ヒョウ、最強の武器、核ミサイル衛星、権力による噂の否定、モノリス、HAL9000とIBM、ヘルメットと呼吸音、通信システムの意図的な故障、作業ポッドのマニュピレーター、史上初めての叛乱、アラーム音、暴発・侵入と奇跡の生還、主導権奪還、メモリーユニット抜き取り、スターゲイト、急激な老化、誕生するスター――――

ヒント: 『2001年宇宙の旅』の流れを組む傑作映画には『エイリアン』(1979)があるが、その制作年に日本で公開されているので、邦画ファン以外の若い人はギブアップした方がいい。

A: 模範解答は来週の『別ヴァラ』にて配信するから、できたものから自分で採点して教壇の上に出しておく事。



シンクロニズム:映画の論2

そらをこ〜えて、ラララ。
『アニメ』編

1979年公開の傑作日本映画

『鉄腕アトム』で口火を切った巨大なる日本のアニメーション産業。ディズニーもひれ伏す「手塚治虫」ブランドの最新アニメ作品は2001年5月公開の『メトロポリス』である。『タイタニック』の「ジェームズ・キャメロン」も惚れ込んだ、その映像ワールドに海外の興行関係者も熱い注目を送っている。その監督「りんたろう」は『銀河鉄道999』の監督として1979年に名を馳せた。参考までに付け加えると、同じ年には「宮崎駿」の初監督映画『ルパン三世 カリオストロの城』が公開、「富野由悠季」の『機動戦士ガンダム』と藤子不二雄の『ドラえもん』テレビシリーズも始まっている。

機械人間として永遠の命を得ようと、メーテルと共に遠い星アンドロメダへ旅立った星野鉄郎は、目的の地で意外な真実に直面する…。『銀河鉄道999』は宇宙を舞台に壮大なファンタジーを完成させ、多くの世代を巻き込み1979年の邦画配収No.1を記録した。その設定に貢献した原作の「松本零士」は、『宇宙戦艦ヤマト』の原作者でもある。ところで『宇宙戦艦ヤマト』の最初のTV放映時、同じ曜日のゴールデンで『猿の軍団』という『猿の惑星』のパクリ番組をやっていた。『猿の軍団』は人間の味方がゴリラで、人間を襲う軍団はチンパンジーだった。映画とは逆だから許そう。

かなり古い時代までさかのぼってしまったが、『宇宙戦艦ヤマト』と『猿の軍団』のTV放映は1974年だった、『猿の惑星』が公開された1968年からこの時点で実に7年も経っており、クオリティーの低い続編の歴史もそれぞれに埋没している。さらに今夏「ティム・バートン」の手による、仕切り直しの正統な後継作が公開される。1968年といえば『2001年宇宙の旅』が公開された年でもある、こちらも今年リバイバル版が公開されて、単館系としてはまずまずの動員を記録した。ちなみに本格的な猿メイクをあみ出したのは『2001年宇宙の旅』が先だったが、その技術を盗んだ『猿の惑星』の方が、メイクアップ部門でその年のアカデミー賞をせしめた。

さて、フェイントはこれくらいにして先週のテストを思い出してください。これから模範解答を教えるからから、自己の答案と比べてみよう。

A:
スペースものをイメージして『銀河鉄道999』だと思った人は、惜しいが期待した解答とは違う。主題歌でもミリオンヒットも飛ばした『銀河鉄道999』であるが、まだメジャーでなかった「ゴダイゴ」を、スタジオ代レベルのローバジェットで映画に起用したのは「りんたろう」より「長谷川和彦」が先だった。と言いながら解答を急ぐ。『銀河鉄道999』→「ゴダイゴ」(主題歌つながり)→『青春の殺人者』→「長谷川和彦」(監督つながり)→『太陽を盗んだ男』←「新宿高層ビル」(モノリスつながり)←『2001年宇宙の旅』が正解のつもりです。



シンクロニズム:映画の論3

何がしたいんだ、おまえは。
『交わり』編

いつの間にやら21世紀

『2001年宇宙の旅』が分かりにくいとされるひとつの理由に、最初に登場する猿人達の解釈をどのようにすればよいのか理解できない、というものがある。「ある猿人の群れが突如猛獣に襲われたり、水のみ場が他の群れとの抗争の種となったり、餓えと闘いながら眠れぬ夜を過ごしたり」といったシーンが何の説明もなく延々と続くだけで、はっきりいっておもしろくない。パンナムのスペースシップを見ようと思っていた人はDVD、あるいはビデオの中身が間違ってるんじゃないかと不安に思うことだろう。

もっとも最初はナレーションが付いていたのだが、公開前に監督のキューブリックがカットしてしまっていたのだった。分かる人だけに分かればいいとする、その潔さは結果的に認められることになったが、今あらためて21世紀の映像世代が見たとしてもやっぱり真意を伝えるのは難しいだろう。より正確に理解したい人は、浜ちゃん御用達のハヤカワ文庫版を読んでもらう事にして、その部分をざっと解説するとこういうことになる。

――人類起源のアメリカのジョージア。じゃなかった、アフリカのサバンナ。あの猿人グループの中に『月をみるもの』という名前をつけられた男がいた。いや、オスだったかもしれないが少なくともジョンやジロウやというイメージではない、そいつは所詮ただのヒトザルだ。だが彼が画期的だったのは、ふと、動物の死骸の周りに転がっている骨を拾い上げ、別の骨を叩いてみせたことにある。すると叩かれた骨は砕かれ、別の骨は反作用で宙を舞った、それがとんでもない発見であることに気付くのに時間はいらなかった。

ある日彼は、骨のこん棒でイボイノシシをしとめることに成功し、堅くてやぶれなかった皮を剥ぎ、その肉を食べることを知った。不幸にもそれまで猿人達と一緒に、雑草をはみ仲良く暮らしていたイボイノシシは、それからずっと食用の家畜としての運命をたどる。餓えとの闘いに終止符が打たれた後、さらに革命的な事態が勃発する。水飲み場の支配権を争っていた猿人グループ(他の群れ)が再び現れると、『骨の武器』を手にした『月をみるもの』は勇敢な敵の頭目を一撃のもとに叩きのめすことができた。もはや安眠を妨害する猛獣の豹さえ敵でなくなった『月をみるもの』に恐れるものはない。――

「世界はいまや彼の意のままだが、さて何をするかとなると、決心がつかないのだった。だが、そのうち思いつくだろう。」(小説版/伊藤典夫訳)

『月をみるもの』が武器を手にする直接の動機は彼自身の中にはなかった、ただ、かたわらに出現した「無言の黒い岩」が何かをさせたのではないか、というのは映画が進行するにしたがって分かってくる。その人工的に見えるいわくつきの直方体を『モノリス』と呼ぶ。新宿新都心にある「新宿モノリス」もおそらく、その形やイメージから来ているネーミングであろう。日本映画『太陽を盗んだ男』の主人公、「城戸誠」がラッシュに押しつぶされながら通う京王線は、そのビルの直下を通って新宿ターミナルに到達する。



シンクロニズム:映画の論4

エネルギーとは何ぞや。
『力の伝達』編

日本を盗んだキッド

「エネルギーとは力である、力はどのように伝達するか?」。時おり原人の様な奇声を発し、校庭を囲む規制のフェンス(バックネット)に飛びかかる純粋野生の教諭が主人公。物理を教えるユルい青年「城戸 誠」(キド マコト)の、出だしのセリフが印象的な希世の痛快大作『太陽を盗んだ男』は、世界を構成する「“力”の関係性」を『2001年宇宙の旅』とほぼ同尺の2時間30分の中に押し込めた。

この映画は、公開終了と同時に忘れ去られる凡百の映画と違い、22年経た今でも映画好きたちの話題に上り続ける極めて貴重な日本映画である。しかし、『七人の侍』や『仁義なき戦い』『戦場のメリークリスマス』『南極物語』などと比較して、一般的知名度は必ずしも高くなく、誰との会話にも通用するかと言えば、それは映画ファンに限ってみても若干難しい。現にこの作品を見ている人の絶対数が限られる、若い人ではその監督の名前すら知らない。

『別ヴァラ』では、そもそもタイトルさえも知らない人が多数いる中で、ロードショーでもない色褪せぎみの映画の解説を、それも毎週やろうとしている。「うちわの自己満足じゃ読者が減るな」と思いつつ、差し迫った話どうアプローチするのか、あるいは解説して意味があるのか、という疑問を強制廃棄しながらこの連載はスタートした。

他の映画系ネット媒体が早くも夏の5大作の話題で盛り上がる中、客観的に見てかなり独断的でリスキーな展開である。だが、強引に口を開いて押し入れられるGRP(スポットの総視聴率)にもの言わせた宣伝や、未消化なまま伝えられる作品解説にうんざりすることで、観客の足が劇場から遠退いている今、その現象を忸怩たる思いで見ている関係者の一人として、その流れに抵抗してみたい気分にかられるのである。じっくり腰を据えた話題作りで、より多くの人の関心を呼びおこし劇場動員数の低下に歯止めをかける方が、送り手と受け手の関係性を論じる上では理想的であり、手をつけるにはもはや遅すぎる既成課題なのである。

こと邦画に限っては、突出した一部のムーブメントを除きその課題が少しも達成していない。逆立ちしたって日本人が作ることのできる映画は邦画しかあり得ないのに、その可能性をマスコミに寄生している編集者達が積極的に狭めているとみなされている。幸いにして、このメールマガジンには視聴率データも返本率も無関係であり、そういった規整や圧力からは比較的自由でいられる。購読者の伸び率が鈍化する事実はシリアスだが、クオリティー面での支持がなければここまで思い切ったソリューションは選択しなかったであろう。

意外な反響

この企画、実は2000年末に企画した『2001年宇宙の旅』の新世紀便乗型特集とリンクしている。話題追随的だが、やや方向が変わる事情がそれに附随して浮上してきた。くわしく言うと、同時期に都内で『太陽を盗んだ男』の上映イベントがあったのだが、それを機会にこの映画を冗談趣味で少しだけ取り上げたところ意外にも多くの人から、特集して欲しいとのリクエストをいただいたのである。

希代の映画『2001年宇宙の旅』のように、世代文化を超えてディープに語られる映画が日本にもあっていいと考えていた時だったので、件の映画が実際そうなのではないかということを受動的に認識できたのだった(全くの偶然! おそるべし電子網)。すごいのは自分と同じ妄想を先に実行している人がいるって分かったこと、読者の中に『太陽を盗んだ男』のファンがいるかどうかなんて想像する前に否定していたのだから。

『ゴジラ』『ガンダム』『エヴァ』のような「暗いジャンルもの」では一部の読者から敬遠されかねないが、この映画は多くの要素を放り込んだ「明るいメガエンターテイメント」であるので、興味の公約数はさして小さくないはずである。ストーリー解説に終始しなければ連載も可能なのではないかと考え、その手法として、より身近な誰でも知っている映画と重ね合わせながら検証することにした。この試みの原点は、映像文化を文章を用いて語ることの難しさにあり、それを痛感させられたのが『2001年宇宙の旅』であった。

カクとは何ぞや

おもしろいものを“オモシロイ”という言葉(テキスト)でしか表現できないみじめさを、ふと感じてしまった人はいないだろうか。掲示板に何かを書き始めようとして、ちょっと工夫を凝らして目を引こうと思いついてみるが、絵文字の組み合わせやくだけた表現もほぼ限界、すでに目新しさがないばかりか、ひょっとすると「過ぎ」ている。語りたいのは映像の中身なのか、それともいち早く新作を見たという自慢なのか、一方通行な言葉の羅列には誰も反応しない。

さらに、無理矢理言葉をひねり出して「書く」ことにこだわり過ぎると、文章が埋没してつまらない方向にメルトダウンする。掘り下げるのは勝手だが、客観視しながらフリースタイルで感覚や感情や何かを伝えるには意外に体力が必要なのだ、そのためには脳髄にもアドレナリンを注入しなければならない。だったら「創造力」を刺激するいい映画を見まくるしかないだろう、けっして最新作だけにこだわることはないのだ。

映画とはエネルギーであり「持久力」である、いくつもの映画のDNAでコーティングされた、その“力”を借りることができればイメージのK点突破も不可能ではない。タンパク質の固まりである『2001年宇宙の旅』を見た多くの人間が、未知のら旋の分解にチャレンジし、熱狂的な支持者は人より回数多く咀嚼することで、よりそのメッセージについての理解を深めた。啓発されたあるものは映像での表現を試み、そのスペシャルハイなインフルーエンスは、世界中に伝播して映画の底辺がヴァクハツ的に広がった。

『月をみるもの』のDNAはどのように伝達するか

右脳の弱い映画評論家の領域を離れ、ニューアカデミックな学術的素材になるにまで及んだ『2001年宇宙の旅』では、人類(類人猿)が初めて他の動物の支配権を獲得し、微減微増をくり返していた固体数が、とどまることを知らない人口爆発のフェイズに突入する瞬間を、それがどうしたというくらい退屈なヒトザルの描写に、物々しい音楽をかぶせることで表現して見せた。

人類の到達点としての、華々しい未来社会の映像が見られるのはそれに続く第2幕である。その間に挿まれた“有名なシーン”の主人公は、猿人が原人に昇格するその第一号『月をみるもの』である。場面は、「彼が手にした人類史上初めての武器“骨のこん棒”が、中空に放り投げられ、青空をバックにしたそれが上死点を超えると軌道上に浮かぶ未来兵器にすり変わる」という個所で、これは映画のテーマを表現する最も重要なパートとなる。

この切り替えは、特撮を誇示した演出手法として見ることもできるが、あえて現代人の知り得る歴史をすべてスッ飛ばすことで、思いがけない辛辣な効果を生んだ。我々が抱える小さな悩みはもちろん、現代に至るあらゆる発明、発見、事件、戦争、革命、凶悪テロも、次に登場する「核衛星」に比べれば取るに足らない事象に過ぎず、“力”がどのように伝達されたかを説明するのに、いちいち細かい歴史の解説は不要であったのだ。

1つのエポックであった「骨のこん棒」が、地上の主要都市に狙いを定めるミサイル台場に変身する。せわしない現代人の矮小な夢や、抜き差しならない絶望を、物理教室にある“振り子の玉突き”のごとくはしょらせて……。歴史を築いた何千億人の情念も二千年続く王朝も、その“力”の前にひざを屈してひれ伏さざるを得ない。それこそ力であり、あらゆる強者を無抵抗にさせる究極の実体こそ、最大のエネルギーを有しなければならない。

モノリス

『太陽を盗んだ男』序盤、原発襲撃のためのトレーニングをする主人公城戸にかぶせて、タイトルの「太陽」が“力”のメタファーであることが説明される。別段目的があった訳ではないが、彼は唐突にも原子力を手に入れることを思いついていた。そして、「太陽のように強大で美しいこの力」で始まり「原爆は誰にでも作れる。この太陽の力を君たちの手に取り戻した時、君たちの世界は変わる…」で締めくくられる、惚れ惚れする様なナレーションの背景にはなぜか新宿の高層ビル群が高くそびえている。

モノリスのごとき超高層ビルは、しばしば登場し『太陽をぬすんだもの』に啓示を与える(ように見える)。高度成長に終わりを告げた1970年代最後の年に、高層建築に象徴されるモダニズムは臨界点を迎え、新たな豊熟の種子を宿らせ始めていた。主人公を演じた“スター ジュリー”の「TOKIO」が大爆発して過去の秩序をなぎ倒し、焼跡東京のフーセンガムが膨らみ始めるのは、この映画が不発公開された翌年1980年である。



シンクロニズム:映画の論5

スポンサーの特別のご好意。
『商標』編

シンボル

『2001年宇宙の旅』には多くの巨大企業が、小道具のデザインや物語りの基本設定などで協力していた。21世紀に最も注目を集めることになる通信の先駆者「ベル」に、アメリカ航空産業の一大ブランドの「パンナム」、世界的ホテルチェーンの「ヒルトン」等がそれである。ただしベルは組織体を変更し、パンナム(パン・アメリカン)は一度倒産したあと商標権を別の航空事業主が引き継いだ。この映画は今でこそ芸術的視点で語られることも多いが、実はアートと対照的に論議されるコマーシャリズム(商業主義)とも密接に関係していた。

今で言う商材のブランドマーケティングを、結果として映画に反映させて、これほど印象的に行なった例は少ない、ただ当時の順番としては映像制作ありきであったはずだ。『2001年宇宙の旅』のプリプロ段階に頭を悩ませた問題の1つに、未来社会の美術デザインをどうするか、というものがあった。言葉ではなく、無言の映像で語るためにはどうしても説得力のある道具がいるのである。そこでNASAやボーイングやクライスラーといった企業に協力をあおぎ、それらが持つ最先端の発想を取り入れ、見返りとして画面のあちこちに企業のロゴマークを入れることにしたのである。

『JSA』の「ロッテ」、『ミッション:インポッシブル』の「アップル」、『キャスト・アウェイ』『ドリブン』の「FedEX」、『オースティン・パワーズ』の「スターバックス」など、それぞれ資金調達にどのような絡みがあるか不明だが、映画のプロデュースを行なう上での企業タイアップは、それ自体今では珍しいことでなくなっている。しかし主旨を曲げずここまでポップで斬新な絵作りをした、というのはそれまでの映画にはあまりなかったはずである。さらに言えば、日本コカ・コーラの缶コーヒーCMなど、今では商業の中に『2001年宇宙の旅』文化が、普通名詞的に侵食していくという逆流現象まで起こっている。

直訳すると「人気」という意味の言葉になる「ポップ」とは、いわゆる高尚お趣味なゲイジュツとは対極の概念にあり、例えば「アメリカンポップアート」なんかは缶ジュースのパッケージからレコードジャケットまで、一見する商業主義的なデザインさえ「広義の芸術」範疇に押し込めようとした。その意味では芸術概念を覆す一連の大衆運動と捕えることができる。極みは前述『コカ・コーラ』のブランド戦略で、空母や爆撃機を用いず飲料文化をもって汎アメリカ主義を全世界に浸透させてしまっている。

『2001年宇宙の旅』の切り取ったらそのまま商品のイメージCMに使えそうな勢いなひも付き映像は、従来のストーリー先行の映画にはまったく不要なカットであるし、洗脳的な商業侵略感を見る人に与えてしまったら映像文化の信頼性すら損なうことになりかねない。だが、この映画においては別段いやらしくもなく、むしろプラスの相乗効果を今でも感じることができる。そこには受けとり手のイメージ醸成を周到に計算した、監督スタンリー・キューブリックの策略をあらためて感じざるを得ない。

IBMとHAL

ところが、その宣伝タイアップの影にちょっとした仕掛けがしてあったとしたらどうなのか。なんの変哲もない映像素材(テクスト)に隠された意味を求める試みはとっくの昔に熱狂的なファンがやっており、何を今さらという感もあるが、基礎知識として最低知らなくてはいけないものはこれである。

世界で初めての叛乱を企てる「HAL9000コンピューター」の名の由来、悪者「HAL」の文字をアルファベット順にそれぞれ後ろに1つずらすと「IBM」になるという事実。これには映画の美術協力としてハードウェアを提供していたIBMの経営陣が激怒したのも当然であろうが、その隠されたように見えるテーマを見い出して、さらに映画の奥深さにアプローチするのも楽しい。少なくともそれを知ったからといって、この場合我々のIBMに対するイメージはちっとも損なわれない (ただし、キューブリックもクラークもIBMを揶揄する意図はないとする見解を出している)。

さて、大掛かりで記憶に残るものとしては、日本でも過去に『ゴジラ』(1954)と「森永製菓」が宣伝部マターでタイアップした例がある。服部時計店(現和光)ビルを蹂躙しながら銀座通りをのし歩くゴジラが、不二越ビル屋上の“森永ミルクキャラメル”のネオン塔を壊さないよう、営業担当者が特撮に立ち会い見守っていたという逸話も、まあ知ってる人は知ってるだろうなというぐらい有名な話である。キューブリックにも影響を与えた東宝空想科学映画の真骨頂、破壊神とも呼ばれるその映画の主人公は、日本の富(森永を除く)と権力のシンボルを踏みつぶしたからこそ、戦後の荒廃から抜けきれない鬱屈した大衆の支持を集めたのだった。

次にやっと予定タイトルの『太陽を盗んだ男』の話題が出てくるのだが、原爆怪獣ゴジラと逆ルートで銀座通りを南下するのが主人公の「原爆兄ちゃん」である。彼は国会議事堂・警視庁をはじめとして、日本国民が注視する“スーパーメジャー級の劇場”を手玉に取った後、和光ビルを背景にタイムリミットが迫った原爆を持って気もそぞろに歩いていく。しかし、戦後を完全に払拭した日本人は、もはや権力との闘争よりも個々の「おいしい生活」に向かって邁進していた。肩透かしを味わったその暴力的な結末は、さして話題になることもなく娯楽映画のひとつとして消費された。その映画にもっとも協力したと思われる協賛企業は、「被爆都市広島」の復興の象徴『マツダ』であった。



シンクロニズム:映画の論6

臨界量の算出がもっとも難しい。
『原爆』編

原子核の爆発

大戦末期、巨大な造船所がある軍都広島は、連合艦隊を失った日本の最後の息の根を止めるに相応しい格好の攻撃目標であった。そして1945年8月6日、ほとんど無防備の超高度からエノラ・ゲイが落とした「リトルボーイ」は広島市上空で炸裂した。この残虐非道な新型爆弾で、11万人以上の人間が瞬時に命を落とし、それを上回る多くの人を後遺症で苦しませた。行政機能を完全に停止したこの地で、県に工場を差し出すなどして、地域の復興に貢献したのが東洋工業株式会社であった。

それから3分の1世紀を経て『太陽を盗んだ男』に登場する小型原爆の美術デザインは、あまりオープンにされていなかった広島型原爆の原理をほぼ忠実に再現している。金属プルトニウムに爆発的圧力をかけると核分裂が起こることは、理論的に実証されていたが、それを爆薬を用いて均一に実行させる方法が技術的に未解決で、大戦当時その開発は難航を極めていた。ドリームワークス第1回作品『ピースメーカー』(1997)で、核対策チームの主人公がテロリストの仕掛けた時限式核爆弾を解体しようとするが間に合わず、窮余の策として核周辺の起爆剤のみを爆発させて被害を最小限に食い止めたのは、この基本原理の知識があれば当然の対処方であった。

核は通常の火薬のように簡単に誘爆する代物ではない、ではどうやって原子核爆発を起こさせるのか? この映画の原爆は、球状パッケージの内周りを粘土状の高性能爆薬(TNT)で敷き詰め、中央のプルトニウムを取り囲むようにして、複数の雷管を放射状に配してある。これを寸分の狂いもなく同時に起爆することで、内側に圧力を集中させる(爆縮)。そうしないことには巨大なエネルギーは発生しない、構造は打ち上げ花火と似ているが点火個所が正反対になる。

ちなみに外殻の金属球に小さい穴か、へこみでも付けておけばそこからエネルギーが外に向かって放出されるので核の連鎖(チェーンリアクション)までは起きることがない。「爆竹を手のひらで爆破しても火傷するだけ、でも握り締めれば手首ごと吹っ飛ぶ」と教えてくれたのは、穴掘り職人『アルマゲドン』(1998)。“ガス抜き効果”は物理学と文化人類学との両方に応用できる。

ヒロシマ

さて、広島出身の胎内被爆監督「長谷川和彦」が演出する最初の盛り上がり場面。修学旅行(親睦会)を引率する中学教諭城戸の乗ったバスが、イッちゃっている老人にジャックされるのだが、そのバスの横腹には「東陽観光」の文字が描かれている。「東京」と「太陽」を組み合わせてあるのは全くの偶然かも知れないが、奇しくも前出の自動車会社『東洋工業』と同音になっているのが気になる。

この会社の当時の主力商品は劇中のCMに登場する「ファミリア」である。原爆を製造している主人公のアパートで、たまたま放送されているTVのプロ野球中継が、局の編成都合上定められた時間が来ると、当然のように終了してしまうのだが、その後流れるノー天気なクルマのコマーシャルが「ファミリア」のものだった。あからさまにブランドネームがアップになるあたりは、協賛社に対する配慮を感じとれるが、なぜ「MAZDA」なのかは「IBM」同様うがった見方をしなければ分からない。ちなみにそのナイターの対戦カードは巨人対広島である。

東洋工業株式会社は後の1984年、社名を『マツダ株式会社』に改めるが、その名の由来は人類文明発祥とともに誕生した神『Ahura Mazda』にある、「MATSUDA」じゃないのはそのためだ。灼熱のサバンナで人類が創世したように、焦土と化した広島からロータリーエンジンで世界に名を轟かせる大自動車メーカーが成長していった。そして映画後半には、小学生に大ブームを巻き起こしていた“スーパー・カー”ルックの『サバンナRX−7』が活躍する。人気取りは分かるにしても、背景まで考えると出来過ぎた偶然になる。

人類創世潭といえば『2001年宇宙の旅』を思い出すが、第1幕アフリカのサバンナの役者は、神のごとき役割りを果たすスーパー・オブジェクト「モノリス」、そして「ヒトザル」、「イボイノシシ」と「ヒョウ」であった。それらは進化をくり返し現在どうなったのか。協賛車両の『サバンナ』を文字どおり派手に乗り飛ばすスーパー・マン城戸は終止無感情であるが、少しだけ愛情の片鱗をのぞかせるシーンもある。その対象動物はなんだったのか、答えは次回以降ニャロメ。


シンクロニズム:映画の論7

9の次は0なんだ。
『ブタ』編

ボクの先生は

広島型原爆の原料はウラン235であるが、城戸が作っていた爆縮型原爆の中心原料は長崎型原爆「ファットマン」と同じプルトニウム239であった。実験データの欲しかったアメリカは、日本人の戦意喪失のためというよりも、その効果を確認するためにわざわざ条件を変えて対比テストを行っていたのである。その犠牲者は、『2001年宇宙の旅』で猿人「月をみるもの」が最初に殺した「イボイノシシ」と同類である。彼らの子孫は飼いならされるに従い『ブタ』へと進化した。

いたずらに生身の国民50万を被爆させた戦勝国に、戦後急速にすりよった敗残国の国旗は、「太陽」をかたどった『日の丸』である。原爆を密造するアパートで「マツダファミリア」のCMの次にテレビ画面に映っていたのは、日本放送協会の放送時間終了を告げる「日の丸映像」、テーマ音楽はもちろん「君が代」。ナイター中継の巨人vs広島戦に引き続き、広島の代表的企業「マツダ」のCMを持ってくる見事な当てつけぶりは偶然なのか計算なのか。

原爆を保有していいのは国家のみ。しかし、アメリカに押し付けられた憲法を遵守する付和雷同日本は、善くも悪くも核兵器を持つことができない。そんな中、一見無気力な3年3組の担任教師は原爆の製造に成功し、自らを『キュウバン』と呼び日本政府に脅迫要求をくり返した。アメリカに牙をむいたラテンな国民「CUBAN」(キューバ人)、野球ではレフト(左翼)を意味する「9番」、いやそうではない「9番目の核保有国」という意味である。したがって軍事力では日本に優越するのだ、とその名前で宣言しているのである。

ナインマンス

オタマジャクシの形をした9という数字には飽和と誕生のイメージがある、ひと桁の数字では最大の9の次は0しかない。この映画が製作公開されたのは1979年、行き場を失う程爛熟した生活文化が出口をもとめて迷走し始めていた70年代最後の年。戦争の記憶を引きずる者は隅に追いやられ、新しいが不安定な時代を反映する気分が、この映画に挿入される風俗現象にも現われている。高度経済成長がとっくに終わりを告げ、大時代的目標を喪失したサラリーマンの自殺が急増し、安定を子供に託した結果としての受験競争が社会問題化するなど、人々の関心はミクロな領域に吸引されて行く。

長崎の佐世保でアメリカ軍空母エンタープライズの寄港阻止闘争を闘った学生は、その後売れっ子商業文案家になり、この映画に「ボクの先生は、原爆をもっている。」のキャッチコピーをつけた。「ボクの先生はヒーロー」と言えば、『3年B組金八先生』に引き継がれる先生ブームを巻きおこした水谷豊の『熱中時代』であるが、原爆作りに熱中する悪魔のような先生は、ブタのごとく消費することが美徳だったこの時代の家畜となることを否定し、明確でない何かを主体的に生産しようとした。しかし、極大から極小へ収れんされる大カタストロフ後のゼロの地平に、どんな種を蒔こうとしたのか、その先生は簡単には教えてくれない。

『太陽を盗んだ男』がひとり80年安保闘争を演じた9年後、昭和天皇は死に至る病に臥せり「お元気ですか」のセフィーロCMが消える。同年、映画『AKIRA』(平成0)の中で東京が核の餌食となり、世田谷の砧南中学校では村上龍の小説『69』を地で行く「9の字事件」が起こってもいる。ところで、長崎県出身の村上が東京に未曽有の危機を現出させた『愛と幻想のファシズム』の準主役の名前は「相田剣介」、ニックネームはなぜか『ゼロ』。『ゼーレ』(Seele)が陰で糸を引き、新型爆弾で東京を消滅させた『新世紀エヴァンゲリオン』では9体のエヴァが地球をリセットしたが、後者『エヴァ』にも同名の登場人物がいる。

一方この映画に準主役として登場する沢井零子(池上季実子)は、原爆製造中の城戸が好んで聞いていた深夜ラジオ番組のDJである。番組の名前は『ゼロのブタブタジョッキー』、タイトルあたまの『ゼロ』は零子のニックネームから来ている。零式艦上戦闘機のことをゼロ戦と呼ぶのと同じ理屈であるのは分かるにしても、なぜにブタなのか? 知ってる人は教えて下さい。



シンクロニズム:映画の論8

あたしゃ、蚊じゃありませんよ。
『熱帯時代』巡査編

モスキートパニック

“ニッポンの夏、金鳥の夏”。城戸は催眠ガスを封入したキンチョールを持って交番を襲撃する、都政への愚痴をこぼす以上のことは何もできない公僕から拳銃を奪うためだ。ところで、『太陽を盗んだ男』の中で彼が最初に殺す生き物はイボイノシシではなく、そのとき巡査(水谷豊)のほほにとまったヤブ蚊であった。異常気象により年中夏の暑さが去らない『エヴァンゲリオン』のように、この映画の設定する新緑の春には早くも猛暑が訪れていた。

とにかく熱帯のハグレエイプスのDNAを隔世遺伝した城戸は、国家の番犬を平手で叩いて季節外れの繁殖害虫を撃退した。さて、『ジュラシック・パーク』(1993)で、恐竜のDNAの運搬に一役買ったのは眠れぬ夜の超軽量制空戦闘機『蚊』であるが、それを迎撃する瀬戸物の“蚊取りぶた”(正式名称調べる気なし)はなぜにブタなのか? 知ってる人は教えて下さい。


・伊達影介・kagesuke@variety.jp


上記はVARIETY-J MAIL MAGAZINEにて連載中のものを再編集したものであり、これを流用する方は著者の許諾を得る必要があります。また、最新のものはこちらから無料購読の申し込みできます。
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